【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑤価値観のインフレ発生!「神宝館」、フロア全部「国宝」状態の凄さ


注意!しばらく「第二宮・第三宮」は修復工事中

高宮斎場から下り、右手に曲がると第二宮・第三宮があります。第二宮には沖ノ島の沖津宮に祀られている「田心姫神(たごりひめのかみ)」、第三宮には大島の中津宮に祀られている「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」の分霊がそれぞれ祀られています。
現在は修復中とのことでお詣りできませんが、神さま方の分霊は、本殿のほうに遷してあるので、そちらで一緒にお詣りすればいいとのことでした。
じつは、こちらの第二宮・第三宮の建物は伊勢神宮の内宮別宮(ないくうべっくう)の社殿だったものだそうで、伊勢神宮にしか許されない建築様式「唯一神明造」だと聞いていたので、できれば拝見したかったんですよね。残念!

もし、こちらもぜひ、という方がいらしたら10月以降に予定されるといいと思います!(できれば、電話で確認したほうがいいかもしれません)

「神宝館」、そのほとんどが国宝という贅沢さ

そして、沖ノ島の神宝をおさめた「神宝館」へとやってきました。

「沖ノ島神宝」8万点は、一括して国宝に指定されています。「海の正倉院」とも称される沖ノ島の神宝は、4世紀後半から約550年もの間の、貴重な古代祭祀の遺物であり、祭祀の姿が変遷していく様を、そのままに伝えてくれています。

今回、ちょっと冷静な面持ちでこちらを拝見できたのは、2014年8月に丸の内の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」でちょっと免疫があるからなのです。有名どころは今回二度目、というものもありましたので、だいぶ落ち着いてみることができました。
それにしても、あれもこれもそれも「国宝」!
同じフロアを見ていた年配の男性グループが「なんじゃ、どれが国宝なんかわからへんのう」「ほんまや」といった会話をずっとしておりましたが…

――お父さんたち。

ここのフロアにあるもの、全部「国宝」、っすから!!

と話しかけたくなるのをずっとこらえるのが大変でした。
確かに沖ノ島関係の展示、全部国宝なので、わけわからなくなります。
普通だったら大きなフロアに国宝が一点ある、とかですよね。
未指定のもの、市指定のもの、県指定重要文化財が来て、国指定文化財、そして、一番盛り上がるところに……「おおお、これが国宝ですか!」どっかーん、…みたいな感じじゃないですが。それだって十分にすごい話なわけです。
しかしここでは価値観のインフレが起こっちゃうって言うか…

3階フロアの後半に、社伝の文化財も展示されてましてですね。宋代の狛犬や、足利尊氏奉納の胴丸と兜に、宗像大社文書など、大変貴重なものばかりです。すべて国指定重要文化財なんですけど、むしろ目立ちますよね。逆に。

春日大社さんの国宝殿も同じような気持ちになりましたが、ほんと、あるところにはまとめてあるんですね。

(ご覧のように立派でなかなか広い建物ですので、ご注意を!)

あ、とんでもなく余談ですけど。
こちらの建物三階建てでかなり広いですし、何しろ展示されているものも国宝ばかりで、時間をかけて拝見したくなりますが、おトイレが一階にしかないので(ムトウ調べ、たぶん)、気を付けてください!
私は、三階でおトイレに行きたくなったのですが見当たらず、かなり焦ってはしたなくも失礼ではありましたが、階段を走り下りておトイレ探してしまいました。ちなみに、エレベーターは一基あったと思いますが、一般の方は階段を使用、という感じでしたのでその点もご注意を。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】④宗像大社辺津宮に在る「聖地」の空気感


いよいよ宗像大社へ、GO!

東郷駅近くの日本料理店「史」で、美味しいお魚を堪能した後は、バスに乗って宗像大社を目指します。

余談ですが、宗像市って「宗像駅」がないんですね。宗像大社の最寄り駅は、「東郷駅」。市役所の住所を見ても「東郷」なので、このあたりが中心地ということになるんでしょうか。
宗像市のHPを見ると、昭和の大合併(昭和29年)の時に、東郷町、赤間町などの町が合併して「宗像町」となり、その後人口が増えて「宗像市」になったんだそうなので、その気配を今に伝えている、と言ってもいいのかもしれません。

駅のある内陸部から、海の方へと向かいます。ちょっと岡みたいな地形、のどかな田園地帯を越えると左手にいよいよ現れました!

宗像大社、辺津宮です!!

さて、ここから正面を歩いて行きますと…

石橋のさきに二の鳥居が見え、その先の本殿が見えてきました。

おおお。
なんとも重厚な、厳かな本殿です。

世界文化遺産に登録が決定した矢先でしたので、ひとで溢れているかと思っていたのですが、そんなことはなく、とても静かです。

こちらが本殿・拝殿です。
こちらには、「宗像三女神」のうち、「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」が祀られています。

さっそく本殿にお詣りしご挨拶をすませると、以前友人がプレゼントしてくれた宗像大社パンフレットのマップを見てみました。(以下、パンフレットからマップを転載)

お寺さん以上に、神社は敷地が広いことが多いですよね。
しかも、思いもよらない小さなお社が実はとても重要なお社だったりします。ですので私の場合、初めて参拝するときには、社務所の方にどのような順でお参りするとよろしいでしょうか、なんて聞いてしまうこともあります。
大きなお社なんかですと、こうした地図の入ったパンフレットを配ってらしたりしますので、ぜひ社務所などをチェックしてみてくださいね!

さて、せっかくですので、このパンフレットにある通り「推奨ルート」の順に巡ってみたいと思います。

古代祭祀の姿を伝える「高宮斎場」――神籬(ひもろぎ)とは

国指定重要文化財の本殿・拝殿(安土桃山時代再建)も素晴らしいのですが、今回、実はもっとも楽しみにしていたのは、この二番目「高宮斎場」を拝観することなんです。

静かな木立の中を進んでいきますと、15分ほどしてぐんと空気が変わるエリアに到達しました。

参道を進んでいくと直角に左折、その正面〔どん詰まり〕ではなく左手に、木の柵で覆われ、平らかで玉石がひかれた広場が現れました。周囲には常緑樹が茂り、祭壇の先には「神籬」と思われる枝の別れた常緑樹が見えます。

「神籬」は神の依り代(しろ)のことです。
この高宮斎場は、宗像三女神が降臨した場所だそうで、今も古式ゆかしい神籬ならではのお祀り方をされているということだそうで…。宗像大社さんにとって、沖ノ島と同じくらい大切な場所なんだそうです。

すみません、上の写真では、実際の中の様子がよくわからないと思います。
しかし、気配に押されて写真撮るのやめちゃいました(びびり)。

私以外に人がいなかったということもありますが、この濃密な空気ときたら…。これは「お行儀良くしなければ…」と思ってしまう場所ですよ。

なんとなくぎこちない形で拝礼すると、少し緊張したまま、来た道を取って返します。先ほど左折したところ右折すると、「ほうっ」と息を吐きました。ここから、空気が軽くなるんです。

いや、こんなこと言うと「???」と思われてしまうかもしれません。単に私はびびりだからかもしれませんが、ある種の「危機察知能力」が強いんじゃないかと思うんです。
霊感、とかそう言うのともちょっと違います。もっとプリミティブな衝動というか…
動物が生存するために持っている直感のようなもの…(多分)。

ですので、けっこうこの感覚あたります。
そんな経験があるので、「わ、わわ…」と感じるところには入りませんし、入ったとしてもものすごく大人しくします。理屈じゃないこうした感情を、古来、「畏れ」と呼んできたのかもしれませんね。

「聖地」というのは、古来より聖地であることが多いと思いますが、それはどの時代の人間にとっても、何か「畏れ」を感じさせるものがその場所にあり続けている、ということなのではないでしょうか。

宗像大社の高宮にも、そんな空気を感じてしまったのでした。

(つづく)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】③祝・世界文化遺産決定!「宗像大社」――海人族ムナカタ氏に思いを馳せる


「ムナカタ」氏という海の民の壮大なストーリー

2017年7月9日。

紆余曲折あって関係者各位をやきもきさせたと思いますが、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が、一括して世界文化遺産に登録されることが決定しました。ほんとよかったですね。「一括して」というところが大切です。そこのところにこの場所の大切な「意味」、「ストーリー」があるわけですからね。

その壮大なストーリーこそ、古代海人族の雄・「ムナカタ」氏の、大いなる歴史の証なのですから。

「ムナカタ」と聞くと、大方の古代史ファンは、「おおぅ…」と言って少し溜息をつくのではないかと思います。

『古事記』の有名な「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)」で、アマテラスがスサノオの刀を嚙み砕いて吐き出した息の中から生じたという女神、『宗像三女神』。

この『宗像三女神』は、数ある神々の中でも特別な神さまたちといえます。

アマテラスが、

「汝三神は、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祀かれよ」
――「そなたら三神は、道中〔みちなか・朝鮮半島との航路、玄界灘のこと〕に降臨し、天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」

と、じきじきに「神勅」〔神のよる命令のこと〕をしたという、特別に重要な神々なのです。

あるいは、

『日本書紀』にある、大海人(おおしあま、おおあま)皇子の嬪(ひん)・胸形君尼子娘(あまこのいらつめ)――大海人皇子の長男で、太政大臣にもなった高市(たけちの)皇子のお母さんの名前に、その名があることをふっと思い浮かべるのではないでしょうか。

大海人皇子とは、のちの天武天皇ですが、この人がまた「海」の気配の強い人です。

その名の「大海人」は、皇子を養育したとおもわれる氏族「凡海(おおしあま、おおあま)氏」からきているようなのですが、この凡海氏は、安曇氏と同族とされる人たちなんだそうです。宗像氏と同様、海人族のひとつなんですよね。
その大海人皇子の、最も早い時期の奥さんの一人に、胸形君徳善の娘がいるということは、なんか無関係じゃないような気もします。

海の民と、天孫族(大王〔天皇〕家)が交錯するお話の数々。

ロマンですな~。いや~。

 

いよいよ、通史上最も苛烈な海域のほとりに立つ!

血沸き肉躍る………

この海域を眺めると、そんな思いにとらわれるのは私だけではないはずです。


今回まず訪ねた「宗像大社」は、正確にいうと「宗像大社辺津宮(へつぐう)」のこと。宗像大社は三つのお宮があり、それぞれに女神が祀られているのです。

辺津宮は、福岡の博多駅から電車で約40分、東郷駅下車。バスで20分ほどのところにあります。

上の図をごらんいただけるとわかりやすいかと思いますが、朝鮮半島へ向かう航路の重要なポイントに、大島、沖ノ島と、それぞれのお宮があったであろうことがわかります。

そして、話題の沖ノ島は、玄界灘のちょうど中央にポツンとある孤島であり、対馬と大島のちょうど半分あたりに在ることが分かります。
なるほど、ここで航海の無事を祈ったりするのは、心境としてもとてもよくわかる気がしますよね。ここから先に見えるのは、しばらく海原ばかり。熟練した海人族といえど、神の加護を祈りたくなるポイントなのではないでしょうか。

…さて、そんな気持ちで東郷駅に降り立った私は、決然と日本料理屋さん「史」へと向かいました。

まずは腹ごしらえですよ。

大事ですよ!
その土地のものを食べるということは!

私は旅をする時、できるだけ速やかに、その土地に身を馴染ませる必要がある、と感じるのです。
チューニングするって言うか。
そのためには、いかにもその土地らしいものを食べるのが一番です。

…というわけで、お刺身とてんぷらの定食をいただきました!
ご飯は「蒸し寿司」だそうですよ。あったかい少し酸味のあるご飯です。美味しい!

それにしても、玄界灘のお魚ってなんだってこんなに美味しいんでしょう。
豊かな海ですよね。ほんと。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】②「対馬」から「東アジア」を感じ、考えてみたい


九州と朝鮮半島の間に在る「対馬」

そして、もう一つ。
このあたりでどうしても気になっていた場所がありました。

九州島と朝鮮半島の間にある、「対馬」です。

距離からすれば、九州島よりも、朝鮮半島のほうが近い「対馬」。
対馬の北部からですと、釜山までほんの50キロしかはなれていないのです。博多港までは140キロほどだそうですから、その距離感の強弱はお分かりいただけるかと思います。

(写真:博多港から高速船で2時間15分。いよいよ姿を現した対馬は、唐突に目の前に立ちはだかるような急峻な山島でした)

 

『魏志倭人伝』でも、対馬国は「倭国のひとつ」だった

しかし、『後漢書倭伝』や有名な『魏志倭人伝(『三国志 魏書東夷伝(とういでん)』)』の時代から、対馬は「倭国」なのです。

ちなみに、『後漢書倭伝』には「倭の西北と境界をなす狗邪(くや)韓国から七千余里離れている」とあり、その後漢書を参考にかかれたと思われる『魏志倭人伝』には以下のように表現されています。

『倭人は帯方〔郡〕の東南大海の中に在り、山島によりて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を歴て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸・狗邪(くや)韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)のみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。』
*『三国志 魏書東夷伝』『日本大百科』掲載文を改定。〔 〕内は筆者による。

これを読むと、当時の対馬人がどう考えていたかは倭国側の史書が残っていないのでわかりませんが、少なくとも「後漢」や「魏」の人は、対馬は「倭国」だと考えていたということがわかります。これが当時の東アジア社会の共通認識だったと考えていいんじゃないかと思います。

しかし、本当に、とても不思議な気がします。
地理的には朝鮮半島のほうが圧倒的に近いのです。単純に考えたら近い方が親和性が高いような気がしてしまいます。でも、そんな単純な話ではないんですよね。これだけ離れているのに、「倭国」という認識があるということは、距離以外の何か理由があったと考えるべきでしょう。

(写真:対馬の博多側の玄関口・厳原港。島が大きすぎて、島という感じがしません!さすが!)


そして、宗像、対馬、壱岐へ旅立つ!

私は、実際にその場所~対馬~に立ってみたいと思いました。
対馬という場所に立ってみて、その地点から朝鮮半島や日本列島や中国大陸を考えてみたい。どう感じるのかを、確認してみたい、そんな気持ちに囚われたのです。

そうして、対馬について調べ始めました。
そうしましたら、この「対馬」という場所が、「日本」の文化や歴史にとって、とても大切な場所であるということがちょっとずつわかってきました。

そしてもう一つ一緒に、というのはなんですが、その対馬と九州島の間にある「壱岐」にもむくむくと興味が湧いてきました。「壱岐」も倭国の国のひとつとして、『魏志倭人伝』などに登場する由緒ある場所です。

宗像、そして対馬、壱岐。距離で言えば、宗像→壱岐→対馬なのですが、今回の旅では、「対馬」をメインに考えて、「宗像→対馬→壱岐」の順で巡ってきました。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】①「海の国・日本」の大切なルーツをたどりたい


「日本文化」のおおもとを感じたい

40年余りの人生を振り返ってみますと、どうも私は、自分自身が生まれ育ったこの「日本」という国のおおもとを感じたい、という欲求に突き動かされ、動き回っているような気がします。

きっかけはひょっとしたら、子どもの頃に、縄文土器を見つけたことかもしれません。私が生まれた家は、縄文時代の住居跡の上にあり、発掘調査は済んでましたが、それでもちょっと掘れば土器の破片が出てくる場所でした。

その縄文土器はおそらく後期ぐらいのものだったんでしょうね。かなりデコラティブな文様のものもあって、そりゃもうかっこよかった。
と同時に、弥生時代と思われる薄い土器や、もっと下った時代と思われる土師器も一緒に出てきました。実際には重層的に積み重なっていたんでしょうけど、子どもが穴を掘るので、結局混ざって出てきているような感じになるわけですね。

私が暮らすこの土地には、信じられないほど長い時間、誰かが暮らしていた――。

そう考えると、何とも言えない豊かな気持ちになるんです。
私もいつか、その大きな流れの流れに帰っていくんだ、そんなふうに思うと、私は孤独ではない、そう感じられてホッとしたものでした。

そんな経験があったからでしょうか。

そうした気持ちを感じられる場所が、私の大好きな場所になりました。そんな場所はつまり、「太古から繋がる何かとアクセスしやすい場所」ということになるのです。

それは不思議と縄文時代の遺跡や、古墳、お寺や神社がある場所と重なります。
どんな時代でも、「ここは…?!」と、人間が感じる場所はそうそう変わらないということでしょう。なんとなく気持ちがいい、畏れ多い、感謝したい、そんな気がふと起こってしまう場所というのは、いつの時代でも共通なのではないでしょうか。

(写真:飛行機から見た富士山。富士山もまさにそんな場所ですね!)


古代日本を動かしていた海人族、安曇(あずみ)氏と宗像(むなかた)氏

さて、私たちが暮らす「日本」の最大の特徴は、「島国」だということでしょう。
島国ということは、四方を海に囲まれていますから、海を自由に行き来できる技術を持った人たち「海人族」が力を持つようになる、ということは自然な流れです。

そんな海人族の中でも、特に有名なのは、安曇(あずみ)氏、そして宗像(むなかた)氏です。
「安曇」と聞くと、信州の安曇野を思い浮かべる人も多いかと思いますが、それ、正解です。安曇野は山間部にありますが、安曇氏は日本中に散らばって今も地名や神社などにその姿を残しています。

そして「宗像」氏。――「むなかた」。
最近耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。
つい数週間前に、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産に登録されることが決定しましたね。

この「沖ノ島」は、祭祀が行われていたその姿をそのまま今に伝えている大変貴重な場所ですが、そもそも「宗像大社」の「沖津宮」です。

(写真:宗像大社・辺津宮正面。一般的には宗像大社といったらここを想像するかもしれませんが、宗像大社そのうちのひとつ、ということなんですね)
私は、かねてよりこの「安曇氏」と「宗像氏」などの海の民の本拠地であるこの地域に興味津々でした。奇しくも、というか必然なのかもしれませんが、この海人族は両方とも北九州で発生した氏族なのです。
安曇氏の発祥地は「筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町)」とされていて、宗像大社から20キロしか離れていない場所にあります。ほんとに近いですよね。
この至近距離から、これだけの勢力を持つに至った氏族が二つ出ているというのは、偶然ではないのでしょう。それだけ、この海域が重要な場所だったということを想像させます。

安曇氏も、宗像氏も今の日本の礎となるような、重要な存在です。
…ううう。
これは、やっぱり実際にその場に行ってみたい。その場に立ってみたいですね。

(続く)

【2016沖縄旅】②「ヤマト」と「ヤマトンチュ」


「ヤマト」から来た人
沖縄に行くと、
「どこから来た? ヤマトからね~?」
なんて話しかけられることがよくあります。

「ヤマト」とは、本州など、沖縄以外の日本のことをさします。そして、ヤマトの人のことを「ヤマトンチュ」、また「ナイチ(内地)」、「ナイチャー」というのもあります。
以前ですと、「ナイチャー」と言うと少々マイナスの意味合いがあったようですが、今はだいたいニュートラルな意味で使われるように思います。

私が初めて沖縄を旅した時、「ヤマトから来た?」と聞かれて、「ほへ?!」と一瞬考えて、「そ、そうです」と答えたことを印象深く覚えています。

なぜ一瞬考えたかとと言うと、私は自分がヤマト(大和)の人間であると思ったことが一度もなかったからです。あえて言うなら私は「ムサシ(武蔵)」の人間というか……。

敬愛する歴史家・網野善彦先生も、沖縄を訪ねたときに「ヤマトの人」と言われて、その都度「自分はヤマトの人という意識は持ち合わせていない、あえて言うなら甲州人です、と答えた」とも書かれてます。
私はそれを読んで「網野先生もそう思いますか?私もです!」と膝を叩いたものでした。

だって、ヤマトといったら「大和」ですよね。大和と言えば、今でいうと奈良県のあたりですもん。奈良は大好きな場所ですけど、それとこれとは別問題。
もし、ヤマト朝廷という意味で広義にとるにしても、関西発の政権であって、関東の人間にとっては外から来たもの。自分がヤマトの人間とは思ってないんじゃないかな、なんて思うわけです。

先日沖縄の友人にこの話をしましたら、え!そうなの?そう思うんだ!とびっくりしてましたが、そうかそういえばこういう話はしたことがなかったかも…
あ、でも、そう思うのは、私が歴史に興味があるから感じる感覚・こだわりなのかもしれない、一般的な感覚とはちょっと違うかも…。
もちろん、いやだとかってことじゃないよ~!…なんて話したのでした。

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〔写真・本文と関係ないですけど、大好きなナカグスクの写真、アゲイン)

いつから「ヤマト」?
さて、そういえばちゃんと考えたことがありませんでしたが、ウチナンチュが「ヤマト」と呼ぶようになったのはいつからなんでしょうか。

ちょこちょこっと調べてみましたが、やっぱり辞書などはすぐには発見できません。
そこで、困った時の沖縄学の父・伊波普猷先生の『古琉球』へ…

随分久しぶりに手に取りましたが、昔読んだときは意味わかってなかったんですね、改めて読むとすごく面白い!だいぶ理解できる気がします。私も大人になったなあ…

それはともかく、ぐいぐい読み進めていきますと……
あ、ありました!論考「琉球人の祖先に就いて」の中に、次のように書かれています。

「…それから7世紀の頃に南島人が初めて、大和の朝廷に来たことは国史の語るところであって、当時朝廷では訳語(おさ)を設けて相互の意志を通じたという事があるから、分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える。しかし九州地方と南島との交通はそれ以前からあったのであろう。これから十二世紀に至るまで沖縄半島の住民が大和または筑紫に在来していたことはオモロを見てもわかる。何よりもよい証拠は今日に至るまで琉球人は内地のことを大和と言っていることである。後世大和は鹿児島を指すことになって、明治十二年頃の沖縄人は東京を鹿児島と区別するに大大和という語を用いた。……」(P64より引用)

伊波先生は、『おもろそうし』の研究で、日本上古で使われていた古い言葉がたくさん『おもろ』に発見できることなどと、ほかのいくつかの論拠をもって言語学的な立場から、大和民族と沖縄民族のルーツは同じものである、とする立場です。
なので、「分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える」という表現があるんですが、それはさておき……

これを拝見しますと、少なくとも『おもろそうし』の中では、「ヤマト」と呼ばれていることが分かりました。

『おもろそうし』は、琉球古語による沖縄最古の古謡集で、「沖縄の万葉集」と呼ばれたりします。国王により三回にわたって収集され、第一次は1531年、第二次は1613年、第三次は1623年、全1554首・全22巻という大作です。

12世紀ごろからの古謡が収集されている『おもろそうし』ですので、この中にあるということは少なくとも12世紀ごろには「ヤマト」と呼ばれていると思っていいのかなと思います。

「ヤマトンチュ」と呼ばれていたかどうかはちょっとわかりませんが、少なくとも800年あまり、ウチナンチュは、本州人を「ヤマトの人」と呼んできたということですね。

伊波先生の著書を読みますと、日本の古い言葉が沖縄言葉の中にたくさん残されていることを知ることができますが、この「ヤマト」という言葉もそうかもしれません。

たとえば、7・8世紀ぐらいの武蔵国(現在の東京・埼玉付近)でも、「西の方にある大きな政権」のことを「ヤマト」と呼んでたんじゃないかな、なんて想像するのです。
しかし、その後「ヤマト」がトップだった時期は終わり、政権主体も場所も変化していくなかで、呼び方も変化していきましたが、沖縄の中ではその言葉は保存された……。

そう考えますと、「ヤマト」、「ヤマトンチュ」という言葉は、なんとも歴史と趣きのある、奥ゆかしい言葉だと感じます。

「ヤマト」=「大和」という意味ではない。沖縄で、「ヤマト」=「日本列島の住人」という意味で長く使われてきた沖縄言葉ということなんですね。

これまでは、「はい、ヤマトンチュです」と答える時に、

「でも本当は埼玉生まれなんです、ヤマトではないんだけどな~」

という、ちょっと照れくささというか戸惑いがあったのですが、そう考えたらもう戸惑わなくていいのかも、と思うようになりましたw。

(むとう)

【2016沖縄旅】①「琉球」と「沖縄」、二つの呼び方、どちらが古い?


告白。沖縄への思い
久しぶりに大好きな沖縄に行ってきました!
今回の旅は、15年余り通い続けた中でも、ちょっと特別な旅だったように思います。

大好きな沖縄を、あくまでも「プライベートな面での心のオアシス」として保存しておきたかった私は、仕事で沖縄の本をつくったことはほとんどありません。例外的に一冊だけ、沖縄味噌のレシピ本を作ったことがあるだけです。
「仕事」はシビアな世界ですから、大事な沖縄をそこに絡ませたくない、とそんな気持ちがあったんですね。

しかし、そもそものことを考えてみると、私が沖縄に通うきっかけになったのは、間違いなく本来私が追い求めてやまないもの、『歴史と文化』ど真ん中への興味からだったのです。

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〔写真:ナカグスク)

まず、最初に度肝を抜かれたのは、「中城(ナカグスク)」の美しい石積みでした。全く予備知識がないまま、訪れた中城にすっかりはまってしまい、書店に直行。沖縄には「グスク」という城郭と聖地を足して二で割ったような、本州にはない素晴らしい遺跡があることを知りました。
そして御嶽(うたき)、ユタに代表されるような、濃厚な宗教世界に圧倒されました。

そして音楽。私はもともとソウルミュージックやロックが大好きでしたので、沖縄の音楽シーンは堪らなく魅力的でしたし、また、民謡も大好きになり、結局登川流で民謡を習うまでになりました。
さらに、もちろんもっとも魅了されたのは、沖縄に住む人たちでした。
大らかで茶目っけたっぷり。うちなーぐち(琉球語)がまたたまらなくいいかんじ。
通ううちに、尊敬するミュージシャンのねえねえ方に知り合うことができ、それでかわいがってもらうようになったもんだから、もう居心地良いったらないわけです。

いや~、ほんとどっぷりですよ!

ところが、今回の旅で、一つ自分の中で明らかに変化したことがありました。

「大事だからこそ、仕事でも、沖縄のことを書いたりしてもいいのではないかしら」

ここのところです。
今の仕事も、好きでやっていることです。いつも余裕なしでキュウキュウ言ってますけど、しかし、やはり好きでやっている仕事です。そのど真ん中で、もっと好きな沖縄に関して発言してもいいのではないかしら、と急に思うようになったのでした。

「琉球」と「沖縄」という呼び方

そんなわけで、仕事とはいいがたいですが、本HPでもちょっとまじめにトピックスを書き出していきたいと思います。
まずは、「琉球」と「沖縄」という呼び方について。意外となんとなーくで使っていますが、この呼称、いったいどういう違いがあるんでしょうか。

なんとなく、「琉球」のほうが本来の呼び方であって、「沖縄」は、いわゆる明治政府による「琉球処分」により、「沖縄県」になって以降の名称、と言った印象が強い気がします。それはそれで、間違いではないのですが、「沖縄」という名前も古くて、とても大切な呼称である、ということは意外と認識されていないような気がします。

まず、「琉球」ですが文献に出てくるのはかなり古いのですね。

636年『隋書』の「東夷伝」に「流求」とあるのが、最初です。その後、14世紀後半に明国によって「琉球」と表記すると決められ、それに周辺諸国が倣った、ということのようですね。

一方、「沖縄(おきなわ)」が文献に登場するのは779年、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に、「阿児奈波嶋」とあるのが最初のようです。

鑑真さんは、あの唐招提寺を創設した偉大なるお坊様で、皆さんよくご存じと思いますが、何と沖縄に漂着していたんですね!

『日本歴史地名大系』によりますと……

「同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波嶋」に到着したとある」

とあります。

その読み方は、「アコナワ」「アジナワ」「アルナワ」と、諸説あるそうなのですが、歴史学者・東恩納寛惇さんは「島民の語音ウチナワを表記したものであろう」と『南島風土記』でのべておられるとのことで、つまり、もともとの住人は「ウチナワ」と言っていたということだと思われるのですね。

国際語としての名称が「琉球」

こういう現象は、現在でもたくさんありますよね。

たとえば、私たちは日本人で、自分の国のことを「二ホン」「ニッポン」と呼びますが、海外では自ら「ジャパン」と言いますね。それと同じ。

それと、数年前に、ミャンマーの友人に、軍事政権によって国名を変更されてしまったのは、いやじゃない?と聞いたことがあるんですけど、
「ちがうんだよ、ブーマと同じくミャンマーという国名も古い名前で、国内ではそう呼ばれてたから、政府が変更したわけじゃない。国際的な呼び方もミャンマーにするって宣言しただけだから、別に違和感ないんだよ」

へえ、そうなんだ!と驚いたことがありますが、あ、そういや日本だって二つの名前があるもんな~、いや、二つの名前どころか、中国語だとリーベンだし、タイ語だとイーブンか…いろいろありますね。

沖縄もそういうことと言えそうですね。

地元の人たちは、自分たちのことを「ウチナワ」と呼び、対外的には「琉球」と呼んだ。「琉球」という名前は外側から与えられた名前ですが、それはそれでいろんな国の人が分かってくれるなら便利でいいかな、という感じだったかもしれません。

そして、「沖縄」という漢字、これも当て字となるわけですが、これは、『国史大辞典』によると、

『「オキナワ」の宛字のうち、『おもろさうし』の「おにきや」は古い呼称とみられるが、ほかに悪鬼納・倭急拿・屋其惹などがある。「おきなは」と最初に表記したのは長門本『平家物語』で、初めて「沖縄」の文字を使用したのは新井白石の『南島志』である。』

とあります。こちらも、歴史がありますね。「おきなは」の表記は、13世紀初頭の平家物語にはもう出てくるんですものね。新井白石の『南国志』は1719年に書かれてますから、これも古いです。
(とはいえ、いっぽうでこの「沖縄」という呼称が日本サイドからの呼称として、広く一般的だったかと言えば、ちょっと疑問ですね。「琉球使節団」のように、「琉球」と呼ぶのが一般的だったように思われます…)

そう考えますと、琉球処分の後【沖縄県】としたのは、あながちおかしなことではない気がします。「ウチナワ」転じての「沖縄」であれば、です。
【琉球県】としなかったのはなぜか、琉球人のアイデンティティを奪うためか?!と鼻息を荒くする必要はなかったのかもしれません(私はちょっと鼻息荒くしてましたが;;)。
どちらも、うちなーの人々にとって、親しんできたであろう国名なのではないかと思うからです。

とはいえ。様々な呼び方の中で、やはり私は「うちなー」が最も好きです。

沖縄の友人や、師匠が語る言葉の中に出てくる「うちなー」という言葉が好きで、私もこの呼び方を好んでいましたが、この優しい音が沖縄の本質に近いような気がしていたからかもしれません。ちょっと後付けですけども^^;。

(むとう)

【2015青森旅】④やっぱり、かっこいい。縄文デザイン!!


竪穴式住居。

いいですなあ。

思い起こせば、私は小学生時分、縄文人生活にあこがれる少女でございました。
昔住んでいた家が、縄文時代の住居跡の上だったので、ちょっと掘ると縄文時代の土器のかけらが結構出てくるので、その縄目文様や造形を見て、シンプルに「すごいかっこいいなあ」と思ったんですよね。

それで、社会科の図録なんかに出てくるドングリのコッペパンを再現してみようとしたり、地層から粒子の細かめの粘土をこねて乾かして、焚き火で焼いてみたりして。

そのほとんどが失敗に終わりました。でも楽しかったなあ。

縄文人、すごい!って憧れたなあ。

今回、三内丸山遺跡を訪ねてみて、その時のことを鮮明に思い出しました。

遺跡の復元をしている野外エリアから、手前の建物「縄文時遊館」に戻ります。様々な施設の集合体、と言った感じなんですがその中に「さんまるミュージアム」という博物館があります。
三内丸山遺跡の出土品を展示してあるみたいなんですね。

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こちらが入口!

ポイントポイントに、こんな感じのリアルな人形さんがお出迎え。リアルなんだけどちょっとデフォルメされていて、コワくないです。とても可愛い。
#そして、一緒に復元されている犬、いかにも縄文犬(天然記念物柴犬保存会系柴犬)ですね!

中に入りますと、また展示方法がおしゃれですよ~~。東京国立博物館の法隆寺館みたいなライティングで、展示物が暗闇に浮かび上がる、みたいな展示です。

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でた~!
十字型土偶@重要文化財!!
かっこい~~!

板状で十文字型のこういった土偶は、三内丸山遺跡から1600個ほど出土したんだそうで、顔、胸、へそが表現されています。そのほとんどが盛土遺構で、壊された形で出土しているため、何らかの祭祀で用いられたのではないか、と考えられているそうです。

そして、縄文時代界のアイドルともいうべき、こちら!

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縄文ポシェット@重要文化財~~~!!!

こちらがどうして貴重かと言いますと、「縄文時代の遺跡から出土した編組製品で立体的な形が分かる全国唯一のもの」(三内丸山遺跡HPより引用)だからです。

それにしても、確かにこういったものがよくぞ残った!って感じですよね。奇蹟ですよ~~!

ちなみにこちらの素材は、「ヒノキ科(ヒバ、スギ、ヒノキ、アスナロがある)に属する針葉樹の樹皮を素材としている」(HPより引用)そうです。4000年以上残ってきた、なんて、最強に「丈夫」ですよね。中からは半欠けのクルミのカラが出てきたんですって。
こういったポシェットを腰に括り付けて、採集した木の実なんかを入れていたんでしょうか。

こちらは、全然知らずにみていましたが、特別公開だったみたい。ラッキーですね!!

いや。

それにしましてもなんですけどね。今回改めて思いました。

小学生の私、間違ってない!

やっぱり、デザインかっこいいですもん。縄文デザイン!

やっぱ、長年憧れてきてよかった。
そしてそのトップランナーと言うべき三内丸山遺跡にこれて、本当によかったです!

【2015青森旅】③今も世界のどこかにある風景に見えてきた


1500年もの間、人々が住み続けた場所。
それが三内丸山遺跡なんですね。すごいなあ。

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さて、先ほどの6本柱建物の前には、大きくて長い建物が復元されています。

「(略)長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。」
(特別史跡三内丸山遺跡HPより引用)

茅葺屋根が何とも美しいですが、縄文時代にもこんな美しい茅葺があったのでしょうか。

ミャンマーの山岳地帯に住む少数民族が暮らす「ロングハウス」みたいな、または環太平洋の海洋民族にみられる集会所みたいな雰囲気ですよね。

内部に入ってみますと…

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かっこいい~!!

広々としてますね。そして長い!
この復元された大型竪穴式住居が何メートルかは、ちょっとはっきりわからないんですが、30メートルくらいありそう。

この大きな竪穴式住居を中心に、周囲にはいくつもの竪穴式住居が復元されていました。
20151011-3何だかかわいらしい家ですね。
地面と地続きな家、と申しましょうか…
「大地に抱かれている家」というような。
20151011-5入口はこんな感じです。
腰をかがめて入っていきますと…
意外と広い!
4・5畳くらいはありますし、屋根の高さもそこそこあって、身を屈める必要はありません。
私は159センチなので、ちょうど縄文人男性の平均くらいですから、子の高さがあれば十分だったでしょう。
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屋根組はこんな感じです。
縄と組み方で持って組んでるんですね。釘みたいなものはなかったのかな?
ちょっと調べてみると、出土品の中に釘が出ることもあるみたいなので、部分的にはそういうものを使っていたのかもですね。

ちなみに、こういった復元・竪穴式住居は、ワークショップのような形で、一般の人が力を合わせて造ったみたいですね。写真を撮るのを忘れてしまったのですが、名前を刻んだ大きな木札みたいなものがたくさん置いてありました。羨ましい!

それにしても、なかなか居心地のいい空間でした。4人家族で住む、なんてことになるとちょっと狭いけど、一人か二人で住む分には結構いいかもですよ。半地下ですから、暑さも寒さもそこそこ和らぎそうですし…
あ、でも冬は厳しそうだなあ。

とはいえ、この小さな竪穴式住居で寝起きをして、イベントや会議、共同作業なんかは集会所でやればいいんですから、必要十分かもしれませんね。
それに、こういう風に暮らしている人々は今もたくさんいます。

この復元された竪穴式住居群は、何だか今も世界のどこかにある風景に見えてきました。

(続く)

【2015青森旅】②憧れの三内丸山遺跡へ!!


カモメさんたちの鋭い視線に、ちょっとビビってペコペコしながら、駅前に戻ってバスに乗ります。

バスで30分ほど郊外へ行くと、ちょっと手前に有名な県立美術館、そしてその先に三内丸山遺跡はあります。

三内丸山遺跡には入口に「縄文時遊館」という博物館があります。全体の写真を撮るのを忘れてしまいましたが、とても素敵な建物です。

エントランスを入りますと…

20151006-1大きな縄文土器のレプリカがどーん!

おおおおおお!
テンション上がります!

さらに、縄文時代の衣装を着てみてね、と置いてあります。無料!
それは着るでしょう!
私も早速着てみました。素晴らしいですよ、小道具にお魚のレプリカまであって、選べるし。ちょっとおしゃれに腰ひもは2本づかいにしてみましたよ♪

いやあ、嬉しい!

それにしても気持ちのいい施設です。デザインも素晴らしいですし、びっくりすることにほとんどお金使いません。
三内丸山遺跡は、なんと無料で見学することができるんです。

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建物を抜け歩いていくと芝生が見え、その先に茅葺の建物が姿を現します。

おお、あれは、三内丸山と言えば……、な、あれじゃないの?!

20151006-5

見たことある~!
「大型掘立柱建物」(別名六本柱建物ともよぶのかな?)と言うんだそうですが、櫓のようにも見えます。

この復元には、直径1mに及ぶ6本の大きな柱穴が発見されたことから、学者さんが推定して作ったとのことですが、こういうかたちではなく、「板葺の屋根のある建物」だった、「柱だけが佇立しているもの」だったなど、諸説あるようです。
しかもこの「大型掘立柱建物」は、この集落の中心部に東西に分かれて何棟もたてられていたことがわかってるんだそうですよ。すごいなあ。

この三内丸山遺跡ですが、今から約5500年前~4000年前(縄文時代前期中頃~中期末葉)の大規模な集落跡です。
なんと「約1500年」もの間にわたって定住生活が営まれていた、というわけですよ。ひゃ~!

長いですよ~、この1500年て。
そこまで同じ土地に、大人数のひとが住み続けるというのは、並大抵なことではありません。

…たとえるならば。
京都で見てみましょうか。

京都という土地は古くからの都ですが、都になったのは794年の遷都としますと、2015年までを考えましても1221年です。いえ、これでも十分にすごいことなんですけどね。それより300年ほど長いんですから…
#もちろん人口の規模が違う!と言われたらそれまでなんですが、それはちょっと置いといて…

この土地は、今はやりの言葉で言えば「サステナブル」な集落だった、と言えるかもしれませんね。人口はそこそこ増えたり減ったりはあったでしょうが、この土地にそれほど長い間住み続けることができた。それは、それだけの資源を、継続して得ることが可能だったから、とも言えます。

(続く)