驚愕するほかない圧倒的文化力と人間力/②『原三溪の美術』展@横浜美術館


前回より続く)

三溪が三溪たるゆえんあり

原三溪は1868年に岐阜で生まれました。本名を富太郎といいます。生家の青木家は代々庄屋で、お父さんは村長、お母さんは、文人南画家・高橋杏村の娘という、文化的・芸術的素養の高い環境で成長します。幼いころから秀才の誉れ高く、画についても周囲に一目も二目も置かれたいたようです。

今回、改めて驚いたのは、少年時代に三溪が描いた絵です。

(写真は図録より引用)

「乱牛図」というこの画を書いたのは、16歳の時なんだそうですよ。

うまい!

しかも、単にうまいと言うだけでなく、何とも言えない味があります。人間的明るさ、と言ってもいいかもしれない。

この乱牛図にしてもここまでたくさん水牛描く??…と思いますけど(そういうテーマではあるんですけども)、ひとつひとつがとても愛らしくて、人物も童画のようでほほえましい。やややりすぎな極まり感はあるのに、何ともいえない愛嬌もある。その後の三溪さんの姿が、すでにもうここにあるような気がします。

三溪は、いわば環境エリートだと思います。質のいい教育--今の受験勉強のようなものではなくて、人間力や創造力、美意識を高めるような教養を身につける教育を、物心ついた時から自然と授けられてたんですね。

元大蔵大臣・井上馨から、破格の一万円で譲り受けた『孔雀明王像』

そんな富太郎少年は、17の時上京します。今の早稲田大学の前身である東京専門学校に入学しますが、7年後退学。どうもいろいろあったみたいですね。そしてそれから横浜の生糸商・原善三郎の孫娘に婿入り。原富太郎と名乗るようになります。この時24歳。

コレクションを開始したのは、翌年の25歳からだそうで、婿養子だったのに大丈夫だったのかな?と、心配になってしまうようなスピード感ですね。

そして、コレクターとしてその名が大きく知られるようになったのは、35歳(!)の時。元大蔵大臣の井上馨から当時としては破格の一万円で『孔雀明王像』を購入したことによってでした。

その『孔雀明王像』が、今回ポスターなどに登場しているこの画ですね。

 

現在は国宝に指定されて、東京国立博物館に収蔵されています。

現物を拝見したのは初めてだったんですけども、それにしてもすごい画でした。

儀軌通りで、お手本のようでありながら、同じ構図の他のものと比べても、圧倒的な存在感。あまりに美しくて、目が覚める思いがしましたよ。

図録などを見ても、その来歴は「井上馨蔵」で止まってしまいます。それ以前はどうだったのかがわかりませんが、これは相当に本筋のお寺さんにあったに違いないですよ。本筋中の本筋。おそらくは東密系のど真ん中のお寺さんの秘宝だったと思います。

それにしてもこんなにすごいものが、外に出ちゃう時代だったのか…と、改めて当時の混乱を思います。この画は、お寺さんの外には本来出るべきものじゃないですもの。

残念ながらこちらの公開は8/7まででしたので、もう見られないのですが、東博さんで公開することもあるでしょう。その時には、ぜひ本物をご覧ください!

怒涛の如く押し寄せてくる名品の数々

とはいえ、ですよ。

はっきり言って、三溪さんのコレクションは、みんなそんな感じですね。なんでこれを個人で所有できるの?!と言った名品ばかりです。もちろん今回の展示は、5000点を超えたという蒐集物の中からの約150点ですので、選りすぐりの名品だろうと思います。しかし、ほかの物もきっとすごいはず。三溪さんのおめがねにかなうものは、一流のもの以外あり得なかったんじゃないかと思うのです。

そして、『孔雀明王像』と同じくらい、うわあっと思ったのは次の観音像です。

こ、これは……。個人で所蔵していいお像ではない……

しかし、なんだか見覚えがあります。現在は細見美術館蔵だそうなので、そこで見たのかな?と思って調べてみたら、奈良国立博物館寄託になっていました。そうそう、そういえば奈良博で拝観したことがあったような気がします。

そして一方で、秋篠寺の「十一面観音像」(重要文化財)を連想しました。平安初期のいわゆる貞観仏、一木造りのまさに王道的名像だとも思います。

そして、個人的に心惹かれたのは、こちらの白衣観音さん。鎌倉幕府三代将軍・源実朝によるものだそうです。

優しい線ですよね。慈悲のほとけ・観音さんそのものです。

実朝さんは、やっぱり将軍にはなりたくなかっただろうなあ。こんな優しい画を描いちゃう人は、政治はむかないでしょう。
三溪さんは、実業家であり蒐集家・アーティストであったという自分自身の属性から、本業が別にある人の画や書を集めていたそうなんですが、こちらはまさにその代表ですね。宮本武蔵が描いたという布袋図も二点ありましたが、それもすごく良かった。宮本武蔵の画って、ほんとすごいですよね。

つまりは、人間的魅力の凄さ、かも…

……そんなこんなで。

実にすごいコレクションでした。

お茶道具もすごかった、三溪さんがパトロンとなった現代日本画の巨匠たちの画もすごかった。横山大観、下村観山、安田靫彦、小林古径、名だたる巨匠は三溪の支えを得て大成したと言っていいでしょう。

彼ひとりに内蔵された文化力たるや。破格すぎて、言葉もありません。

最後になりますが、もう一つ。何とも晴れやかで微笑ましいこちらをご紹介したいと思います。

三溪が描いた、蓮の花の画です。

三溪は、蓮の花を好んで描いたそうなのですが、この画は63歳の時、日本画家の小林古径に贈られたものなんだそうです(古径は三溪の支援を受けていました)。

一般的にいったら、三溪さんはもちろんものすごく上手いですよ。でも、小林古径にですからね。超絶上手い小林古径に自分で描いた絵を贈るって、すごいですよ。

しかし、この画を見ると、三溪の人となり~朗らかさ、明るさが溢れていて、きっとなんのてらいもなく「なかなかよく描けたよ」なんて言って、無邪気にプレゼントしたんだろうな、と想像します。

古径もこれを喜んで、きれいに表装してもらって、三溪自身に箱書きをお願いしたそうなんですが、三溪はその表装の美しさをとても喜んだんだそうです。

なんか、いい話ですよね。

結局、教養や美意識の凄さだけじゃない気がします。三溪と言う人の魅力と言いましょうか。きっと三溪は、ものすごく魅力的な人だったんでしょう。だから良い人も良いものも集まってきたのではないか、と思います。

…さて、長くなってしまいましたが、会期は9月1日までだそうです。これまた油断してたら見逃しちゃいますよ!ぜひ、忘れずに観に行って下さいね。

(むとう)

原三溪という美意識の巨人と、改めて出会う絶好のチャンス!/①『原三溪の美術』展@横浜美術館


日本文化の恩人のひとり・「原三溪」という巨人

先日の『優しいほとけ・怖いほとけ』展@根津美術館の余韻も冷めやらぬうちにと、横浜美術館で開催している『原三溪の美術』展に行ってきました!

いやもう、ほんとね。これはもう、ぜひとも足を運んでいただきたい!

根津美術館は、青山翁の収集した逸品を今も所蔵していますから、今後も見るチャンスはあるんじゃないかと思いますけども、三溪のコレクションは、日本中のこれぞという美術館・博物館に分散して収蔵されてますので、一堂に会するなんて、今後もまずないんじゃないかと思うのです。

今回の展示では、原三溪という人がどんな美意識を持った巨人であったかを、流れを置いながら全体として感じられると思います。本当に、必見です!

さて。

三溪さんと言えば、横浜の人だったら「三溪園」の人だよ~、と言えば「ああ!」と分かると思うんですけど、一般的にはどうでしょうか。ご存じない方もいらっしゃるかもしれません。

ものすごくざっくり説明してしまいますと、原三溪と言う人は、明治・大正・昭和にかけて、生糸商として大成功をおさめた大実業家で、大コレクターで、お茶人としてもものすごく高名な方です。根津美術館の青山翁より8つ年下になりますが、ほぼ属性は共通していますね。

この時代の実業家は、お金をもうけたら、日本文化のコレクションや、芸術家へのパトロネージへつぎ込む、というのがある意味定石。当時は、帝国主義の時代。アジアの小国であった日本の文化は、危機的状況にさらされていました。そんな中、文化をどうにか守り、前進させていこうとする志を持っていたとも言えると思います。彼らのような実業家が買ってくれていなかったら、もっともっと多くの逸品が海外に流出していたでしょう。日本美術界、と言うよりも日本文化の恩人の一人と言ってもいいんじゃないでしょうか。

三溪園と石造美術界の至宝・西村金造師の仕事

さて、ここでまた個人的な話になりますが、私にとって三溪さんとの出会いと言うのは、西村金造先生の作品集を編集した時にさかのぼります。

金造先生は、京都白川で代々石大工をされてきた家に生まれ大成された、現代最高の石大工です。そんな先生の作品集を担当させていただけることになった20代の私は、まさに天にも昇る心もちでした。

そうして出来上がったのがこちら。

そしてこの中に掲載するためにと、三溪園に安置されている先生の石塔と灯籠を撮影に行ったのです。それが私と三溪さんとの出会いでした。

取材前に、先生と執筆者のSさんと一緒に三溪園を訪れた時のこと、今も鮮明に覚えているのは、三溪園内の茶室(春草廬)の手前に、石棺(奈良の古墳から出土したもの)が景物として置かれていたことでした。

ひえええ、持ってきちゃったんだ~~~!

と思わず叫びましたね。
ほんと、お茶人はこういうことするんですよ。

「メメント・モリ」ということなんでしょうか。戦国時代のお茶人なんて、まさにそうですよね。命がけの不遜というか、アナーキーと言うか……。明治期のお茶人にも、その気風は見事に受け継がれていたんだな、と。それは、三溪園全体に溢れている美意識でもあるのですが、この石棺にはそれが特に強く凝縮されているように思ったんです。

そう思いながら身を震わしていると、先生が、「あんたも少しはわかってきたんかな」と言って笑いました。

いえいえ、わかってません。そんな凄まじい生き方できません!と首を振る私。

この時の印象が、私の中での「三溪」像となりました。三溪園と言うのは、そんな三溪さんの魂がこもったすごい場所なのです。

ちなみに、この二点が(当時)、三溪園に安置されている金造先生の作品です。先生は、そんな凄まじい気概と美意識が渦巻く場所で、いずれも本歌のあるものではありますが、ご自分の作品でもって、勝負してるんだ…。わかってはいましたけど、すごい、覚悟が違い過ぎる!

そんなふうに思って、また身を震わす私。そんな私を横目に、

「あんたはんも、本屋なんやから、いい本作らなあかんで」

そう言って、にやりと笑いました。

私は思わず後ずさりました。私に、そんな覚悟はあるだろうか、と……。

金造先生は、私にとってあらゆる意味で「師匠」と、私は勝手に思っているのですが、特に大きな学びをいただいたのは、このような意識、覚悟といった点だと思います。

あれからもう10年以上たちますが、先生に教えていただいたことは、今も変わらず心にあります。そのすべてが新鮮なまま、ことあるごとに、私に問いかけてくるのです。

そんな私にとって、三溪のコレクションを見られるというのは、金造先生に教えていただいた大切なことを、改めて確認できる、そんな機会でもありました。

そして、その期待は、十分以上にかなえられました。実に素晴らしい展示だったのです!

(続く)

【関西旅】⑤植治七代目の仕事に出会う「慶沢園」/『山の神仏』展@大阪市立美術館


さて、『山の神仏』展は、想像していた通り濃厚な展示で、私はへとへとになってしまいました。余力があったら動物園にもよろうかな、なんて思っていたのはやはり無理がありましたね。

気温も急に上がったことも理由かもしれません。園内にある喫茶店で冷たいお茶でも飲んで一休みしたら、素直に京都に向かおうかしら、と思いながら、美術館を出てふと左手に歩いていると…

「慶沢園」

といういわくありげな扁額を掲げた門があります。

そういえば、この大阪市立美術館は、住友本家の本宅を寄贈したものです。だとしたら、当時最高の庭師が入ったに違いないですよ。

少々熱中症気味の痺れた頭を、どうにか動かしながら、ちょっと説明書き読んで見るかどうか決めよーっと、とよれよれしながら説明書きを見て、一気に目が覚めました。

「小川治兵衛作庭による…」

ええええ!!植治(うえじ)じゃん!!???

いやあ、ほんとすみません。油断してました。今回はとにかく「山の神仏」展を見に来たので、そのほかのリサーチはしてこなかったんです。危なくもったいないことをするところでした。

慶沢園 うっほ~!この第一歩からして、治兵衛サンっぽいわ~!石橋から眺めるこの池の美しいこと。まずは「光」のアプローチ、って感じ。残念ながら曇りでしたけど、それでも植栽に植え込んでいるツツジや花菖蒲なんかが美しく色を添えてくれてます。一雨来た後にこの光景を見れたらさらにベストだったなあ。

さて先ほどから連発してますこの「小川治兵衛」さんというのは、京都に江戸時代中期から続く植木屋・造園業者「植治」の七代目。1860年生まれですからぎりぎり幕末生まれ、明治から昭和にかけて大活躍した名作庭家です。

庭園研究家の泰斗・尼崎博正先生をして、
「日本の庭園史上、特筆すべき造園家が三人いる。中世の夢窓国師、近世の小堀遠州、そして近代庭園の先覚者、植治こと7代目小川治兵衛である。」(『植治 七代目小川治兵衛』京都通信社刊より引用)

と言わせしめているお方。あの夢想国師、小堀遠州と並ぶと、尼崎先生がおっしゃるんですもの、まさに庭園史上の「巨人」です。
20140621-1(上の本は私のバイブル。写真も美しくて素晴らしい一冊ですよ!!)

「かれらは独自の自然観、美意識、造形感覚を提示しつつ、新しい時代を切り開いていったという共通点を持つ」(同書から引用)

確かに夢想国師は平安時代の庭では表現しきれない新しい世・鎌倉時代を代表する作庭を行い、それ以降の作庭を決定づけましたし、小堀遠州も安土桃山時代の華やかさを継承しつつも、近世らしいより開かれた空気感のある方向性に、江戸初期以降の作庭を方向づけました。そして、小川治兵衛さんも江戸時代から明治期という、それまで支配者にはなりえなかった階層のひとたちが貴顕の士となった時代の写実的で開明的な作庭を方向付けました。
慶沢園

(手前は四阿。こういう四阿から池、植栽の広がりってのがまた絵になりますねえ)

この7代目植治さんの代表的なお庭と言えば、山縣有朋邸の無鄰菴(京都)、円山公園、平安神宮神苑などがあります。どのお庭も、ほんっと~~~に素晴らしいので、ぜひまだご覧になったことがない方は、観に行ってください。特に、治兵衛さんのお庭は「体感」することが大切。ただ眺める庭ではなく、実際に回遊して「五感」で感じるようにしているお庭なんですね。
慶沢園(四阿から眺めた池。手前には睡蓮、奥にはツツジがきれいに咲き始めてました)

また彼は「水と石の魔術師」なんて呼ばれたりしてます。とにかく水の使い方、石の使い方がかっこいい!!
特に石橋や、飛び石の絶妙さは、素人の私でもワクワクしてしまいます。平安神宮の飛び石「臥竜橋」なんてもう、絶妙すぎて動揺して池におちそうです。
慶沢園(この石橋なんかも、治兵衛さんぽいんですけど、なんか微妙に管理が心配^^;)

こちらの慶沢園も、いかにも治兵衛さん作庭のお庭という雰囲気が随所に残っています。回遊しながら水のせせらぎ、四阿の陰翳から、眼前を広がる明るさを感じて崎には邸宅が臨める、と。
慶沢園(洲浜のようなエリアから飛び石、水のあるエリア、島へのアプローチ、そしてその先には本邸背面。この絶妙な連結感!)

それにしても。
和のお庭にもかかわらず、その自然主義的なデザインは、洋館との相性もばっちりです。本当に不思議なことですけど…。

今回、帰宅してから、改めてこの本を開いて読んでみて、つくづく思いました。わたしは治兵衛さんのお庭がすきだ!!・・・と。

今回の出会いを、きっかけに、これから重点的に治兵衛さん作庭のお庭を見て廻ろうかしら。

それにしても、大阪市立美術館、そして慶沢園、今回かなり無理やりスケジュールに入れこみましたが、本当に行ってよかったです!

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷⑤善光寺式板碑コンプリート!



イシブカツ
全国でも数基しかないデザインの板碑
さて、狛犬さんたちにくぎ付けだった私たちですが、本題の板碑を見なくちゃね、と我に帰りました。
本堂を出て歩いて5分ぐらい。寺務所というか、もう一つの大きな建物があるんですけど、そこに至るまでの一般道のすぐわきに…
板碑ありました!
「立派立派!いいかんじだねえ」
にっこりとうなづきあう石部二人組。

これが本日、かなりメインな位置づけの板碑です。
というのも、熊谷のこの区域に、このデザインの板碑が3基あるんですけど、全国的に見てもとても珍しいものなんです。

板碑には梵字だけで表す場合と、実際に仏像を彫り出す場合とありますが、こちらに描かれている、仏像のスタイルがちょっと特別なのです。こういうのを「善光寺式」と言い、仏像の世界でもこのようなスタイルが存在します。

さて、この「善光寺式」ですが、これは、長野にある大寺院「善光寺」のご本尊のかたち(スタイル)のこと。じつは、仏教公伝の伝説なのですが、このご本尊は「一光三尊阿弥陀如来」像と呼ばれ、日本で最古とされる仏像です。

昔日本史でならいましたよね。仏教が百済の聖明王より欽明天皇に初めてもたらされたってお話。「ごさんぱい」で538年、って暗記するやつです。(552年説もあります)
この時にもたらされた仏像が、この善光寺のご本尊だという言い伝えがあるのですね。実はこのご本尊は「絶対秘仏」なので、だれも見たことがないはずなのですが、これがそのスタイルだ、と伝わっているのが不思議ですね。とはいえ、古代からこれが「善光寺式」と言われてきたことは確かなのです。

んで、それがどういうものかと申しますと…善光寺式阿弥陀三尊像こ、こんなかんじです!
…はあはあ(息切れ)…。イラストにしてみたら難しかった(^^;)。いろいろ略しましたがざっくりこんな感じです。

まず、中央には阿弥陀如来さん、そしてその左右には脇侍の観音菩薩さんと勢至菩薩さんがいます。これは「三尊」といい、よく見る表現です。

では、善光寺式はどんな特徴があるかと申しますと、まずはその手のかたち〔印〕でしょうか。阿弥陀さんは左手をおろして、人差し指と中指をそろえた形(「刀印」)をしてます。そして菩薩さんたちは、胸の前で上下に手を合わせているような形(梵篋印)をしてます。

そして、仏さんたちが載ってる蓮台、普通は花弁があるお花の状態を台にした感じですが、花が散り終わって臼状になった蓮を台にしてます。

そして一番わかりやすいのは、三尊で一つの光背(後ろの光の部分)だということです。
善光寺式板碑ほら!確かに一つの光背の中に、三尊おさまってますよね?
ちなみに真ん中の阿弥陀さんの頭部の周りにあるものは、これは「飛天」または「化仏(化仏)」です。

斎藤実盛さんも善光寺信仰だった?
さて、それにしても何でこの熊谷のこの区域に、善光寺式仏像をレリーフした板碑が残されているのでしょうか。
鎌倉時代、善光寺は全国で崇敬されました。源頼朝や北条時宗も深く帰依しましたし、鎌倉新仏教の開祖たちも、こちらにお参りしています。宗派や主義を超えて崇敬されるのがこちらの特徴で、これは現在でも続いています。
#善光寺は、無宗派。天台宗と浄土宗両派でお祀りしている珍しいお寺です。

おそらく、熊谷のあたりでも、善光寺信仰を持つ武士がいたんでしょうね。こちらの板碑は、斎藤実盛さん創建の歓喜院の境内にありますから、斎藤さんちも善光寺信仰だったのかもしれません。

こちらの板碑、すごくいい感じです。仏さんのお顔はよくわからなくなっていますが、全体にまろやかな感じがして素敵です。鎌倉時代中期ごろの作と推測されています。

「あれ?なんかおかしいよ」
裏面を見ていた石造センパイが叫びました。板碑こちらが裏側。三つの文字が見えますが、「梵字」です。

「あれ??この梵字、「バク」?なんで?」

いぶかしむ石造センパイ。そうなんです。「バク」という梵字は釈迦如来を表します。この三文字は「釈迦三尊」を意味しているのです。

「表は阿弥陀三尊で、裏は釈迦三尊なんて珍しいよね」

普通は両面おなじですよね。なんでなんでしょう?帰宅してから調べてみましたが、「類例がない」と書かれていました。うーん。

せっかくだからコンプリートしたい
さて、謎は残しつつですが、時間的にもうちょっと見て廻れそうです。

調べてみましたら、このエリアであと二基、これと同じスタイルの板碑があることがわかりました。すごく珍しいものですから。あと二基見たらこのエリアでは「コンプリート」ですよ。そりゃ、みにいきますよね。

歓喜院から、車で10分ほど。

福寿院というお寺さんにやってきました。お寺さんと言っても無住寺のようですね。締め切った本堂と思しき建物と、墓地があります。
福寿院板碑ありましたありました!確かに一つの光背に三尊像です。
福寿院板碑ディテイルわかりにくいですが、菩薩さんたちの手の形、また宝冠のかたちがいかにも善光寺式です。

さてさて、もう一つでコンプリートですよ!!と騒ぐ私。
はっと気づくと、心なしか石造センパイが元気ない。

「……むとうさん、暑いね」

わあ、やっぱり暑さに体力奪われてる!
もう一つ、もう一つで今日は終わりですから!カキ氷食べましょうね!と励ましながら、急いで車に乗ります。

そしてまた約10分ほどのところ、能護寺さんです。
能護寺広々と広がる田園風景の中にぽつんと大きなお寺さん。こちらは何と創建は8世紀。行基菩薩が開創で、9世紀に空海さんが再建したとの縁起があるそうですよ。

20130722-37言葉少なになっていく石造センパイ。やばい、これは早く見つけないと!と焦る私。

すると、ありました!墓地の前あたり。ちょっと近くに寄れないので、ズームで写真を撮りました。ちょっとわかりにくいですが、こちらも、大きな光背がみえます。なるほど確かに善光寺式ですね。

しかし、日光が強すぎることもあるのか、よく見えません。……そしてじりじりと、暑い!

「石造センパイ、き、今日はもうこんなところでどうでしょうか」
「うん、むとうさん、今日はもうこれで終わりにしよう」

ヨレヨレなふたり。もう限界です。って言ってもまだ時間としては3時前で普段ならもう一つか二つ、となるところですけど、熊谷の暑さの前には敗北せざるを得ません。

あ~、もう無理~、もう限界だ~と念仏のように唱えながら、熊谷市街に戻り、かき氷屋さん「慈げん」さんへ。
和三盆+小豆あん美味しいかき氷「雪くま」で、どうにか生き返りました!

熊谷は本当に暑いです。石部もやっぱり真夏の熊谷は避けたほうがいいんじゃないか、と実感を持って思いました。「次回は春か秋にしましょうね」と語り合う二人…。

熊谷・深谷はまだまだ見るべきものがたくさんあります。ぜひまた近いうち訪れたいと誓い合う二人なのでした。

(終わり)

快慶最初期??石仏に銘文発見!


すごい発見です!

なんと、あの快慶が、石仏造立にもかかわっていた可能性が高いというニュース。
しかも、快慶最初期と思われるそうです。しかもしかも、鎌倉時代の高僧、貞慶(じょうけい)上人による造立ですって!

奈良県三郷町持聖院(じしょういん)での再発見。「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」と呼ばれ、現在、町指定文化財だそうです。
でも、今後もっと上の文化財に指定されそうですね。

詳しくは↓
http://t.topics.jp.msn.com/t/news/national/article.aspx?cp-documentid=253620709

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷④妻沼聖天で狛犬にはまる


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お昼ご飯はもちろん肉汁うどん!
さて、深谷で予想以上にアツイ体験をした私たち。もうすっかり正午を回っていました。
お昼には、もちろんうどん!あらかじめリサーチしておいしいと評判のお店「利休」で肉汁うどんをいただきました。
武蔵野うどん期待通りのうどんです。パワー倍増!ただ、病み上がりだったので、うどん並盛でお願いしたら、思ったより並盛が普通だった…
「もうちょっと盛りがよくてもペロリだったなあ」
と私。いや、実は、武蔵野うどん系のお店って、並盛でも相当な量なんですよ。ほかのお店ならこれは小盛りと言っても過言ではない…ような気がする。

「さすが、うどん好きは病み上がりでも変わらないようだね」
そういって石造センパイは妙に感心して微笑んでくれました。

「妻沼の聖天」さんへ
さて、美味しいうどんをいただいてすっかり元気になった私たちは、熊谷の北部にある「妻沼の聖天」さんへと向かいました。

こちらは、本殿が国宝に指定されたばかり。江戸時代の華麗な彫刻で有名なお寺です。ちなみに、これまた鎌倉時代の有名人「斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)」さんゆかりのお寺。
この人は、関東の地にありながら、最後まで平家への忠義を突き通した人で、義理人情に厚い勇猛な武士として高名でした。晩年、木曽義仲軍と戦って戦死した時。勇猛に戦った武士をだれかと確認するために兜を取ると、髪を黒く染めた老人で驚いた、というエピソードで有名。

それにしても、鎌倉武士の鑑ともいうべき人が、この辺りには多いですねえ。斎藤実盛さん、熊谷次郎直実さん、畠山重忠さん、そして深谷でご紹介した岡部六弥太さんも…

さて、この聖天さんですが、実盛さんが念持仏の聖天像(秘仏)をお祀りしたことをはじまりとし、その次男の方が出家し、お寺を開創したんだそうです。
#聖天さん、というのは「歓喜自在天」「大聖歓喜天」の略。仏教の神さまですが元はインドの神ガネーシャのことですね。
聖天山

立派ですね~。こちらの三門は江戸時代以降のものですが、重厚で美しいです。
本殿そして本殿。こちらが国宝です。
もうお分かりかと思いますが、こちらの本殿は、日光の東照宮みたいな方向性です。江戸時代中期の貴重な文化遺構としての国宝指定だったとのこと。

正直言って、あんまりキンキラしてるものは、ピンと来ない石部のふたり…。石造物が好きだと言ってるくらいですから、ね。キンキラとは無縁なのです。
本殿実は聖天さんにやってきたのは、境内にある板碑を見ることが目的なので、私たちにとってはそちらが主役です。しかし、やはり「ちゃんと本殿にお参りしてご挨拶するのも筋ってもんよね」ということでの御参りです。

いや、でもものすごい彫刻でしたよ!!
彫刻お好きな人は必見です。すさまじいものでした。

もちろん私たちも大変感心しましたが、しかし私たちが足を止めてもしまったのは…
獅子
おお!!??

獅子

なにこれ、この狛犬、っていうかお獅子めちゃくちゃ上手なんですけど!

阿形獅子

おおおお、阿形のお獅子も、素晴らしいんじゃないの??

阿形見てください、この見事な背中と尾っぽ。背骨と筋肉の表情!
背中この背中の筋肉のリアル感とまるみの表現、ただごとじゃありません。ものすごい上手ですし、また、この作者は動物が好きだったと思います。よく観察し、デッサンしてないとこうはなりませんよね。
背中いいですね~~。この佇まい、丸っとしててたまらないですね。

本当にこのお獅子は素晴らしいです!私がこれまでに見た狛犬中でも5本の指に入りますよ。特にこの背中の表現だけとればナンバー1と言ってもいいです。個人的ランキングですけどね。

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷③上杉さんもすごいです。


イシブカツ

南北朝時代の深谷もアツイ
さて、前回は、この深谷という地がいかに文化度高かったかについてアツく語ってしまいましたが、その流れは今回も続きます。

岡部さんの墓からこれまた車で10分ほどの至近距離に、国済寺という立派な禅宗のお寺があります。
国済寺三門

立派な三門ですね~。かっこいいです。
こちらの創建は1390年。今から600年ほど前ですね。時代としては南北朝時代です。前回ご紹介した、岡部六弥太さんが生きた時代から200年ほど経過しています。

国済寺

本堂も立派です。堂々としてますよね。残念ながら何度か火災に遭い、当初の建物ではないそうですけど、そのたたずまいは十分に残しているのではないでしょうか。

ところで、こちらのお寺を開創した人は、上杉憲英(うえすぎのりふさ)さんという武人なのですが、実はこの方のお父さんが、足利幕府を開いた足利尊氏の従弟さんなのです。

上杉氏というのは、もともと公家の家柄で、藤原氏の血筋なのですが、足利氏と縁戚関係を結んだりして土着し、武人化した一群。南北朝から戦国時代の長きにわたり、武人の名門としてその名を馳せていきました。

このお寺は、上杉憲英さんが、当時不穏な動きを見せていた新田氏を抑えるために、お父さんから派遣されて築城した、廰鼻和(こばなわ)城の南側に建てられました。

廰鼻和(こばなわ)上杉氏の菩提寺
さて、このお寺には上杉憲英さん以下、廰鼻和(こばなわ)上杉氏累代のお墓が残されています。ちなみに、当初憲英さんは「コバナワ上杉氏」と名乗っていたそうですが、その数代先の子孫から「深谷上杉氏」を名乗ったそうです。
深谷上杉氏累代の墓

これが、その累代の墓です。すみません、中央に見える白い影は石造センパイです。幽霊とかじゃないですから!ご心配なく!
#センパイが最初のご挨拶で手を合わせて、振り返ったところを撮ってしまいました。しかし全体写真はこの写真しかなかったので、先輩のお姿はぼかしてお届けしております。

さて、先輩のお姿で隠れてしまってますが、中央の覆屋のしたにある宝篋印塔が、憲英さんのお墓で、左右に並んでいるのが一族の墓標とのことです。こちらも立派ですね。きれいに清掃されて清々しい空気です。墓地ですけど、怖くないですよ!

上杉憲英墓

資料によりますと、時代が室町とのこと。なるほど、全体的にちょっと華奢で細身な宝篋印塔です。時代が室町とされている、ということは、本人が亡くなってからしばらくたって、供養塔として建造されたのかもしれませんね。

初めてみる墓石の形

上杉氏累代の墓

さて、そして、左側にあります累代の墓。

「…こういう形のものは初めて見るね」

と石造センパイ。確かに、こういう形のものを墓標として見るのは初めてです。祠のようなかたちですよ。

「祠っぽいですけど、奥行きが浅くて横長な感じがちょっと違いますよね。なんなんだろう…。よくあるものなんでしょうか」

思わず黙り込む二人。一年ほど前に、南会津村に行ったときにも、こんな石造物は見たことがあるような気がしますが…↓。
南会津村の石造物全然違った。祠ですよね。改めてみると。
ところが、こちらのものは、「家型の埴輪」に似ているような気がする…。

ナゾの石造物

さらに謎なのは、軸部、というか屋根の下の部分。幾何学模様にぬいてあるんですよね。こういうのをわざわざ開けるというのは、ひょっとしてこれ、中に灯心いれたりしたのかな?と思って、可能な範囲で覗き込みましたが、どうもそんな様子はない感じ…

ハート形の窓

「それにしても、これなんて、ハート形じゃん!」

石造センパイが興奮するのもよくわかります。実はこのハート形、私たちにとってとても馴染み深いものなのです。

ハート形といえば、朝鮮伝来の形で馬具飾りなどに好んで用いられ、日本でも古墳の副葬品などに散見される「心葉形(しんようがた)」を、想像してしまうのです。というのも、私たちの師匠、N先生もこの形を好まれて、さりげなく灯籠の意匠に用いられてました。なのでとても見覚えのあるものなのです。

実際、この深谷のあたりから熊谷、また群馬のあたりには古墳がたくさんありますし、そうしたところからこの意匠の馬具装飾などはかなり出ています。関係ないかもしれませんけど、なんか関係あったら面白いなあ。かなりな妄想ですけどもww。

それにしても、これ、いったい何というものなんでしょう。どなたかご存知の方、ぜひ教えてください!!

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷②岡部さん、すごいです。


イシブカツ

深谷が誇る鎌倉武士・岡部六弥太さん
さて、平忠度(たいらのただのり)さんの五輪塔の後は、やっぱり岡部六弥太(おかべろくやた)さんの五輪塔を見るべきですよね。車で行くと15分ほど。ずいぶん近くにあるんですねえ。

さて、岡部六弥太さんについて、ちょっとご紹介しておきましょう。

岡部六弥太忠澄さんは、鎌倉時代に活躍した人。鎌倉幕府を開いた源頼朝のお父さん・義朝の家来で、頼朝が平家打倒で挙兵した時に合流。すでにご紹介したとおり、一ノ谷の合戦では敵将:平忠度を討ち取って、武名を上げました。

「岡部さん」は、もともと有力御家人だったみたいです。

埼玉県中・北部のあたりには、熊谷次郎直実や、畠山重忠など、頼朝に仕えた大物御家人の本拠地が集中しています。「勢力を持っている」ということは、おそらくそこそこの経済基盤があったということです。深谷や熊谷のあたりは、すぐそばに荒川や利根川もありますし、豊かな農地があり、交易路もあります。遺跡や古墳もたくさんありますので、それこそ縄文のころから豊かな土地だったんでしょう。
そういう富の蓄積があったからこそ、鎌倉になって花開いた、と言えるんじゃないかと思います。

文化度の高さと富裕度は密接に関係してる
岡部さんもそんな状況の中で現れた富裕な御家人です。というか、私たちは彼のお墓である五輪塔を見て「富裕」だったに違いない、と思うに至ったのでした。
岡部六弥太墓地

こちらが、その岡部六弥太のお墓です!

なんだか妙に大きい、というか何基も五輪塔がありますよ。資料によりますと、岡部六弥太の父母、妻など一族の五輪塔6基が残ってるみたいです。
岡部六弥太墓この左側の削れちゃってるのが、六弥太さんの五輪塔だそうです(右側はお父さんの五輪塔)。なんでこんなに削れているかというと、お乳が出ないとき、また子宝を授かりたいときにこの五輪塔を削って飲むといい、という迷信があったんですって。なんでそんなことになったんだろう??ナゾです・・w
#ひょっとした六弥太さんは女性に優しい人だったのかもしれませんね。

また、この五輪塔は「凝灰岩」という、比較的やわらかい石でてきてるので、削りやすかったんだろうなと。ちなみに、地らの凝灰岩は、群馬県の天神山産だということがわかっています。美しい白色で、きめが細かく細工もしやすいそうです。いろんなところに運ばれて、供養塔などに好んで使われたんですって。

そして、この天神山は、あの名族・新田氏の領地にあります。新田氏の重要な交易品目だったんでしょうか。また、この石を大量に使って五輪塔を代々作っている岡部さんなので、きっと新田氏とも交流があったんだろうなあ、と想像されます。
岡部氏の墓そして、六弥太さんの左側にあるこちらは、奥さんの玉ノ井さんの五輪塔です。こちらは形もよく残ってますね。

それにしても美しい五輪塔です。写真だとちょっとわかりにくいですが、白地に赤茶の地層みたいな模様が入ってます。マーブル模様ってかんじです。形もとても洗練されてます。

じっと見つめていた石造センパイが、ほうっとため息をつきました。

「これを作った人、概念としての五輪塔の意味をちゃんと理解してて、なおかつ中央で作られている五輪塔をつぶさに見たことがあるんじゃないかな。でないと、こういうきれいな五輪塔は作れないと思うよ」

うんうん。確かにこのクオリティは半端ないなあ。
玉ノ井墓以前、国の重要文化財に指定されている東松山市の宝篋印塔を観に行った時も、そのあまりに洗練された美しい姿に驚きました。なぜこんな鄙の地にこれだけのものが?!と。

こういう洗練されたものがある、ということは、このあたりの当時の文化度を垣間見ることができます。そして冒頭にもお話ししましたが、文化度が高い、ということは経済的基盤がかなりしっかりあったはず=富裕なんじゃないかと。

たとえ、今は野原であったとしても、こういった石ものがあることで、そこに高度な文化があったことを確認できますね。この五輪塔を見る限り、当時の岡部氏の文化度の高さは相当なもんだったろう、と想像できます。

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷①「関東石もの」の聖地へ


イシブカツ
記念すべき第10回目
またまたちょっと久しぶりになってしまいましたイシブカツ。前回の「東京真ん中編」から、ふと気が付いたら二か月以上経過。油断なりませんねえ。

そんなこんなで、今回はなんと記念すべき10回目だったりするのです。イシブカツ、感動の10回目は、やはり「熊谷」ですよ!!
実は、石部が愛してやまない「板碑」の最古は熊谷市にあるんです。そして第一回イシブカツも熊谷巡礼から始めたのでした。まさに「聖地」と言って過言でない場所!!

しかし、熊谷といえば数年前日本最高気温をたたき出し、「あついぞ!熊谷」キャンペーンで有名です。何もこの暑いさなかに行かなくてもいいような…

「いや、だからこそ行く。暑い熊谷をあえて味わいたい!」

熊谷のやばい暑さを知ってひよる私に、石田石造(女)センパイがこぶしを振り上げる如く言い放ちました。そこまで言われちゃあ私もこぶしを振り上げざるを得ません。熱中症にならないように、せめてかき氷「雪くま」を食べるぞ!といつも以上にリキをいれてリサーチを開始。そして今回は、熊谷の北部と深谷エリアの石ものを見て廻ろう、と予定を立てました。

深谷エリアの石ものもアツイ!
熊谷は、平家物語でも有名な「熊谷次郎直実」の出身地ですし、有力鎌倉武士の地だというのはよくわかっていました。なので、鎌倉時代の立派な板碑がたくさんあるのはよくわかっていたんですけど、そのお隣の深谷市は盲点でした。石部の根本教典(?)である川勝先生の『日本石造美術事典』に掲載されていなかったことも大きな理由です。

調べてみますと、確かに板碑はあまりないですが、立派な五輪塔が数基あります。私たちはまず、その五輪塔を見て廻ることにしました。

まず訪れたのは、「平忠度(たいらのただのり)の墓」。深谷駅から車で5分ほど。歩いても15分くらいの清心寺境内にあります。
清心寺立派なお寺ですよね!……いや、実は私たち、深谷駅周辺に来てちょっと驚きました。ほんとなめててごめんなさい、というかんじなんですけど、神社やお寺が多く、しかもとても立派なんです。
さらに少し車を走らせていると、美しい小川がそこかしこを流れていて、水が豊かなことがわかります。こういう環境は、間違いなく「豊かな土地」ってやつです。熊谷もそうですけど、こういう土地に鎌倉時代有力ご家人がいたというのはとてもわかりやすい。納得の地勢です。
清心寺そしてきよぎよしく立派な本堂。ドドーンとしていて「武士!」ってかんじ。かっこいいですね。こちらのお寺は、室町時代、深谷を領していた深谷上杉氏の有力家臣だった岡谷氏創建だそうです。

平忠度さんと岡部六弥太さんの因縁
お寺の門をくぐってすぐ左にお目当ての五輪塔はありました。でも、本堂でまずはご挨拶…というわけで、お参りを済ませてから改めて入り口付近に戻ります。
平忠度の墓標はいこちら!
立派な看板もあります。「平忠度公墓」。

さて、この「平忠度」さんですが、どんな人と申しますと、平清盛の異母弟です。弟と言っても26歳も年下。紀伊半島の熊野で生まれ育った人らしい。

武人としても見事な人だったらしいですが、歌人としても有名だったそうで、一ノ谷の戦いで、源氏方のご家人、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)に討ち取られた時も、敵味方なくとても惜しまれたんですって。

実は、この五輪塔も「墓」となってますけど、実際には骨が入ってるわけではなく「供養塔」なのです。平忠度を打ち取った張本人である岡部六弥太が、その死を悼み、供養のために自分の領地の一番景色のよい場所に、この五輪塔を建てたんだそうですよ。いやあ、なんかいい話ですよね。
平忠度五輪塔こちらがその五輪塔です。火輪(笠)や水輪(丸い真ん中の部分)の様子を見るとそれほど古くなさそうに見えます。古くても鎌倉後期くらいじゃないかな…。市の文化財資料をみますと「鎌倉~室町」とあります。定かでないんですね。

この塔を建てたという岡部六弥太は、1197年(鎌倉初期)に亡くなってますので、時代が合わなくなっちゃいますね。ううむ。しかし、この塔は鎌倉初期まではいかないですよねえ。ううむ。

とはいえ、この塔のすっきりとさわやかな印象はいいかんじです。伝承にある「平忠度」の文武両道な人物像と、それを悼む武人・岡部六弥太の印象ととてもよく合ってます。

さて、そしてその横には、板碑もありましたよ。
板碑こちらは、深谷市指定文化財になっていますが、詳細不明。資料によると「鎌倉」とだけありますね。上部分が欠けてしまってますが、残っている蓮台の様子なんかを見ますと、キリッ&スパっなかっこいいかんじ。鎌倉中後期、かな~。ううう、わからない。
#どなたか、ご存知の方、ぜひ教えてください!!

(続く)

イシブカツvol.9 東京真ん中編⑤山縣さんちの石もの〔後篇〕(椿山荘)


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世紀の大発見

さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
般若寺燈籠

かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!

さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
般若寺の灯籠というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。

名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。

なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。

現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;

「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。

もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
東大寺大仏殿たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
秋篠寺こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。

奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。

いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。

「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。

般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。

いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
般若寺燈籠ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。

笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。

普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。

しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。

本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。獅子後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀と鳳凰孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。

「むとうさん、ここ、ここに注目!」
孔雀の脚石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。

「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」

なるほど!

確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。

「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」

なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。

それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。

ふほおおお。

ため息をつく石造センパイと私。

こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。

(終わり)