file.2 究極形の五輪塔/伴墓五輪塔(奈良県)

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東大寺を再建したスーパーお坊さん・重源(ちょうげん)さん
「五輪塔」といえば、とても気になる五輪塔があります。それは、東大寺横の三笠霊園にある『伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)』(重文)。

鎌倉時代、平家によって東大寺は燃やされてしまったんですが、その復興を指揮した人物に、重源さんというめちゃくちゃすごいお坊さんがおります。この五輪塔はその重源さんを供養するためとも、お墓であったとも伝えられているものなんですね。

実はこの重源さん。ほんと~~にすごい人なんです!!

東大寺って、今見てもものすごく大きくて立派ですね。しかし、あのお寺のすごいところは、あの建物を建てるにあたっての「方法」「コンセプト」なんです。
国家で全額出す、とかそういう方法ではなく、いろんな階層の人々の寄付でもって建造する、というのが、創建した時に大切に考えられた方法でした。

なので、鎌倉時代に再建するにあたっても、その方法を踏襲しました。
日本中にお坊さんを派遣して、様々な階層の人から寄付金を集め(勧進)、そのお金であれだけ大きなものを作り直したんですね。
その取りまとめをしたのが、この重源さんというお方なのです!

これってものすごく大変な大事業ですよ~~!
想像を絶するほどの大勢の人々、思惑をコントロールしつつお金を集め、最終的に、あれだけ大きな鋳物の金銅仏を作り、なおかつ巨大な覆い屋(建物)を作るんですもの!

重源さんは、この再建を任された時、すでに61歳だったといいます。今聞いてもその歳からこの大事業の責任者!?と思いますけど、当時の60代は今よりももっと上の年齢の感覚だったでしょう。そんな年齢から、なんと20年余りをかけて重源さんは見事その責任を全うし、大仏殿を再建したのです。

すごくないですか!?マジで!!

美術史に燦然と輝く、鎌倉時代の名品たちの揺籃
また、重源さんの普通じゃないところは、自分自身でも、工人的知識・土木知識を持っていたところ。重源さんは、なんと中国(南宋)を三回も訪れたといい、中国の最先端文化に精通していました。なので、再建にあたり中国の優れた工人をたくさん呼び、中国の工人や日本の工人に優れた建造物・仏像・石造物をたくさん作らせました。

あの、天才仏師、運慶・快慶しかり。仏像にしても建造物にしても、工芸品にしても、鎌倉時代には本当に素晴らしい名品が数多く作られましたが、その背後には、びっくりするぐらいこの重源さんの影があるのです。

重源さんは、事業家としても天才的でしたが、美意識・見識も抜群の人だったんでしょうね。彼が成し遂げたことを何度も何度も見続けてますと、本当に頭が下がります。そして、心からあこがれてしまうわけなのです!

さて、この五輪塔はとても有名な五輪塔なんですけど、なんで有名かというと、鎌倉時代のスーパースター重源さんゆかりのもの、という点以外に、そのスタイルが一般的なものと異なるということもあります。

gorintouちょっと繰り返しになってしみますが、五輪塔というのは左のイラストのようなスタイルで作られています。

下の基壇(地輪)は四角、水輪は丸、火輪は三角…という形で、これらすべてが、とある経典の教理の具現化でもあるわけなんですね。

そして、立体的な言い方をすれば、地輪は四角柱、水輪は、球体、火輪は「四角錐」になっています。
平面的に見たら、四角、丸、三角に見えますし、造形的にも、物理的にもおそらく安定するだろう、という形です。

しかし、この「伴墓五輪塔」は、その火輪が四角錐ではなく、「三角錐」なのです。このスタイルのことを「三角五輪塔」と呼びます。

これです!

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

正面から見ると、見事に「四角・丸・三角」ですよね!
それで、この屋根みたいな部分(火輪)が、立体的に見ても三角形なのです。どういうことかというと…
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こんなかんじです。

こうしてみると一目瞭然ですが、四角錐の火輪のほうが、作りやすそうだし、安定すると思うんですよね。
だけど、あえてこうしたかったわけです。つまり、このスタイルは、「火輪は三角形である」というコンセプト面をより大切に、強調している形、と言えるんじゃないかと思います。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

コンセプト重視の「究極の形」
この「三角五輪塔」は、重源さんがとくに好んだスタイルだったようです。
重源さんゆかりのお寺では、水晶製の舎利塔など、この三角五輪塔のスタイルであらわされているものが、いくつか残されているそうなんですね。

そのために以前は、重源さんが考えたデザインじゃないか、という説もあったそうなんですけど、今では重源さんが修業した醍醐寺ですでに三角五輪塔のデザインがあったことがわかっているとのこと。つまり、自分自身のルーツである醍醐教学の大切なエッセンスである三角五輪塔を、重源さんも大切にしていた、という 証、と言えるかもしれません。

じつは、この伴墓五輪塔を初めて見た時、私はそのアンバランスさに驚きました。

笠がずれてるような気がしましたし、とにかく不安定な感じがするんです。
だけど、よくよく見てみると、そのアンバランスさに何とも言えない魅力があります。

これも私の勝手な想像なんですけど、重源さんってとっても人間らしい、清濁併せのむタイプの、スケールの大きな人だったんじゃないあと思うんですよね。ある人にとってはまるで菩薩のようで、ある人にとってはまるで悪魔のような…そんなアクの強い人だったんじゃないかなあ。

けして器用なタイプの人ではなかったんじゃないかと思うんです。でも、人を信頼するとか、一度決めたら絶対に意志を曲げないとか、そういう強さを持った人だったんじゃないかなあと。
だから、周りの人も、「重源さんがそういわはるんやったらやらなしゃあないなあ」とかそんな感じで、彼を応援していったんじゃないかな、なんて思うのです。愛さずにはいられない、憎めない人、というか。愛嬌たっぷりの人だったんじゃないかなあ。

この三角五輪塔には、そんな気配を感じるんです。
アンバランスだけど、コンセプトを表現する形としては、最強です。余分なものが何もない。むき出しの何かがそこにあります。
それは、重源さんという人そのもののような気がするのです。

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