【2015会津旅】③復元・慧日寺跡で妄想。そして徳一さんのお墓「徳一廟」へ


さてさて、徳一さんに思いをはせつつ、金堂(復元)を出ましてぐるっと回ってみましょう。

金堂の裏手には講堂跡がありまして…

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こんなかんじです。
柱跡によって示されてますので、後は妄想力で98%カバーしましょう。
この講堂の奥には食堂(じきどう)がありますが、そばまで行かなくてもいいかな~と思って、遠方から眺めるにとどめました。そして講堂の右手には仏堂跡があります。碑が建てられておりまして、遠目で見ますと鶴石亀石、みたいな様相を呈しておりまして、なんとなくお庭っぽい、

なかなか妄想力全開にしましても、往時の姿を想像するのは困難ではありますが、金堂があり、講堂、食堂、仏堂があるというのは、とにかく簡単に言えば大伽藍です。しかも、この復元されているところは、中心部ではありますが、全体を見たらほんの一部なんだそうで、

「磐梯山の山体の西側には、より古い火山である猫魔火山の外輪山をなす猫魔ヶ岳、厩嶽山・古城ヶ峰など1000メートルを超す山々が連なっています。恵日寺の伽藍はこれらの山々の南斜面に広く展開していたようですが、往時の広がりはいまだ明確に計り知れておらず、山中にはまだまだ多くの建物跡が埋もれていいると思われます」(磐梯町資料『史跡慧日寺跡』より引用)

だそうですよ!
想像を絶する規模の巨大仏教センターが、この磐梯山山ろくに展開していたということですね。

そして、いよいよ今回私がどうしても慧日寺にきてみたかった理由の場所を、拝観しにまいりましょう。

おほほほ、こちらですわよ~。
そうです、私は「徳一廟」、つまり、徳一さんのお墓にお参りしたかったのです。徳一さんのお墓はこの史跡から少し歩く場所にあるようで、ゲートがありますね、どれどれ……。

……と。
んんん???
aidsu3これまでも、実は看板が随所にありまして、でもあまり気にしなかったんですけど、ここまで何度も書かれてますと、さすがに気になります。クマとハチに注意しろと!??

うううむ。

根がビビりな私の足は止まりました。

何しろ、この史跡跡に入場してから、受付のおねえさま方以外の人類にお目にかかっておりません。けっこうしつこく一時間くらいこの場所にいたのに、です。
つまり、圧倒的に、人の気配より自然物の気配のほうが濃厚です。

やだなあ、クマ。間違いなくこの辺熊いるよ、わかるよ、なんとなく。

しかし、ここでお墓参りしないってのは、あまりにも悲しい。
勇気を振り絞って、観に行くことにしました。いざとなったらどうにもなりませんので、いざとなりませんように、とお祈りしつつ前へと進みます。

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おおお!ありました!
あれが、徳一さんのお墓の覆い屋です!!

このなかに、徳一さんのお墓だと伝わる石塔が安置されているのです。
それにしましても、ずっと蜂の羽音がぶんぶん言ってます。ううう、こわいよう。

ビビりながらも、まず、正面で手を合わせお参。そしてちょっと失礼して中を覗いてみますと……

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こちらが徳一さんのお墓だと伝わる石塔(五重層塔)です。

ちょっとイシブ的な見方になっちゃいますが、なるほど、これは古様です。屋根の軒ぞりがゆるやかで、大らかな感じがします。たしかにこれは平安時代までさかのぼりそうな趣きです。

この塔、積雪で倒壊したことがあったそうで、その際に二重目から土師器の甕(かめ)が発見されたそうです。資料が見つけられなかったのですが、中には何か入っていたんでしょうか。ひょっとして徳一さんの舎利(遺骨)が入っていたんでしょうか。
ちなみに、徳一さんのお墓と伝わるところは、実はここだけではありません。分骨しておまつりしたのかもしれませんね。

(続く)

【2015会津旅】②徳一さんはなぜ奈良から会津にやってきたのか


恵日寺さんにまずはご挨拶
お寺の方が、たまたまひょいと登場されまして、思いがけず中に入ってお参りできることになりました!
ご本尊のある内陣の前で参拝すると、「もしご興味がありましたら」と横奥のほうにある発掘された遺物が保管されているお部屋をちょっとのぞかせていただいちゃいました。うふふ。

写真は撮ってはいけないということでしたので、残念ながらありませんが、江戸時代中期の建造物と言う本堂は、とても立派な、個性的なものでしたよ。

私が何より感心してしまいましたのは、木材の立派なこと。樹齢何年だろう、というぐらい太い木からでないと取れなさそうな美しく大きな板戸。そこに、これまた美しい画がふんだんに描かれています。贅沢!

ご本尊は、徳一さんが創建した時は、もちろん「薬師三尊」像だったようですが、現在は当時のお像はもうありません。でも、今の恵日寺さんでもかわいらしいご本尊が三尊大切に祀られていました。実は、お話に夢中で、ご本尊にお参りしたものの、しっかりとじっくりと拝見してないんですよね。たぶん千手観音菩薩像がご本尊だったような気がしてるんですが、でも脇侍が二尊、菩薩像だったような気がするので、私の勘違いかもしれません。

お寺の方のお話では、室町くらいまでさかのぼるかもしれないという研究者もいます、とおっしゃっておられました。なるほど、確かに…。
#個人的には、(近くで見たわけではないので、あてずっぽうですが)江戸時代初期、元禄くらいまでさかのぼるかもしれないなあ、と思いました。

そして、いろいろ見るべきものをお教えいただき、いざ出発!
『史跡 慧日寺』へと向かいますよ~!

復元・慧日寺はやっぱり派手だった
恵日寺さんから歩いて3分ほど。復元された中門と金堂へと…
20151028-1入口で入場料を払いますと、資料館も一緒で500円。リーズナブルです。
20151028-2こちらが中門の復元。そして…

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こちらが金堂!今風に言えば本堂ですね。
金堂の前に敷き詰められている敷石も、当時の遺構からの復元だそうですよ。

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金堂の内部です。

それにしても壁や柱が朱色ママですと、派手に見えますよね~。今となるとシブイ各地の名刹も、建立当時はこんな感じだったわけですね。これぞまさに異空間ってやつですよ。「この世のものではない空間」っていうか。

やっぱね、こういうの見ますと、当時の「仏教」の位置づけが何となく感じられてくるような気がします。

「最先端の舶来文化」。

そのセンターが仏教寺院だったんだなあ、と改めて思うのです。

徳一さんは、「超エリート+最先端知識人」
ところで、今回連呼し続けております、「徳一さん」についてなんですけどもね。
一言で言うと、「最高の教育を受けた超エリートで最先端知識人」なお方なのです。

現代では、「お坊さま」とききますと、あくまでも宗教人としてのイメージがわいてくると思うのですが、徳一さんが生きた時代では、ちょっと意味合いが違うんですね。いえ、違うというか、なんというか。

今風に言うと、超エリート国立大学みたいな、全国の頭のいい人たちが集まってくる場所、というのが当時の奈良のお寺さん。もちろん目的は信仰かもしれませんけども、とにかく当時の最先端の考え方であった仏教の経典を学び、研究し、修行・実践する場所がお寺さんだった、と言っていいと思います。

徳一さんは、その中心的寺院である興福寺の「修円(しゅえん)」という人について学び、東大寺に住していたと伝わります。
この修円さんというお方がまた、当時最高の知識人の一人として世間からも評価の高いお方だったのです。そのお弟子ですからね、ほんとど真ん中ですよね。

徳一さんは、藤原氏関係者?

……あれれ??

しかし、『国史大辞典』の「徳一」項目によると、「師は修円と伝えられるが疑問がある」とありますよ。

徳一さんは生没年がはっきりしていないのですが、国史大辞典などによりますと、760年頃から840年頃としてます。
たいして、修円さんは、771年に生まれて834年入滅、とあります。すると、師匠である修円さんのほうが11歳年下ということになっちゃいますよね。それはちょっと不自然だなあ。しかも、徳一さんは20歳ごろに「東国へ行った」と伝えるものが多いので、余計におかしなことになっちゃいますね。

ちなみに、空海さんは、774年生まれで修円さんより三つ若くて、最澄さんは767年生まれなので、修円さんより4つ年上。それにしても、この年代、アツいなあ。日本仏教の偉人が何人も、同時に生きてるんですね。

話がちょとずれました。
徳一さんに戻しますと、師匠はひょっとしたら違うかもしれませんが、奈良のお寺で最高峰の仏教を学んだのは間違いないと言えます。さらに、当時、ヤマト朝廷が東北の〔前哨地〕として、重要視していた筑波(茨城)と会津に、彼は布教をするために行くわけです。

一説に、徳一は恵美押勝(えみのおしかつ)こと藤原仲麻呂(聖武天皇のいとこ)の息子ともいわれ、恵美押勝の乱で失脚、斬死した父の余波で東国に流された、とするものもあるんですけど、それはどうなんだろう、とちょっと疑問を覚えます。
本当に息子であったかは、確かめようがありませんけど、やっぱりここでもいえることは、こういう伝説がある以上藤原家に縁の深い人だったんじゃないかと思うんですよね。

それに、勉強していた「興福寺」は、藤原氏の氏寺です。
さらに、徳一さんは、会津の前に筑波に入り、中禅寺というお寺を建立するんですが、このつくばのある地域(常陸国(ひたちのくに)・現在の茨城県)と言うのは、鹿島神宮や香取神宮もあって藤原氏にとって先祖代々関係の深い土地ですものね。また同時に、ヤマト朝廷が東国・東北経営のために重要視していたルート、そのものとも言えます。

徳一さんが開祖となったお寺は何と70箇所を越えるとされるんですが、そのように大きなお寺を次々と立てることができたのも、 大きな支援者がいたからなんじゃないか、と考えてしまうんです。こういった当時の状況をどうしてもつなげて考えちゃいますよね。

(続く)

【2015会津旅】①平安時代のカリスマ・徳一さんを訪ねる旅へ


「なぜそこにその仏像が?」を考える
仏像を拝観する時、ただ溜息をついて、うっとりする時間をたっぷりとった後、「なぜその仏像が、その場所にあるのか」ということをいつも考えます。

「仏像」とは、造像された時代の「文化力の精華」であり、一つの結果だと考えるからなんですが…。と申しますのも、仏像(と安置する寺院建造物)を造るというのは、今も昔もお金がかかることです。つまり、パトロンが必要です。発起者が、お金をそれぞれ出し合った民衆であることもあるかもしれませんが、多くは、その地域の権力者または、その土地に関わった権力者がパトロネージしたものなわけですね。

奈良や京都のような都があった場所や、鎌倉のように幕府があった場所は、ハイクオリティな仏像がある理由はすぐにわかります。当時の最高権力者がいる土地ですからね、パトロンはそういった権力者、もしくは周辺に集積した富ということになるでしょう。時代によってデザイン的アップダウンはあるにしろ、です。

でも、地方でぎょっとするようなハイクオリティな仏像と出会うということがあり、そうなると余計に「なぜここにこんなにすごい仏像が?」と考えてしまうんですね。

「この仏像がある、ということは、ここにはその時代、大きな経済圏があったんだな」
そう連想するわけですね。

「仏都・会津」の祖、徳一さん
ちなみに、会津もそんな場所です。東日本の中でも突出して古い仏像(平安時代初期)が多い地域で、そのハイクオリティっぷりには本当に驚かされます。
#ちなみに東北で初めて「国宝」(彫刻部門)に指定されたのは、勝常寺(会津湯川町)の薬師三尊像です。

そして、俄然クローズアップしてくるのが「徳一(とくいつ)」さんという、お坊さまです。
福島県を代表するお寺さんの多くはこの「徳一」さんが開祖と言ってもいいくらい、福島仏教界を代表する傑僧です。
平安時代初期を生きた人で、日本仏教界の巨人・空海さんや最澄さんと激しく論争したことでも当時から高名でした。日本仏教史上に燦然と輝く偉人の一人です。

かねてから、徳一さんに憧れを抱いてきた私としては、やはり、徳一さんが最初に開山したとされ、お墓もある「慧日寺」を一度ぜひ訪ねてみたい、と思っていたのでした。

しかし残念ながら、「慧日寺」は、もうありません。
でも今は、復元された「史跡 慧日寺跡」があります。まずはそこを観に行きますよ~!

20151026-1磐梯町駅を降りて、歩いて20分ほどすると、…みえてきました!
道の先に、赤い建物がありますよ。あれだ!

…と。
その手前に「恵日寺」という矢印があります。
あれれ??
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「慧」日寺、ではないけど「恵」日寺。
よくわかりませんが、きっとこの恵日寺は現役のお寺さんです。まずこちらでお参りしてから史跡のほうに行こう、と決めました。

何事もご挨拶が大切ですからね!
20151026-3立派なご本堂ですね~!
その前に、看板があります。ナニナニ…

なるほど……。

ざっくりまとめますと、徳一さんが開創したお寺・慧日寺は、戦乱などにより何度も燃えたりしつつ、幕末までお寺があったのですが、神仏分離令による廃仏毀釈により、廃寺。
しかし、その後、塔頭の一つであった観音堂のご住職が旧寺名を復興、「磐梯山恵日寺」と名乗って、現在に至る…、ということだそうです。

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いやあ、それにしても、こちらの本堂変わった造りですね!
玄関の上にある部分、いわゆる〔唐破風〕かな?と思いますけど、こういう形のもの始めてみましたよ。新鮮!

手前でご挨拶だけして失礼しようと思ったら、お寺の方が現れて、中へどうぞと言ってくださいました。やあ、こういう運だけは持ってるのが、私ですよ~!

(続く)

【関西旅2015】③なぜご本尊が「十一面観音」、「水」が重要、そして若狭(小浜)から送られてくるのか。構成要素で妄想してみると…


なぜ『お水取り』が重要とされるのか

素人の私がいくら頭をひねっても、その真相などわかる訳もありませんが、しかし私なりに妄想してみたいと思います。

まず、

1.この行を始めたのが「実忠」さんである、ということ。

2.二月堂のご本尊が十一面観音であるということ。

3.実忠さんがこの行事を始めようと思ったきっかけのお話し【笠置山の穴(龍穴)に入ると、そこは兜率天。天人たちが十一面観音悔過を行っているのをみて、人間界でもこの行を行いたい、と切望し、……】にあるように、どこかほかで行われていた優れた行事を実忠さんがもたらした、ということ。

4.重要なのが「水」であるということ。そしてその水は若狭から送られる、ということ。

このあたりにあるキーワードを拾って、ちょっと妄想してみましょうか。


実忠さんはインド人? 国際色豊かだった古代日本

まず1.の「実忠」さんという人、なんですが。

私は何度も若狭小浜を訪ねてますので、ごくごく普通にこの実忠さんという人が、インド人であった、と思っておりました。小浜市のガイドブックや、神宮寺関係のパンフレットにはそのように書かれていますし、そもそも東大寺の開山である良弁(ろうべん)さんも小浜市出身だ、とされています。

しかし、国史大辞典や東大寺のサイトなど確認しますと、そのようなことは一切書かれていません。
国史大辞典によりますと、良弁僧正は近江国か相模国の人だ、と言い、実忠さんは出自がわからない、としています。

ほかの辞書でも、ほとんど同じ。おそらくこの説が通説なんでしょう。
ですので、小浜に残る「良弁さんの出身は小浜」「実忠さんはインド人」というのは、伝説、ということになります。

しかし、単に伝説と言って片付けてしまうのもちょっともったいないようなお話しです。

意外と知られていないかもしれませんが、この時代、外国の人がたくさん来日していました。有名なのは、東大寺の開眼供養を行った菩提僊那(ぼだいせんな)僧正でしょうか。彼はバラモン階級出身のインド人仏僧で、請われて来日し、大安寺に入り、日本仏教の興隆に尽くしてくれました。菩提僊那と一緒に、渡日してきた僧、仏哲はベトナム出身、道せんは唐の出身です。想像以上に国際色豊かだったのが当時の日本なんです。

そうした背景を考えますと、実忠さんが、インド人でも不自然ではありません。
また一説にはペルシャ人(イラン)だったともいわれるそうですが、それも不自然ではありません。当時ペルシャ人が来日し、聖武天皇に拝謁している記録も残っているからです(『続日本紀』)。

ちなみにペルシャ人は当時、「波斯(はし)人」と呼ばれていました。このこともちょっと記憶しておいてください。

十一面観音さんと言えば「水」という連想

そして次に「ご本尊が十一面観音である」、ということです。

仏像好きな人であればピンと来ると思います。頭の中にこんな連想が浮かぶ人は多いんじゃないでしょうか。

【十一面観音さんがご本尊→水→北陸・泰澄(たいちょう)・白山(はくさん)信仰】

よく知られた話ですが、十一面観音さんは「水」とたいへん深いかかわりがあります。もともとインドで天候や雨を支配した神がベースになっている、ということもあるのでしょうか、十一面観音さんがおられるところの近くには、たいてい重要な水源、川、湖などがあります。

また十一面さんといえば、泰澄の白山信仰でしょう。

白山は、富山にある霊峰ですが、この山を開いたのが泰澄さん。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより白山へ登拝しますが、頂上で、白山神の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観音が出現します。

こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広く伝わっていくのですが、この泰澄さん、東大寺関係者とも強い関係があります。

まず、聖武天皇。
聖武天皇の前の天皇で聖武天皇の叔母にあたる元正天皇という女帝がいたのですが、この方の病を泰澄さんが祈祷で平癒させたため、女帝の篤い信頼と帰依を受けます。

そして行基。
東大寺創設の功労者である行基さんは、泰澄さんを訪ね、ともに白山に登り語り合います。哲学者・梅原猛さんは、この時、行基さんは泰澄さんより「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることを学んだのではないか、と推察しておられます。

そして「お水送り」の舞台である小浜。
小浜には、大変有名な美しい十一面観音さんが居られます。羽賀寺というところのご本尊ですが、こちらは元正帝のお姿を映したもの、と言われています。そしてこのお寺は元正帝の勅願により、行基さんが創設した、と伝わっているのです。

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(こちらが羽賀寺の十一面観音さん。何となく日本人離れしてこってりした顔立ちの美人ですよね?)

羽賀寺のある場所は、お水を送る舞台になる神宮寺と鵜瀬からは結構離れてますが、この小浜という地域全体が何となく、聖武天皇ファミリーと近しい間柄にあるような感じをうけます。

つまり、ご本尊が十一面観音さんである、ということは、「水」と縁が深い、とまず連想されますし、その水が聖武帝ファミリーとも何かと縁のある小浜から送られてくる、ということは何となくあり得る話、という感じがしてくるわけです。 必然性と申しますか…

(続く)

【関西旅2015】②1264年一度も途切れず行われてきた行法『お水取り』、そして『お水送り』


十一面観音さんに懺悔する「十一面悔過(じゅういちめんけか)」

東大寺の「お水取り」をどうしてもみたくて、奈良を訪れたワタクシ。

「一度は観ないと安心して死ねないわっ」と長年思ってきたので、今回奇跡的に時間がとれたのは、まさに念願のチャンスでした。

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(おなじみ大仏殿。何度見ても巨大ですが、こちらは江戸時代の再建でして、創建当初はもっと大きかったそうですよ)

さてさて、ではどうしてそんなにも観てみたかったのか。

それは東大寺という日本仏教史上格別なお寺さんの歴史そのものであり、もっといえば日本における仏教史そのものともいえますし、また、日本ならではの仏教とプリミティブな信仰との集合形態のもっとも明らかなものであるから、といえますでしょうか。

お水取りが始まったとされるのは、752年。東大寺の大仏殿の開眼供養が行われたのが749年ですから、開創まもなくのタイミング。
この東大寺の開眼供養を行った開祖・良弁僧正(ろうべんそうじょう)の弟子、実忠和尚(じっちゅうかしょう)という人が、創始されました。一説にによると、この時実忠さんは20代。オフィシャルな行事として始まったのではなかったのではないか、と言います。

正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」というそうなんですが、この十一面とは「十一面観音」さんのこと。「悔過」とは、懺悔する、という意味です。東大寺の二月堂のご本尊は十一面観音さん。このご本尊に、練行衆という特別に選ばれたお坊さんたちが、日々さまざまな過ちを重ねている私たちに代わって懺悔してくださる、という行なのですね。

本行は14日間行われるのですが、そのタイムスケジュールで行われる行の内容をみても、 シンクレティズム(神仏習合)であることがとてもよくわかります。

『お水取り』と『お水送り』

そもそも、正式名称は「十一面悔過」なのに、なぜ『お水取り』と呼ばれるのか。
『水取り』と呼ばれる行は、14日間のうち12日目に行われるもので、全体を示すものではないのです。しかしこの行が「最も大切な行」である、とされているのが、奇妙で面白い。

これまた不思議なお話があるんですね。『二月堂縁起』という本によると…。

実忠さんがこの行を始めたときに、日本中の神々に呼びかけ招きました。しかし、若狭国の遠敷(おにう)明神という神さまが、川で魚を取っていて、遅刻してしまいます。
遠敷明神はこれを歎いて謝罪し、実忠さんにこう約束します。「道場のほとりに香水を出して奉るべきよし」。すると、黒と白の二羽の鵜(う)が、岩の中より飛出でて、その跡からお水がわき出でた…。

ううむ。不思議ですよね。なぜこのエピソード、このお水をとることが重要な行なのか。

ちなみに、水をとる、行事があるということは、お水を送る、という行事もあるんですね。これを『お水送り』と言い、今も、福井県小浜市で粛々と行われています。3月2日の午後6時。神宮寺の境内の井戸から水が汲まれて、近くの遠敷川にお水を流します。

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(こちらが若狭神宮寺。私は若狭小浜が大好きなので、こちらの神宮寺さんには何度もお参りしてます)

ここで流されたお水が10日かかって、東大寺の境内の若狭井と呼ばれる井戸から湧き出す、とされており、これをうけとる行事が『水取り』というわけです。

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(こちらが神宮寺境内にある「閼伽井戸(あかいど)」。ここから水をくんで、2キロほど離れた遠敷川の「鵜瀬」というところからお水を流し〔送り〕ます)

この一連の行事が、最も重要な行の一つだ、とされてるのは、本当に不思議です。

そもそも仏教的なお話しではない。しかも、遅刻した神さまが送る水が、ものすごく大切なのはいったいどうしてなのか……。

「すべてのことには理由がある」

尊敬するN先生の口癖ですが、まさにこれもそうだと思います。一見穏やかな昔話のようなこのお話ですが、何か重要なファクターを示してくれている、とそのように思われますね。

(続く)

【関西旅2015】①東大寺のお水取りに行ってきました!!


先週土曜日から3泊4日で、奈良と大阪に旅してきました。

今回のお目当ては2つ。

奈良で念願のお水取り@東大寺をWさんとご一緒して拝観することと、大阪でH山先生の親友でいつもたいへんおせわになっているAさんにお目にかかること。結果的に天候にはかなりやられましたが、とても実り多き旅になりました。

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は別名「お水取り」と呼ばれ、とても有名ですね。
この行事は、選ばれた僧侶11名が(練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれます)、すべての人々に代わって1年の罪を十一面観音菩薩に悔い(悔過)、国家の安泰、五穀豊穣などを祈る法会(ほうえ)をいい、今年で1264回目を数えます。
なんと「1264年」もの間、一度も途絶えることなく続けられてきた行法なんです。まさに奇跡です!世界でもほかにこのような例はないと思います。「不退(ふたい)の行法」と呼ばれるのはごもっとも…

さて、まず、私が奈良を訪れた3月7日。お水取りは、本行が14日間行われるのですが、この日はそのちょうど真ん中、7日目にあたります。

7日のお昼頃奈良市に到着し、さっそく春日大社にお勤めのWさんと合流。
めちゃくちゃ美味しいおうどんをいただき、その後車で柳生の古社をご案内いただきました。

20150314-4(ランチはおいなりさんサービス。知らずにきつねうどんにしちゃったので、おあげ祭りになってしまいましたw)

さすがWさん、一人では決していけないような古くてパワフルなお社を見せていただきましたので、この詳細はまたあらためてご報告したいと思いますが、まずはお水取りに話は戻しまして…

7日目は、後半7日間ご本尊となる小観音(こがんのん)さん出御(しゅつぎょ)の日で、ぜひともその様子を拝見したいと意気込んでました。ところが、もう、ものすごい大雨(涙)。

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おたいまつは19時から始まるというので、17時20分ごろ早めに出向きましたが、もう時を逸してしまったようで、お堂の中に入れません。たまたま一緒になった隣の方の話では16時半くらいに来ていないとお堂の中には入れないんだそうですよ。

……ううう。この段階で小観音さんのお神輿は見られないこと決定。

雨は弱まるどころがますます激しさを増しますが、このまま宿に帰るのはあまりにも口惜しい。歩いてきただけでも、もう足下はびしょ濡れ。もうここまで濡れたら一緒だわ!とばかりにこのまま2時間余りここで踏ん張ることに……。

こんな雨ではたいまつの火が消えてしまうんじゃないか?そんなことさえ考えてしまうほどでしたが、お松明はそんなヤワなものではありませんでした。

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おおおおおお!!!

すごい迫力です!

向かって左側にある廻廊からお松明が登っていき、二月堂のテラスをなめるように走り抜けます。

以前、大分の国東(くにさき)半島の寺々で行われる修正鬼会(しゅじょうおにえ)を観に行った時も、その松明の大きさと、歴史ある本堂の内部で松明を振り回すありさまに、思わず言葉を失いましたが、今回もまったくその時と同じ心境です。

木製のお堂に火が燃え移らないか、ハラハラし通しですが、しかし粛々と巨大なお松明は10本も通り抜けます。あとで調べましたら、一本の重さは約40キロ、長さは約6メートルもあるそうです。これを一人で担いで走り抜けるんですから、それがまたすごい。

IMG_0206お松明を持って走り抜ける人(童子)もかなり個性があります。テラスの角で大きくお松明を突き上げるのですが、大きく振る人と、静かに振る人がいます。大きく振る人だと、観衆からは思わず感歎の声が上がります。この火の粉を浴びるととても縁起がいいそうなんですね。残念ながら私のいるところは遠すぎて、火の粉は飛んできませんでしたが、まあ、観るだけでもきっとご利益はあると信じましょう!

お松明、始まってみましたら約30分。あっという間でした。

行自体はこの後も午前2時までお堂の中で続きますが、雨でびしょ濡れ、気温も下がってきて寒くて寒くてここで限界。Wさんと合流し、Wさんの車に乗せていただいて、いつもお世話になっております、居酒屋「鬼無里」さんに避難しました。

いやあ、それにしてもすごかった。
しかし、体はびしょびしょで、足は寒くて感覚がありませんが、なんとなく気持ちが高揚して結構大丈夫な気分!これぞ非日常!

でも、鬼無里さんに入った途端、もう足が気持ち悪くて仕方なくなるわたし(我に返ったとも言いますね)。
おトイレでストッキングを脱ぎ靴下を脱ぎ、タオルを貸していただいて足を拭き…。久しぶりにお会いした大将に甘え放題甘えさせていただいちゃいました。

そして、Wさんと、Wさんのお友達Kさんと美味しいお食事をたくさんいただき、たくさん楽しいお話しをして、びしょ濡れながらも心は晴れやかに初日は終わりました。

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(とくにこのブリ大根が冷えた体と心に沁みました~~!大将、ありがとうございます!)

(続く)

 

【若狭旅】⑤観る者を無碍自在へと導く美しさ!中山寺ご本尊、秘仏・馬頭観音菩薩坐像


秘仏・馬頭観音菩薩坐像!!

さて、今回の旅の、最大の目的である中山寺のご本尊を拝観しましょう!

実際に拝観したのは11月ですからもう三ヶ月くらいたちますが、あの感動は今見たかのようによみがえってきます。

中山寺の山門で、えらいこと感動したわたしでしたが、またこちらの本堂を前にして思わず震えました。

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かっこいいです!!!!

1343年に建立されたという本堂は、重要文化財に指定されています。この穏やかながらもすっと伸びた屋根の反りの美しいこと。

そして由緒正しいお寺にふさわしい、正面一基の金燈籠。灯籠自体は新しいものですが、このスタイルを選ばれているところが、さすがという感じです。

この中に、あの白洲正子さんも絶賛した馬頭観音さんが居られるとは。なんと相応しいんでしょうか。

文化財に指定されますと鉄筋コンクリートで耐震構造のある建物で保管しなければならなくなったりします。どうしても、法律上しょうがないことなのですが、やはり本来祀られている場所に、そのままある、というのすがたに出会いますと、本当に嬉しくなってしまいますね。

観る者の意識を解き放ってくれるような!?

そしていよいよ、ご対面です。

山門の仁王さんでまずはひと感動、さらに本堂でも感動を重ねて、そこからの馬頭観音さんですよ。期待は否が応にも高まります。

年を経て美しい茶色になった階段を踏みしめ、ほの暗い本堂の中へと入ります。

そして、いつになくいそいそしずしずと、お厨子の中にあるご本尊で秘仏の馬頭観音坐像を拝観しますと…

……

………うっ。

美しい!!

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ご参考までにパンフレットに掲載されてました写真をご紹介させていただきますが、正直言って、この10倍美しいです。

不思議なことなのですが、まさにこのお姿なんですけど、ナマで拝見するとなんか違うんです。気配っていうか。なんと言えばいいのか…。

例えば、腕や手の柔らかく優しい線、写真でもお分かりになるかと思いますが、実際にはその優しさが限りない感じなのです。限りないというか、はてしない、といった表現のほうが合うかもしれません。

また、お顔は憤怒相をとられてますが、男性的に見えて男性的でない。かといって女性でもない。いや、でも女性のもつ美しさ、強さ、そういったものも感じさせてくれるのですよ。それが同時に男性的な力強さをも帯びている、といった感じ。

ううむううむ。

何でしょう、この美しさは!

ちょっともう、どうにも説明できませんよ!

それでも、あえて言うならば……。

圧倒的に美しく、まさに人界を超えた世界を現しておられるので、果てしないイメージの広がりや可能性を、観る者に与えてくれるお像、といったかんじ。

今回私は、このお像に拝観して、すごく「認められてる」ような気持ちがしました。

「よくきたな。そうそう、それでいいよ」

そんなかんじです。肯定されるようなあたたかい感じをいただきました。

でも、また違う精神状態の時には、まったく違う印象を感じるかもしれないと思います。実際、一緒に観た方たちにも、コワイと思った方もおられたようですし、まさに千差万別です。

人によってその姿を変える、まさに「観音」さんそのものではないですか!
無碍自在(むげじざい)、この言葉は禅の世界で妨げるものなく自由である境地のことを言うそうですが、そんなふうに、その美しい変幻自在なお姿でもって導いてくださるような、ものすごいお像だと思います。

こちらのお像は秘仏ですから、生きている間に再び拝観できることはないかもしれません。次は17年後……。

…あれ。50ン歳か。いけるかも??!

また、来たいな。その時にはどう思うんでしょう。自分がどう思うのかすごく気になりますね。

念願の秘仏ツアー、大満喫!
さて、こうして、無事長年の願いであった、中山寺と馬居寺の秘仏・馬頭観音さんにお参りすることができました。

中山寺さんでは、美味しい和菓子とお抹茶の接待もしていただき(ツアーの中の一環です)、とても心地よい時間を過ごすことができました。

あいにくの雨でしたが、とても晴れやかな気持ちになる、いい一日でした。

やっぱり、本物を見るのが一番楽しい!

そしてそのために、はるばる来るのが、またたまらなく楽しいんですよね。たいへんですけど!

(むとう、了)

 

 

【若狭旅】④青葉山の東南を守る中山寺。伝湛慶作の金剛力士像がカッコよすぎる!


神仏習合の世界
日本人にとって「山」は神そのものでした。でした、というか今もその感覚は健在ですよね。

けっこう無条件に、拝みたくなっちゃいません?

空気の澄んだ冬の午前中などに、ふとビルの合間から富士山の姿を見かけちゃったりしたら、立ち止まらずにはいられません。ラッキー!って感じでテンション上がっちゃいますよね。

こうした、自然への親近感、畏敬の念というのは、自然豊かな日本の風土に根差した文化ならではのもの。私の中にもこの土地に生まれたものとして、インプットされている感覚です。

そして、そうしたお山には、その山の神を祀る神社仏閣が多く建立されました。仏教は外来の宗教ですけど、もともとあった日本の信仰とうまく融合し、神を敬い、慰め、仏としても奉りました。
この「仏としても」というとこが日本的なうまい処理ですよね。
「もともと拝んでいたうちの神さま、実は、仏教の仏さんが姿を変えて現れたものだったんだって」。そんな風に、つじつまを合わせちゃった、というのが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という考え方です。

青葉山の信仰の中に

さて、今回見仏して廻っている、この中山寺・馬居寺も、このお山信仰の構造の中にあるといえます。
福井県と京都府の境に「青葉山(あおばさん)」という山がありまして、「若狭富士」とも呼ばれます。「ナントカ富士」と呼ばれる山は、単独で三角形に立ち上がっている(みえる)山で、古くからこの手のお山は聖なる山として崇敬されてきました。
20150127-3(写真:湾を挟んだ半島にある城山公園から撮影。尖った山頂が見えます。たぶんあれだ!)

また『日本歴史地名大系』によりますと、ほかに「弥山」とも呼ばれていたようなんですね。この「弥山(みせん)」という名前は、「御山」の同音同義語で、聖なる山を意味してるんじゃないかと思います。宮島の弥山、なんかと同じです。意味としては御岳とも同じでしょうね。

つまりこの青葉山、この呼び方だけ見てもわかりますね。古くから聖地だったわけです。
お山を開いたのは、白山信仰で有名な泰澄さんと由来にありますが、おそらく泰澄さんが現れる前から信仰の場だったんだと思います。ちなみに泰澄さんは8世紀に生きた偉人。この小浜を中止としたエリアに何かと縁の深い、天武帝・持統帝系譜の皇族の方々にこれまたとても縁の深い人です。

20150127-1

(写真:城山公園をおりて、漁港から撮影。しつこいですけどたぶんあれですよね?!)

そんな宗教宇宙なお土地柄なんですが、何より際立って珍しいのが、この聖地を祀るべく建立されているお寺さんのほとんどのご本尊が「馬頭観音」さんだということです。

その中で廃寺になってしまったお寺さんもありますが、南東側を守護する大寺がこの中山寺と、西南側には現在は京都府に位置する松尾寺(まつのおじ)があります。がもちろんご本尊は馬頭観音さんです。

今回は、松尾寺にはいきませんが、中山寺に拝観しますよ。まさに念願の中山寺、いよいよです!

湛慶作の仁王像がお出迎え!

20141213-10

それにしても雨はやみません。でもツアーバスなので、なんの苦労もなく馬居寺からあっという間に中山寺に着いちゃいました。いつもの私なら、かなり苦労してたどり着くところです……。文明のリキってすごいです。

こちらの山門に何気なく収まっているお像が、まずすごいですよ!

なんと、湛慶さん作と伝わる金剛力士像なんです。

20141213-11

ふお~~~!素晴らしい~~!!!

かっこい~~~~~!!

この感動を皆さんにお伝えしたいですが、私の撮影では、お像を美しく撮ることができませんでしたので、こちらにて…。

20150127-4

こちらはお寺さんにいただいた由来書きの表紙です。

いやあ、ほんとにかっこいいわあ。

湛慶さんは、皆さんもご存じ、運慶さんの長男で、運慶さんのあとを継いだひとです。
有名なお像をたくさん造像してますが、中でもとくに有名なのは、三十三間堂(蓮華王院)再興を大仏師(総監督・総指揮者のような立場)として取り仕切り、中尊の千手観世音菩薩坐像を製作しました。

三十三間堂の再興は晩年の仕事ですが、若いころにも有名な金剛力士吽形像を作ってますね。
父・運慶が惣大仏師として取り仕切った東大寺南大門の再興の時には、父の指揮のもと吽形像を伯父弟子の定覚とともに造像しています。奇しくも、この掲載されている写真も吽形。おそらくこの写真を選んだご住職はそのことも踏まえて選ばれたんじゃないかと思います。

それにしても、素晴らしいお像です。

しかし残念ながら、伝・湛慶作とされてるんですが、詳しい情報がよくわからない。なにをもとに出ている情報なのか…(どなたか、ご存じでしたらお教えください!)

しかし、これだけのお像を造像できる力量は、ただ事ではない。慶派の中でも特別な人でしかありえないと思います。

これは、想像以上ですよ!

今回、最も期待している秘仏、ご本尊の馬頭観音坐像は、ものすごいんじゃないか、…私の期待はマックスまで高まります!

(続く)

【若狭旅】③大らかでやさしい馬頭観音さん@馬居寺。写真だけではやっぱり仏像はわからない!


仏像好き必携の書『コロナブックス98 日本の秘仏』(平凡社)

さて、そして念願の馬居寺さん、中山寺さんのご本尊で秘仏の馬頭観音さんにようやくお会いできるわけなんですが…。

ここで、なぜ私がそれほどまでにこちらの馬頭観音さんにお会いしたい、と念願していたかについてなんですけども。その存在を知ったのはこの『日本の秘仏』(平凡社)という本と出合ったからです。

奥付見ますと2002年となってますから、もう13年も前なんですねええ。

20150117-1

本書が出た時の喜びときたら!日本の秘仏すべてが網羅されているわけではありませんが、これぞというものは美しい写真とともに掲載されています。そしてさすが平凡社さん、印刷がまた美しい!情報を得る、というだけではなく写真集としても大変美しい本です。

私はにやにやしながら、「日本の」ってつけなくてもええんちゃうかな、などとぶつぶつ言いながら、喜び勇んで購入。

そして、秘仏のご開帳タイミングをチェックしておりましたところ、特に心惹かれたのがこの二体の馬頭観音さんだったのです。

そのお姿の美しいことときたら!
私の目は釘付けです。

そしてさらに夢中になってしまったのは、白洲正子さんの「賛」が添えられてたからかもしれません。
本書はところどころに高名な作家さんの文章がまるで「賛」のごとく入っているのですが、この馬頭観音さんあたりには、憧れの白洲正子さんの文章(おそらく『私の古寺巡礼』からの引用)が入っているのですね。

うわあ、私も拝観してみたいなあ。

そう思いましたけども、中山寺さんは33年と17年に一回、馬居寺さんは25年と午年に一回と書かれています。おいそれと拝観できるお像ではないです。「死ぬ前に一度見れたらいいな」、私はそう思い、チェックの付箋をたてたのでした。

まずは馬居寺さんの馬頭観音さんから!

さて、前置き長いですが、それほどの思い入れのある今回の旅。
最初の目的地、馬居寺さんに到着しました(ツアーとしましては、長楽寺さん、おおい町郷土資料館を経て三ヶ所目ですが、端折らせていただきます。長楽寺さんの阿弥陀如来坐像もそれはもう素晴らしかったのですが!)。

さて、大雨の中バスでの移動ですので、周囲の様子ははっきり体感できていないのですが、とにかく山を登っていきます。

実際にはご本堂にまずお参り、が正しいですが、大雨ということで、ご本堂の上の山道までバスで送ってくださいました。とはいえ、そこからも少々歩きます。
20141213-12こちらがそのお堂。

位置関係からしますと、神社なんかで言うところの奥の院、のような感じでしょうか。ご本尊がいらっしゃるのにふさわしい場所です。

そしてさらにこのお堂の奥の保管堂にいらっしゃいます。
20150117-3重要文化財に指定されていますので、鉄筋コンクリートのお堂にお納めしないといけないんですね。

さて、この馬居寺さんですが、今でこそ普通の大きさのお寺さんですが、大変由緒正しい古いお寺さんです。お寺さんにいただいたパンフレットによりますと、開基は聖徳太子、飛鳥時代のことだそうで…、

「聖徳太子が秦川勝を伴い、甲斐の黒駒にまたがり諸国遍歴の折、若狭の和田浜を通られ休憩中に愛馬が見えなくなり捜しておられると、南の山上よりいななきが聞こえ、光明が輝いたので此処ぞ観音の霊地であるして、太子は堂塔を建立され、栴檀の香木をもって一刻三礼して馬頭観世音菩薩坐像を刻み安置されました」(パンフレットより引用)

とあります。

史実と寺伝というのは必ずしも一致しません。

こちらも、ご本尊の観音さんは平安末期の作だそうですから、聖徳太子が作ったとするには時代的に400年以上の大きな隔たりがあります。その点だけ取っても、すでに史実とは異なってるわけですね。

でも、こうした寺伝、または言い伝えというのはやはり大きな意味が込められていると思います。

こちらのお寺さん及びお像を語るとき、「聖徳太子」「秦川勝」「甲斐の黒駒」というキーワードを使っている、つまりこのワードはとても重要な要素なわけです。そこのところの意味を読み取るべきですよね。

まるで神像のようなしっかりとした存在感とかわいらしさ
さて、早速お堂の中へ。小さなお堂は、ツアー全員入りきりません。
ちょっとずつ譲り合って、しかし私は図々しくもお像の真ん前に陣取りました。

おおお…。

写真ではもう数えきれないほど拝見しているお姿です。
しかし、なんと言ったらいいのか……。

写真とはちょっと印象が違います。

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こちらの写真(パンフレットを一部拝借して掲載させていただきます)をご覧ください。

馬頭観音さんならではの憤怒相、髪は逆立ち(怒髪)、少々いかめしい印象がありますよね。

でも実際のお像は、確かにいかめしくもあるのですが、それ以上に、大らかで優しいのです。

いわゆる地方仏、とされるものだと思います。京都で正当な教育を受けた仏師が丹念に造ったというよりは、地元の仏師がていねいに思いを込めて造った…、という感じがします。
このお像を造仏した仏師はかなり上手な方だと思います。しかし、なんとなくおもちゃのようなおかしみ・軽みがある…、あるというかそういう表現を選んでいる、という気がします。

仏さんというよりは、もともとこの土地におられた神さまの像を見ているような……。

何となく「ええよええよ、それでええ」、そんな風に温かい肯定のことばをいただいてるような気持ちになってきました。

それにしまして、ちょっとこの感想は予想外。自分としては、正直もっとおどろおどろした重たいものを感じるのではないか?と想像していたのです。むしろその逆でしたね。

これだから、写真だけではわからないんですよね。実際に拝観してみないと!

こうなってくると、中山寺さんのお像も楽しみです。どんなふうに感じるんでしょうか。

(続く)

【若狭旅】②高浜町周辺、「馬頭観音」集中地帯へ


「おおい・高浜の秘仏めぐり」ツアーに参加できました~!
さて今回の旅は、順序で言いますと…

一日目、二日目⇒小浜市内のお寺さん
三日目⇒今回のメイン目的地、高浜町の「馬居寺」と「中山寺」

といった流れで計画しました。
小浜市内のお寺さんは、もう何度もお邪魔していますので、なんといっても今回のお目当ては三日目の二か寺。
しかし、この二か寺ともに駅からも離れていて、ちょっと自力で行くのはきついところにあります。

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こちらの地図は、観光協会でいただいたパンフレットの地図から一部拝借!

調べてみましたら、最寄り駅からレンタサイクルで15分くらいで行けそうなんですが、お天気崩れたらアウト。いろいろ考えて、今回は観光協会が主催するツアーに参加させていただくことにしました。このツアーに参加しますと、とてもレンタサイクルではとてもいけなさそうなお寺さん(長楽寺)にも行けちゃうし、お食事もついてる!一人旅にはもってこいです。

しかし、この「おおい・高浜の秘仏」ツアー、募集人数も少ないためか、私が気付いた時にはもう定員埋まってました。でも、ダメもとで、キャンセル待ちリストに名前を入れていただいたところ…。なんと! 出発の二日前にキャンセルが出たと連絡が入り、無事参加させていただけることになりました。

20141219-1

(これ↑、このツアーです!!)

いや~、本当についてました!

これで、馬居寺さん、中山寺さんはもちろん、長楽寺さんにも行けることになりました。結果的に、これはもう大正解!!

というのも当日は大雨。もし一人だったら、タクシーをお願いするにしても、タクシーがつかまらないとか、雨宿りする場所がないとかで、泣きたい気持ちになっていたと思います。

馬頭観音像が集中している「丹後富士」こと「青葉山」周辺
さて、今回、「馬頭観音」さんということばを何度も使っておりますが、馬頭観音さんがよくある仏像かというと、違う、と言っていいと思います。

江戸時代以降になりますと、民間にも広く広がり、馬の守り神、蚕の守り神などなど、様々な形で信仰され、親しみ深い観音さんになりますが、江戸以前からご本尊として馬頭観音さんを祀っているところはそう多くないのです。

それなのに、今回たずねるお寺さん二か寺は、ご本尊が馬頭観音さんです。これは相当に珍しい。

そしてこの二か寺の共通点としては、「丹後富士」と呼ばれるお山、青葉山(あおばさん)近くにある、ということ。

また、今回は福井県ではないため特別開帳などしていなかったのでいきませんでしたが、青葉山南西麓(京都府サイド)に、松尾寺(まつのおじ)さんという、大きなお寺さんがありまして、こちらもご本尊は馬頭観音さんだ、と。

この三か寺、すべてご本尊が馬頭観音さん、…ってことは、めちゃくちゃ珍しい、ってことなんですね。おそらく、全国一の「馬頭観音さん集中地帯」といってもいいんじゃないでしょうか。

20141213-12さて、そんなこんなで、馬居寺さんにやってきました。ツアーとしては、長楽寺さん、おおい町郷土史料館を廻ってから、三番目の場所です。

もし、個人で行くなら、小浜線若狭和田駅をおりて、から約1.5キロ、徒歩で20分ほどみたい。いいお天気なら歩いていけますが、大雨の中ではちょっと無理、かな。

さて、いよいよご対面です!

写真では何度も拝見してますが、実物はどうなんでしょう!?

(続く)