日韓仏教交流の歴史を知る②「和諍(わじょう)」と「一心」の思想/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


6世紀にはじまる仏教交流史
第一回の講座の講師は、岡本一平先生です。仏教学の研究者であり、今回の展覧会開催の立役者でらっしゃるとのこと。初めて講義を拝聴しましたが、サービス精神たっぷりな語り口で、とても分かりやすい!

「日本の仏教学は、多宗派だったりするために、研究しにくい面があり(仏教徒でない研究者は特に)、歴史学者がけん引してきたという側面がある。そのために世界の仏教学からすると…」

こんなお話も、もっとくだけた感じで、はっきりきっぱりお話ししてくださったりして、なるほどなるほど、といった感じ。とにかく歯に衣着せぬお話はとても面白かったです。

さて、ご存じのように、韓(朝鮮)半島と、日本の繋がりと関わりは、とても深いものです。仏教という側面で見れば、6世紀半ばごろ、百済から公伝したとされています。

当時の東アジアは、動乱の時代と言っていいでしょう。韓(朝鮮)半島は三国時代です。北部には、高句麗。東部には新羅、西部には百済が林立していました。
中国は、「唐」。そして、我が日本は、時代で言えば飛鳥時代。聖徳太子のお祖父さん・欽明天皇(前後数代)の頃の話になります。

そんな中、当時の最先端文化である「仏教」は、外交儀礼のための教養としても必要だったでしょうし、実際的な話として、戦争が続く情勢下、救いを求める人々がたくさんいたのではないかと思います。

新羅が生んだ大思想家・元暁(がんぎょう)、その思想「和諍(わじょう)」
そんな時代、当時の新羅で誕生したのが、元暁(617-686)という人です。私は不勉強で存じ上げませんでしたが、韓国では、日本人にとっての聖徳太子のような存在で、彼が具体的にどういう人だったかよくわからないけれども、偉い人だ、ということはみなさんがご存じなんだそうです。

(チラシから抜粋。この髭顔のワイルドなお方が元暁さん)

岡田先生のお話を聞いてますと、元暁さんという人は、仏僧という枠をも大きく超えていってしまうような、とても大きな人だったということがよくわかります。

「元暁の思想は『和諍(わじょう)』にあると言われる」んだそうですが、この『和諍』という思想が、その突端だけ伺っただけでも、とても深くて面白い!

「彼の学問方法を表わす代表的キーワードが『和諍(争いや異なった考えを調和させる方法)』である。和諍に似ている概念に『会通(えづう)』もあり、『会釈』もある。しかし少し分けて考える必要がある。会通あるいは会釈というものは矛盾とも見える異なる意見を統一的に解釈することを意味する。それにたいして和諍は、会通や会釈に至るまでの論法まで含む総称である。具体的に言えば、和諍は部分肯定・部分否定、完全否定・完全肯定といった形式を通して異なる意見を評価し、それらの意見を会通(会釈)するのである。」(図録p20より引用)

元暁さんが、どうしてそういう方法を考案するに至ったかと言うと、ブッダが亡くなって以降論争が絶えないことを解決させたかったのかもしれません。元暁さんは、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことを、彼の全著作によって試みた、というのです。

悟りとは、自分の内に在る「一心」に立ち返ること
そしてその「和諍」の基底にあるものとして「一心」の思想というのがある、と。

岡田先生のレジュメに、

「元暁は、『万境(すべての外界)』を幻と捉え、自分の内に在る『一心』に立ち返ることを『悟り』と考えていた。この『一心』は分割することができない存在である。」

とあります。

例えば元暁さんの著作『両巻無量寿経宗要』に、「穢土と浄土とは、本来「一心」〔の現れ〕である。輪廻と涅槃も最終的には二つではない」とあるんだそうですが、これを岡田先生が訳すと…
「穢土と浄土は本来『一心の現れ』にすぎず、その『一心』を知らないから、二つと考えてしまう」と。

おおお!
何だか、この考え方、今の時代でもとても理解しやすいような気がしませんか??

例えば、「あることを改善する」ことについて話し合っていたとします。
AさんはとBさんは全く逆の意見で対立しています。
しかし、どんなに考え方や方法論が真逆で、喧嘩になろうとも、「あることを改善したい」という大元のこころ(これを一心と考えてもいいのかなと)に変わりはありません。

元暁さんが試みたというその方法論、ぜひ知りたい!
今の時代にこそ、それはまさに必要な智慧なんじゃないでしょうか。
違う考えだろうと、違う宗教だろうと、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことができたら……!

いや、ほんと、すごい魅力的な思想です。元暁さん、すごい!

****

岡田先生が、講座の中で何度も言っておられたのは、東アジアの文化交流の厚さ・そして大切さでした。この、元暁さんの研究も、金沢文庫に大切に保管されていた著作物類がなければ、なしえなかったとのこととのことなのです。

元暁さんはたくさん本を書いた人なのですが、本国では王朝交代などの政変や戦乱でその多くが失われてしまった。元暁さんが大変に偉いお坊さまだったこと、そのすごい思想を書いた本があったことは歴史として伝わっていても、その本自体が無くなってしまうと、より深い研究や継承はむずかしい。
しかし、日本に伝わった偉大な元暁さんの著作物は、大切に伝承されたのです。

今回の特別展の韓国側の責任者・東国大学の金鐘旭さんが、図録の冒頭で次のような言葉を記しておられます。少し長めにですが、引用させていただきます。

「(前略)元暁以外にも新羅・高麗の僧侶の多くの著述が中国と日本に伝来しますが、残念ながら現在韓国に残っている文献は非常に少ないです。伝承の過程のいずれかの時点で、失われてしまいました。幸いなことに現在知られている新羅仏教文献の約90%が日本に残っています。日本が私たちの著述を伝承してくれなかったならば、私たちは新羅仏教思想を執筆することすらできなかったでしょう。また今回のような素晴らしい特別展も開催されなかったでしょう。相手の優れたものを受け入れる思いやりがなかったらあえて筆写までしなかがら伝承し続けたことはなかったと思います。その点から私は新羅・高麗の偉大なる先人に変わり、我々の文献をよく保存して下さった日本のすべての仏教者に深く感謝申し上げます。」

隣国というのは、利害関係も生じやすく、なかなかスムーズにはいかないというのは世界中どこでもいえることです。

しかし、そうした面以上に、お互い共有している良い面もたくさんある。そして思いやりを持ち、尊敬を持ちあうこともできるのです。

元暁さんの思想は、今こそ必要とされる、大きな思想だと感じました。

そしてその思想研究を、日韓で手を携えて続けておられるという事実が、また何とも喜ばしい。元暁さんという大いなる源から、善なる芽が時を越えて伸び続けているような気がします。
(むとう)

日韓仏教交流の歴史を知る①「金沢文庫」を知っていますか?/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


「金沢文庫」とは??
二年に一度くらいでしょうか。埼玉から遠路はるばる、京急「金沢文庫」駅に降り立ちます。私のすんでいるエリアの駅からは、2時間10分ほどかかります。こうなるとちょっとした旅ですよね。

ところで、みなさん。「金沢文庫」ってどう読みます?
「かざわぶんこ」が一般的ですよね。

でも、もともとは「かざわぶんこ」と読むのが正しいようです。というのも、この金沢文庫は、鎌倉時代に金沢(かねざわ)流北条氏(金沢氏)二代目、北条実時が建てたものだからなんですね。
そう。形は変われども「金沢文庫」とは、鎌倉時代からずーっと存在しているものなのです!この事実をご存じない方も結構多いかもしれないと思います。

さて、この、創設者の実時という人ですが。
鎌倉幕府三代目執権・泰時の甥であり、幕府の要職を務めた名流です。同時にたいへん好学の人で、和漢の書物を収集し、のみならず自ら書写点校にもつとめました。そのために、鎌倉の自宅には貴重な書物が収蔵されていたらしいのですが、何度か火事で類焼してしまった。それに懲りた実時さんは、金沢の地に別荘を建て、そこに書物を移したそうなんです。

――そのことを称して、いつの間にか世に「金沢の北条の殿の御文庫」と言われるようになったのであろう。(『国史大辞典』より)

学問好きの殿さまが、立派な書庫をお持ちだ、と評判だったんでしょうね。この界隈の人はこのあたりを「文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)」なんて読んだりしてたんだそうです。
実時さんは、のちに別荘を中心に寺院を建立しました。「称名寺(しょうみょうじ)」という真言律のお寺で、代々高僧が住職を務め、日本中から学僧たちが仏教を学ぶために集まるような、大寺院だったそうです。しかし、鎌倉幕府が滅び、北条氏が滅んでからは衰微の一途をたどり、江戸時代には創建当時の堂塔のほとんどが無くなってしまいました。

上の写真は、現在の様子です。浄土式庭園が美しいステキな境内ですが、1778年に『称名寺絵図』をもとに復元されたものなんだそうです。

金沢文庫の収蔵典籍約二万点あまりが一括して「国宝」に
そして、現在の「金沢文庫」は、この称名寺の西側に新しく建てられた中世史専門の歴史博物館です。称名寺や称名寺が管理していた金沢文庫の貴重な資料が主な収蔵品になるわけなんですが、それがとうとう昨年、その2万点余りにおよぶ称名寺聖教(しょうぎょう。経典のこと)および金沢文庫文書が一括して国宝に指定されました。

(こちらが金沢文庫。称名寺境内から抜けていくとこんな感じです)

いや~、すごいことですよね~!
一括で国宝指定だなんて、素人の私でもこれらの典籍がいかに貴重なものであるかがわかります。
しかし、その貴重さの本当のところを、私はよくわかっていなかった。
この典籍類とは、日本どころか東アジア全体の、ひいてはアジア文化史にとって貴重な、本当に奇蹟のような宝物なんです。今回、講座を聴講したことでちょっとだけ身に迫って理解できたような気がします。

現在こちらで公開中の特別展『アンニョンハセヨ!元暁法師』展では、連動して「韓国仏教入門」(全三回)という講座を開講しておられます。

実は、ここのところの日韓の関係に、ひとり静かに心を痛めていました。歴史的に難しい事柄はたくさんあれど、そうはいってもやはり韓国も北朝鮮も、本来とても近しい存在ですし、兄弟のように共有している文化背景もたくさんある。なのに、ネガティブな側面ばかりが目についてしまい、ポジティブな側面が見えにくくなっているような気がしてならないのです。

最近、そんなことを思い、改めて朝鮮(韓)半島の文化、境界地域の文化、日本の文化について自分なりに、学び直そうと思っていたので、この特別講座にはまさにドンピシャ!です。

(つづく)

講演「運慶のまなざし」山本勉先生を聴く③


興福寺北円堂の「無著・世親」像
さて、より人間に近いお像には、リアリティを加える「玉眼」を用い、超越した存在である如来像などにはあえて「彫眼」を用いる…。そんなルールでこの技術を使い分けているようだ、とされながら、…しかしルールだからと言って、ただ単純にそうしているわけではなさそう、と言い出された山本先生。

たとえば、興福寺(奈良)の北円堂。

20140327

こちらには、あまりにも素晴らしい「無著(むちゃく)・世親(せしん)像」(国宝)が安置されています。

この「無著・世親」、興福寺は法相宗という宗派なのですが、その宗派の祖となったと伝えられている偉大なお坊さまの兄弟なのです。

無著(兄)さんは、釈迦如来の次に仏になることが予言されている弥勒菩薩より教えを受け継いだ人で、唯識学派の大家になりました。世親さんはお兄さんの説得により、上座部仏教から大乗仏教へ転向し、兄とともに教えを広めました。

この北円堂には、そのおおもとになった弥勒如来像がご本尊として祀られ、その両脇には脇侍である菩薩二体、そして少し下がった後ろ側にこの兄弟の祖師像、そして四方には四天王が安置されています。

「玉眼」を用いることで、まるで時空を超えているような表現に
この中で、運慶の手によるものはご本尊の弥勒如来像と無著・世親像の三体なのですが、そのうち無著・世親像のみが「玉眼」なのです。

「玉眼というのは動きをもたらします。この二体だけまるで時が動いているように見える効果があるのです」

先生は、この二体にのみ「玉眼」という技法を用いたのは偶然ではなく、運慶の意図が明確にあったのではないかとおっしゃるのです。

確かに、以前拝観した時のことを思い出しますと…。前側から拝見すると、暗い中から、金色に輝く弥勒如来三尊像の少し後ろに、あまりにもリアルで、しかし超人的な風貌のお像がすっと立っているのが見えました。

その時に、光を吸って目が光るようにみえたことを思い出しました。

濃い陰翳と光。

北円堂はそれ自体が大変美しい八角形のお堂です。このお堂自体、建造が721年という興福寺の中でも最古層に属する建物で、国宝に指定されています。
私が観た日には、ものすごく美しい秋の日で(秘仏なのでご開帳の日は限られています)、開け放たれた戸の向こうに青い空が見えました。そっとお堂の中に足を進めると、その瞬間、深い陰翳の世界に入り込みます。そしてその陰翳の中に浮かび上がる金色の三尊像と、無著・世親像の深い悲しみと赦しをたたえたような優しい目がスーッと私のほうに……。

なるほど、金色の仏さまたちはあまりに完璧すぎてこの世のものとは思えませんが、その間に無著さんと世親さんがいて、その隔絶した距離を少しだけ埋めてくれてるような気がします。

「時空を超える表現、ですね」

なるほどなるほど!
確かに、無著・世親像はまるで生きている優しいお坊さまのように、その超絶世界と私たちをつなぐそんな役割をしてくれてるんじゃないか、そんな風にさえ思えます。

「運慶は、群像全体を見据え、相互関係を考えて、一つの像に最もふさわしい姿や表現を与えているのです」

…ふかい。深いですね~!

このお堂の中には法相宗の根本というべき世界観が表現されているんじゃないかと思いますが、そういった世界観を表現するうえで最善の手法を用いて、運慶は造像したんじゃないかということでしょうか。

それにしても、先生のお話を伺ってますと、視界が広がっていきます。

このように一つの観点をおしえていただくと、それを突破口にして、また新しい気付きをいただきますね。「運慶のまなざし」という講演タイトルがまたなるほど、と思われてきます。玉眼という技法をどう使いこなすか…という視点を通して、繊細で深い運慶の「まなざし」を感じることができるような気がしました。

運慶のお像を改めて拝観しに行きたい気持ちがむくむくと。知るって本当に楽しいです!

*************
この講演二時間を三回にわたってレポートさせていただきましたが、私の無知はいかんともしがたく、ごくごく一部をご紹介させていただきました。

山本先生、そして無料でこのような素晴らしい会を開催してくださった小学館さん、本当にありがとうございました!

(終わり)

講演「運慶のまなざし」山本勉先生を聴く②



平安末期最先端の技術、「玉眼(ぎょくがん)」

先生のお話で、まさに目からうろこなお話はそれこそ山のようにあったのですが、その中で「玉眼」についてのお話がまたすごかったです。

「玉眼」とは何か、と申しますと、仏像の目のところに用いられる技法のひとつですね。

人間の眼球と同じように見えるよう、水晶などを埋め込んで作った目。キラキラ輝いたりして、ほんとリアルなんです。

仏像ファンは、もし、その仏像に玉眼が入っていたらそれは多分平安最末期以降の仏像だな、と思うと思います。つまり、12世紀に出現した、新表現というか最先端技法なんです。
銘がある仏像で、玉眼が用いられている最古のものは、長岳寺の阿弥陀さんだそうで1151年の名だそうなので、だいたいこれくらいから以降に使われるようになっていく技法なわけですね。
20140216-1(『興福寺仏頭展図録』より。表紙転載)

前後してしまいますが、あまりにも有名な旧山田寺仏頭。こちらは、鋳造されたお像なので、「彫」眼というのとは違うかな、でも玉眼でない表現の参考として見ていただければと思います。 玉眼という技法が現れる前までの仏像は、木彫にしてもこのような表現だったわけですね。
#またまた「興福寺仏頭展」図録の表紙の転載、ということでお許しください。

運慶は表現として「彫眼」と「玉眼」を使い分けていた!
先生のお話は、この玉眼、という視点から運慶の表現に迫る、というものでした。

山本先生のお話ですと、どうも運慶は、玉眼と彫眼(彫っただけの目)という技法を、ものによって使い分けてるのではないか、とおっしゃるのです。

おおお!

な、なるほど!!!

いや、実際、使われてるものとそうでないものがあるのはなぜ?と思ってはいたんです。でも、少ない制作費で本を作ってきた人間のサガでしょうか「ひょっとして予算がなかったのかな…」なんて、せこいこと考えてたんです。

……そんなことはないっすよねw。

施主さん、大物ばかりですもんね^^;;。

先生のお話では、運慶は玉眼という技法を十分に使いこなし、表現の選択として用いていたのではないかというのです。

玉眼というのは、非常に生々しく、写実的な表現を可能にします。

ですから、人ではなくなった超越した存在である「如来」、またそれに届こうかとする存在「菩薩」には、あえて玉眼は使わず、怒りの表現でもって人々を導く「明王」、神様が仏法に帰依した姿である「天部」 、またお坊さんの姿である「羅漢」「祖師」像などには玉眼を用いる…と。

なるほど!
そういうことなんですかあ。納得!

しかし、見ていくとどうもこの単純なルールだけでもない、ようなんです、と言い出す山本先生。

え!
じゃあどんなルールが!?

(続く)

講演「運慶のまなざし」山本勉先生を聴く①


 

小学館さん90周年記念事業『日本の美術』シリーズ記念講演
先週末、小学館さん主催の講演会、「運慶のまなざし」by山本勉先生を聴きに行ってきました。20140130-1

もう説明するまでもないかもしれませんが、山本勉先生と言えば、日本仏教彫刻史の第一人者。おそらく今最も仏像についての著作をものされてますし、昨年は、平凡社さんから『仏像~日本仏像史講義~』も出されてますね。一般向け、仏像研究ともに影響力満点な大きなタイトルを立て続けに上梓されています。

今回の講演会は、小学館創業90周年記念企画として刊行されている『日本美術全集』の『第七巻 運慶・快慶と中世寺院』刊行記念として開催されたものです。
20140130-5

太っ腹なことに、記念公園ということで参加費は無料!場所は丸の内丸ビルの豪華なホールですよ。さらにメモパッドとボールペンもお土産にいただいちゃって、なんだかびっくり。

すごいですねえ。小学館さん!!

さて、この美術全集、これまでに7回配本がありまして、それらの一部がホールに展示されてました。チラ見しましたけど、まあ豪華な作り!!

小学館さんと言えば『原色日本の美術』シリーズという、大変有名な美術全集を出されてますが、なんとそれから46年が経つんだそうですよ。

今も、『原色日本の美術』は図書館には必ずありますし、私もたまに参照させていただく素晴らしい図鑑です。そう言う意味では、こういった図鑑的美術全集は、小学館さんのお家芸ともいえるものでしょう。それを90周年記念事業にされた、というのは、なるほど、と思います。
20140130-4このシリーズの特徴と言ったら、このパンフレットの絵の並びを見ていただければ一目瞭然でしょう。
黒田清輝さんの〔湖畔〕の横に、つげ義春さん〔ねじ式〕の冒頭原画ですよ!!そしてその横には村上隆さんの〔五百羅漢図〕が来て、写楽…と続きます。
こういう視界で日本美術をとらえていく、というわけです。革新的で面白いですよね!

運慶作の仏像って何体あるの??

さて、ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、そんな革新的意気込みで制作されているシリーズの7巻目。それをご専門の「運慶」を中心に編集された山本先生のお話です。面白いに違ない、と思ってましたが、案の定めちゃくちゃ面白かったですよ!

「運慶作、という仏像は、意外に少ない…」

仏像ファンの間ではよくそんな風に言われますが、先生のお話によりますと、もはや「少ない」とは言えなくなってきました。先生のお話では近年の研究成果により、次のような「認定レベル」が考えられているとのこと。

1.名前の記されている作品

2.名前は記されていないが同時代の史料に運慶作品として記述され、明らかに該当する作品

3.後世の史料に運慶作であると記されていて作風も矛盾しない作品(→伝運慶、と表記)

4.作風・構造技法や、伝来状況に予感する現代の美術史研究により運慶作と考えられるもの

1.2は、疑いようがないもの、と言っていいでしょう。確定された作品として、7件(作品数としては18)とされてますが、今回、先生はここに浄瑠璃寺旧蔵十二神将像を加えたい、とおっしゃられてました。つまり8件(像数34)。
#この十二神将像は、浄瑠璃寺にはなく、静嘉堂文庫とトーハクで分蔵されてるそうです。

こちらの十二神将は、明治時代の調査で、胎内に運慶の銘文があった、という新聞記事が発見されたそうで、同時代の史料にも運慶は作ったとあるため、ほぼ間違いないだろうとのことでした。

その確定されているものに3.4のものを加えますと、現在先生としては14件、像数47と考えられているとのことでした。

けっこう多いですよね??
けっこうっていうかかなり多いですよね!?

12.3世紀に生きた人の作品がここまで確定されてるって、そもそもすごいですよ。世界的に見てもまれなんじゃないでしょうか。何度も言いますが12.3世紀ですよ?!

世界美術史からの運慶 という視点
さて、この認定レベルで4にあたる例として先生が挙げられていたのが、有名な「東大寺俊乗上人(重源上人)像」(国宝)でした。こちらです。
20140130-2こういうお像の絵を乗せるのは大変難しいのですが、こちらは先日開催されて展覧会の図録表1、ということで許していただきましょう。

このお像は、日本というか世界を見ても屈指の傑作と言っていいであろう肖像彫刻です。長らく運慶の兄弟弟子である快慶作と言われてきましたが、先生はこれを運慶作である、と言い切っておられました。

いや、でもなんかわかります。

以前から、快慶作と伺うたびに、なんか違和感があったんですよね。快慶さんも素晴らしい仏師ですけど、方向性が違いますもん。私は素人ですから的確に表現できませんが、シロウトゆえに、直観力はかなり強いと思います(野生の勘みたいなやつです)。

先生がこちらを運慶作である、と考えた理由は、研究者としてさまざま述べられてましたが、「直観的な」こととして、ピカソの彫刻「雌山羊」と比較されていたのが印象的でした。
この雌山羊の彫刻と共通するような、そぎ落とされた線、フォルム、そういったものをピカソ以外には作れないように、この重源上人像も運慶以外には作れないんじゃないか、とそのようなことをおっしゃられていました。

私は、そういう直観はとても大切な感覚じゃないかと、日ごろから思っているので、大きくうなずいてしまいました。
さすが山本先生だなあ、とため息をつくワタクシなのでした。

(続く)

 

【仏勉】仏画・曼荼羅の世界を楽しみたい



仏像は好きだけど仏画はちょっと苦手、と思ってました

仏像は大好きでよく観仏に出かけておりますが、平面的な方向は大変弱いのですね。

よく考えたら、これって不思議なことですね。普段でしたら絵も大好きですからよく観に行きますし、自分でも下手な絵をよく書いています。…それなのに、仏教に限っては、絵画が苦手、とは。これいかに。

実は、これには理由があるんです。

まず理由の第一は、「すごく難しい感じがするので苦手」。特に「曼荼羅」となると、複雑すぎます。ざっくり金剛界・胎蔵界の二つの世界を表わす曼荼羅がある、ということぐらいしか知りません。

そして第二の理由は、これまでいいものに出会ってこなかった。ということだったみたいなのです。すごくシンプルな理由。

このことに気が付いたのは、昨年開催された『ボストン美術館 日本美術の至宝』展でのこと。さすが、フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心が買い集めただけあって、ま~筋のいいものばかり!
私のような素人にもそのクオリティの高さには、驚愕させられました。特に、仏画のクオリティは思わず声をあげてしまうほど。

「あああ、ここまでふりきってたら私にもわかります~~!」

と心の中で叫びました。

つまり、たいしていい眼は持ってないですけども、振り切って素晴らしいものというのはわかります。2位、3位、4位の差はわからないけど、1位はわかる、みたいな。そんなかんじ。

難しくてもわからなくても、「自分が好きなもの」ができたらこっちのもの
特に『法華堂根本曼荼羅図』(奈良時代)なんてもう!!
これは、東大寺の法華堂(三月堂)に伝わったものだそうで、日本にあったら間違いなく国宝ですよ。お釈迦さんが法華経を説くシーンを描いたもので、こういうものも「曼荼羅」とよびんですね。

法華堂根本曼荼羅図@ボストン美術館像

(『ボストン美術館 日本美術の至宝』展図録P54より引用)

夢見るように美しいお釈迦さんと脇侍の菩薩さんとそのほか諸尊の皆さん。素晴らしいです。

私はこの仏画をはじめ、ボストン美術館所蔵のあまりに素晴らしい仏画群を見てはっきり認識しました。「仏画ってわからない」じゃなくて単に「素晴らしい仏画に出会えてなかったけ」だってこと。

私がふだんから金科玉条?のごとくおもっている「わからなくても何でも、圧倒的にいいもんはわかる!』法則は、やはり有効なのですよ。

こういう体験があると、ちょっとしたフックが自分の中でできてくるので、仏画を見ることが自分にとって意味のあることになっていきます。

このフックというのは、この場合、
「自分にとってすごく好きだと思った『法華堂根本曼荼羅図』」が、自分の好みの核になった」ということを意味しています。これができますと、その定点をもっていろいろものを見られるようになるので、すごく世界が広がるのです。

さて、そんなわけで、根津美術館で開催中の「曼荼羅展」、そんな自分を試す意味も込みでとても楽しみにしておりました。

私のフックは有効なのか??
そして、私にとって仏画はいまだ「難しいもの」の域を出ないのか?

わからないまでも、楽しみたい、これが私の小さな野望だったのです。

(続く)

【仏勉】④世界と私。そしてバランス・調和。


自分がどう成り立ってるか、まず理解する
前回、かなりの飛躍はあるにしろ「世界は私、私は世界である」というところまで、私なりに理解しました。引き続き『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましょう。

以下の三つの理(ことわり)で、私たちは成り立っている、ということみたいです。

■「苦」……自分の思い通りにならないこと
■「無常」……すべてのことは因縁が絡み合って作られたもので、常に変遷するものである。
■「無我」……「無常」の理から考えて、私たちを構成している物質的な要素、機能のいずれも「自己」と解することはできない。(前回「世界は私、私は世界」ってこと?と理解した部分)

さらに、抄訳してみますと…

『迷いの根本は、‟盲目的な欲望”である。
「苦」からの離脱を求める人は、「苦」「無常」「無我」の理をよく理解して、認識を持ち、迷いの根本である「執着・愛欲」を絶たなくてはならない。』

なるほど~~。確かに、迷ってるときって、覚悟が決まってないというか、心が定まらない状態の時ですよね。

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

迷いは「盲目的な欲望」から生まれる
自分を顧みても、「だまされるんじゃないか」「バカにされるんじゃないか」、「損するんじゃないか」…、そんな考えが背後にあるとき、迷ってる状態に陥っている気がします。「怯えてる」とも言えますね。

「よくわからないから不安」。だから怯えてる。怖いので、自分を守る方法として、他者に対して「攻撃」が出てくる。
「よくわからないけど、自分が損したらやだ、得したい」。

こういうが「盲目的な欲望」、なのかな。

仏教では、こういう「盲目的欲望」を断ち切るためには、修行に努め、戒律を守り、禅譲を修める必要があると説きます。これが、「解脱」の境地であり、「涅槃」とも呼ばれるんだそうです。

でもって、これを実践するためには、快楽を求めすぎるのではなく、また苦行をしすぎることのないライン【中道】がいいとし、他者に対しては、人間だけではなく一切の生きとし生けるものに対して慈悲を及ぼすことを理想としました。

でも、こういうことって、そうそうできませんよね。修行とか。普通の人には難しいし。お坊さんになるってめちゃくちゃハードル高いですよね。

私たちにもできること
シッダッタさんは、別に出家修行をしなくても、在家でも実践できます、と言ってます。

個人的な戒律には5つあって、

1.生き物を殺すな
2.盗みをするな
3.邪淫を行うな
4.虚言を言うな
5.酒を飲むな

なんだそうです。
1.は難しいなあ。食べ物を食べる限り、生き物を殺し続けてますものね。
例えば、魚や肉を食べるのをやめたとしても、野菜はいいのかな?
以前から思ってたんですけど、野菜だって生き物ですよね。果実や穀物はいい気がするなあ。これらは「生ったもの」で、その命を一部わけでもらう、というなら矛盾しない。あ、植物も、根から全部食べちゃうんじゃなくて葉っぱを一部もらうなら矛盾しないか。

盗み、はしないようにすれば盗まないで済みそう。
邪淫、虚言、これはまあ大丈夫かな。
酒、もともと飲めないから大丈夫。

あ、でも虚言に関しては、結構「オトナな配慮」の中、うそをついたりしてることはあるなあ。
よくやってるのが、同居している両親に、本当は友人とごはん食べるために外食したんだけど、ブーブーうるさいので、打ち合わせってことにするとか。
これもウソ、っていえばウソですね。こういうのはいいんだろうか…^^;。

ま、それはともかく、この「五戒」って、まあまあ守れそうですね。

こうしてみていくと、シッダッタさんは、すごくまっとうなことをお勧めしてますよね。
つまり、大切なのは『調和』なのかなあ、と感じました。

自分だけいいってのもバランス悪いし、相手のためだけに何かするっていうのもバランス悪い。苦行をして自分を痛めつけるのもやりすぎだし、愉しいと思うことだけをするというのもなんかやりすぎ。

自分のことも、他者にやさしくするようにやさしくする。
他者には自分のことを大切にするように大切にする。

そんなことが、一般人な私たちにとってもとても大切なんじゃないかな~、なんて。

(続く)

【仏勉】③シッダッタさんの言いたかったこと(?)


仏教はとっても複雑
さて、そんなシッダッタさんの教えとは一体どんなものだったんでしょう?
実は、仏教というのはとっても複雑。長い年月の中で、様々な経典が生まれ、考え方が生まれ、いろんな土地の神々が影響を与えたりして、ありとあらゆる変容を遂げていきます。

なので、お釈迦さんが言ってることだけが、仏教において大切だというわけでもないのです。お釈迦さん以外の仏さんやお坊さんがそれぞれに大切なことを説いたりしてて…。
まあ、でもキリスト教やいろいろな宗教でも同じことかもしれませんね。長い歴史を超えますと、大切なことや聖人が出てきますし、いろんな説が現れてくるのも当然のことかもしれません。
それだけ、「生きることとは一体なんなんだろう」と真剣に考えてきた人たちがいた、ということですよね。

菩提樹下の仏陀@ワット・ポー(バンコク)

菩提樹下の仏陀@ワット・ポー(バンコク)

人生は思い通りになりませぬ
そんなわけで、ものすごーく複雑なので、私ごときシロウトがどうこう言えるものではありません。正直言って、あんまり難しいので、仏教美術が好きだ!と長年言いながら、まったく詳しくないし、勉強もしてきませんでした(すみません)。
でも、このブログでは、(私が^^;)お勉強する、というのが裏テーマでもあるので、無理は承知でまとめてみたいと思います。

手元にある『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましたところ…
ムムムむ…。

む、難しいので、まずその一。(分けて覚えていくつもり…^^;)

【人生は「苦」に満ちている。「苦」とは、「自分の思い通りにならないこと」をいう。なぜ思い通りにならないかというと、世界のいろんなことはあらゆることが関係しあって作られたものなので、常に変化しているから、自分の思い通りにならない。なので、どんなものも「自分のものである」とか「自分」ということを考えたらあきまへん。】

なるほどなるほど。
これはなんだかちょっとわかります。

確かに自分の思い通りになることって、そうそうはないですよね~~!
もちろん、こまごまとは、ありますよ。たとえば「今日作った豚のしょうが焼きは、狙い通りの味を出せた!」とか。行きたい大学に行けた、とか就職できた、とかそういうのは、ね。

でも、大きな意味で、おそらく決定的に、思い通りにならないことがあります。
それは自分が「死ぬ」ということ。

もちろん、「自殺」でしたら、自分がいつ死ぬかコントロールすることはできるかもしれません。
でも、どんなに死にたくなくても「死なないでいる」を選ぶことはできません。すべての人に平等に「死」という最後の幕が用意されているわけですよね。

「私」は「世界」でもある?
ちょっと飛躍しちゃいましたが、以下の部分は、すごい救いですよね!

これって、つまり。

「人生というのは思い通りにならない、なぜなら、いろんなことが関係しあってて、そして変化し続けるものだから」。

ふんふん…要するに…

『自分がすべてどうこうできることでもない。でも自分がしたことが無意味なことでも、小さなことでもない。すべてが関係しあって、響きあって、出来上がってるのがこの世界なんだから』。

と、読み下しましたよ!
前向き&楽天家な私としましては!

そういう世界観では、確かに「これは自分のものだ!」と主張しても、「私は私だ!」と言い張っても、あんまり意味ないですね。なぜなら、私は世界で、世界は私なのだし。

ふむふむ。なんか前向きな感じになってきました!
(続く)

 

【仏勉】②シッダッタさんの生きた時代


さてさて、そんなわけで、シッダッタさんは世界三大宗教のうちの一つとされる仏教を開いたわけですが、シッダッタさんの生きた時代はどんな時代だったんでしょうか。

彼が生きていた前6世紀ごろのインドは(このあたりがインドのすごいところですけど^^;)、すでに文明の爛熟期のひと山ふた山を越えたかんじで、爛熟を超えて退廃的な雰囲気が色濃い状況でした。
ガンジス川流域の中部とインド東部には、都市を中心とした小国家が林立し、多くは王制でしたが、そのいくつかの国では共和制を布くほど。
商工業が盛んになって、物質生活も豊かになってきていたので、王族や商業階層が台頭し、バラモンを頂点としたカースト制も、以前よりは絶対的なものではなくなっていました。

仏陀と仏弟子像(プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム)

仏陀と仏弟子像(プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ)

…この流れ、なんだか18世紀ごろのヨーロッパみたいですよね。工業化により、それまでの支配者階級(貴族=地主)を押しのけるように、ブルジョアジーが台頭して、市民革命を起こす…みたいなながれですよ。

ですので、インドでも、自由思想家がたくさん現れました。当時の伝統宗教・バラモン教を批判し、新しい思想や宗教を起こした人は、シッダッタ以外にもたくさん存在していました。

シッダッタさんが登場した時代は、それほど、古い時代の権威を否定するような、改革のムードに満ち溢れた時代だったのです。

そんな空気の中で、シッダッタさんは思い悩み、またその深い悩みから修行に入り、ついには悟りを得たわけですね。まさに時代の要請だったともいえるでしょう。
(続く)

【仏勉】①悩み深き人・シッダッタ


仏陀(ぶっだ)とは???
あけましておめでとうございます!
ありをりある・ブツタビでは、年初にふさわしく、仏教のおおもとである「仏陀」についてお勉強してみたいと思ってます。よろしくおねがいします!

さて。
私はお寺や仏像が好きなので、そのことを周りの人にお伝えすると「仏陀って何なの?」と聞かれることがよくあります。仏教やお寺は身近にありますけど、意外とそのあたりちゃんと教えてもらったりしないですよね。

私も実はたいして詳しくないので、そんな時には「仏陀は悟りを得た人、という意味で、仏教を開いたお釈迦さんのことですよ~」なんて言ってお茶を濁してました。

念のため『岩波仏教事典』や『日本仏像事典』を確認してみても、大まかには間違いありません。「ブッダ」=「お釈迦さん」なのです。

仏陀坐像@シュユダゴン・パヤー(ミャンマー)

仏陀坐像@シュユダゴン・パヤー(ミャンマー)

悩み多き人・シッダッタさんの波乱万丈な人生
さて、みなさん、この「お釈迦さん」ってまたどんな意味かご存知でしょうか。
お釈迦さんは、親しみを込めた呼び方で、正確には「釈迦牟尼(しゃかむに)」、「釈迦如来(しゃかにょらい)」、略して「釈尊(しゃくそん)」とも呼ばれます。

お釈迦さんの本名は「ゴータマ・シッダッタ(シッダールタ)」。紀元前5世紀ぐらいに実在した人物です。ちなみに姓がゴータマ、名がシッダッタ。ネパール系の民・釈迦族(サーキヤ族)の正統な王子として生まれました。長男だったので今で言うと皇太子ですね。次の釈迦族の王になるべく大切に育てられました。

シッダッタさんは、子どものころからめちゃくちゃセンシティブな人でした。普通の人なら看過してしまうようなことでも、立ち止まってしまうような人だったみたい。お父さんもとても心配して、とにかく恵まれた環境を与え、早く愛する妻や子を持ってもらって普通の大人の男性になってほしいと願っていたようです。
シッダッタさんも、そんなお父さんの愛情や期待、周囲の気遣いを感じつつ、人生の問題に思い悩みながらも、奥さんを何人か迎えました。子どもも誕生し、誰もがうらやむような恵まれた人生を送っていたのですが…。にもかかわらず、結局、悩みからは解放されず、王位も家族も投げうち、29歳で出家してしまいました。

出家と言うと言葉はキレイですけど、つまりは「家出」。
当時の年齢を今の年齢の感覚にしたら、30代後半くらいなんじゃないかな。
つまり39歳くらいの働き盛りのお父さんが、いきなり家出しちゃった、みたいな感じですよね。こりゃたいへんだ。
非常に繊細な優しい人だったでしょうから、自分がどんなに無責任なことをしているかとか、わかっていたと思いますけど、おそらくそんな無責任なことをしなくてはならないくらい心が追い詰められていたんでしょう。

悩み深き人が「悟りを得た人」に
シッダッタさん、二人の高名な聖者(修行者)について修行しましたが、結構すんなり体得できちゃって、満足できず。
さらに山に入って究極の苦行したりしましたが、…結局6年ほどたって、この苦行が無意味であることを知りました。そして苦行を中止。河で沐浴して、村娘スジャータが捧げてくれた乳粥を食べ体力を回復し、ブッダガヤーの菩提樹の木の下で沈思瞑想して、ついに悟りを得ました。このときわずかに35歳。
この時から亡くなる80歳までの間、インド各地で教化を行いました。そしてインドの伝統的な身分制度(カースト制)にとらわれない、平等主義の教団を造り上げます。
これが、「仏教」の始まりです。
(続く)