【2017宗像・対馬・壱岐旅】②「対馬」から「東アジア」を感じ、考えてみたい


九州と朝鮮半島の間に在る「対馬」

そして、もう一つ。
このあたりでどうしても気になっていた場所がありました。

九州島と朝鮮半島の間にある、「対馬」です。

距離からすれば、九州島よりも、朝鮮半島のほうが近い「対馬」。
対馬の北部からですと、釜山までほんの50キロしかはなれていないのです。博多港までは140キロほどだそうですから、その距離感の強弱はお分かりいただけるかと思います。

(写真:博多港から高速船で2時間15分。いよいよ姿を現した対馬は、唐突に目の前に立ちはだかるような急峻な山島でした)

 

『魏志倭人伝』でも、対馬国は「倭国のひとつ」だった

しかし、『後漢書倭伝』や有名な『魏志倭人伝(『三国志 魏書東夷伝(とういでん)』)』の時代から、対馬は「倭国」なのです。

ちなみに、『後漢書倭伝』には「倭の西北と境界をなす狗邪(くや)韓国から七千余里離れている」とあり、その後漢書を参考にかかれたと思われる『魏志倭人伝』には以下のように表現されています。

『倭人は帯方〔郡〕の東南大海の中に在り、山島によりて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を歴て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸・狗邪(くや)韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)のみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。』
*『三国志 魏書東夷伝』『日本大百科』掲載文を改定。〔 〕内は筆者による。

これを読むと、当時の対馬人がどう考えていたかは倭国側の史書が残っていないのでわかりませんが、少なくとも「後漢」や「魏」の人は、対馬は「倭国」だと考えていたということがわかります。これが当時の東アジア社会の共通認識だったと考えていいんじゃないかと思います。

しかし、本当に、とても不思議な気がします。
地理的には朝鮮半島のほうが圧倒的に近いのです。単純に考えたら近い方が親和性が高いような気がしてしまいます。でも、そんな単純な話ではないんですよね。これだけ離れているのに、「倭国」という認識があるということは、距離以外の何か理由があったと考えるべきでしょう。

(写真:対馬の博多側の玄関口・厳原港。島が大きすぎて、島という感じがしません!さすが!)


そして、宗像、対馬、壱岐へ旅立つ!

私は、実際にその場所~対馬~に立ってみたいと思いました。
対馬という場所に立ってみて、その地点から朝鮮半島や日本列島や中国大陸を考えてみたい。どう感じるのかを、確認してみたい、そんな気持ちに囚われたのです。

そうして、対馬について調べ始めました。
そうしましたら、この「対馬」という場所が、「日本」の文化や歴史にとって、とても大切な場所であるということがちょっとずつわかってきました。

そしてもう一つ一緒に、というのはなんですが、その対馬と九州島の間にある「壱岐」にもむくむくと興味が湧いてきました。「壱岐」も倭国の国のひとつとして、『魏志倭人伝』などに登場する由緒ある場所です。

宗像、そして対馬、壱岐。距離で言えば、宗像→壱岐→対馬なのですが、今回の旅では、「対馬」をメインに考えて、「宗像→対馬→壱岐」の順で巡ってきました。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】①「海の国・日本」の大切なルーツをたどりたい


「日本文化」のおおもとを感じたい

40年余りの人生を振り返ってみますと、どうも私は、自分自身が生まれ育ったこの「日本」という国のおおもとを感じたい、という欲求に突き動かされ、動き回っているような気がします。

きっかけはひょっとしたら、子どもの頃に、縄文土器を見つけたことかもしれません。私が生まれた家は、縄文時代の住居跡の上にあり、発掘調査は済んでましたが、それでもちょっと掘れば土器の破片が出てくる場所でした。

その縄文土器はおそらく後期ぐらいのものだったんでしょうね。かなりデコラティブな文様のものもあって、そりゃもうかっこよかった。
と同時に、弥生時代と思われる薄い土器や、もっと下った時代と思われる土師器も一緒に出てきました。実際には重層的に積み重なっていたんでしょうけど、子どもが穴を掘るので、結局混ざって出てきているような感じになるわけですね。

私が暮らすこの土地には、信じられないほど長い時間、誰かが暮らしていた――。

そう考えると、何とも言えない豊かな気持ちになるんです。
私もいつか、その大きな流れの流れに帰っていくんだ、そんなふうに思うと、私は孤独ではない、そう感じられてホッとしたものでした。

そんな経験があったからでしょうか。

そうした気持ちを感じられる場所が、私の大好きな場所になりました。そんな場所はつまり、「太古から繋がる何かとアクセスしやすい場所」ということになるのです。

それは不思議と縄文時代の遺跡や、古墳、お寺や神社がある場所と重なります。
どんな時代でも、「ここは…?!」と、人間が感じる場所はそうそう変わらないということでしょう。なんとなく気持ちがいい、畏れ多い、感謝したい、そんな気がふと起こってしまう場所というのは、いつの時代でも共通なのではないでしょうか。

(写真:飛行機から見た富士山。富士山もまさにそんな場所ですね!)


古代日本を動かしていた海人族、安曇(あずみ)氏と宗像(むなかた)氏

さて、私たちが暮らす「日本」の最大の特徴は、「島国」だということでしょう。
島国ということは、四方を海に囲まれていますから、海を自由に行き来できる技術を持った人たち「海人族」が力を持つようになる、ということは自然な流れです。

そんな海人族の中でも、特に有名なのは、安曇(あずみ)氏、そして宗像(むなかた)氏です。
「安曇」と聞くと、信州の安曇野を思い浮かべる人も多いかと思いますが、それ、正解です。安曇野は山間部にありますが、安曇氏は日本中に散らばって今も地名や神社などにその姿を残しています。

そして「宗像」氏。――「むなかた」。
最近耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。
つい数週間前に、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産に登録されることが決定しましたね。

この「沖ノ島」は、祭祀が行われていたその姿をそのまま今に伝えている大変貴重な場所ですが、そもそも「宗像大社」の「沖津宮」です。

(写真:宗像大社・辺津宮正面。一般的には宗像大社といったらここを想像するかもしれませんが、宗像大社そのうちのひとつ、ということなんですね)
私は、かねてよりこの「安曇氏」と「宗像氏」などの海の民の本拠地であるこの地域に興味津々でした。奇しくも、というか必然なのかもしれませんが、この海人族は両方とも北九州で発生した氏族なのです。
安曇氏の発祥地は「筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町)」とされていて、宗像大社から20キロしか離れていない場所にあります。ほんとに近いですよね。
この至近距離から、これだけの勢力を持つに至った氏族が二つ出ているというのは、偶然ではないのでしょう。それだけ、この海域が重要な場所だったということを想像させます。

安曇氏も、宗像氏も今の日本の礎となるような、重要な存在です。
…ううう。
これは、やっぱり実際にその場に行ってみたい。その場に立ってみたいですね。

(続く)

「誰かに認められなくても、あなたは素晴らしい」。五木先生渾身のメッセージ集・第三弾登場!『あなたの人生を、誰かと比べなくていい』/五木寛之著(PHP研究所)


「誰かに認めてほしい」という欲求
先生のご本をお手伝いさせていただいて、今回でなんと5冊目!!そして、本シリーズはついに第三弾となりました!!

いやあ、もう。本当に嬉しいです。
一年間で三冊。
まさか実現できるとは……。奇蹟のような発刊ペースだと思います。
改めまして五木先生、本当にありがとうございます!!!
発売日は7月21日。少々フライングですが、ご報告させていただきます!!

さて、今回のテーマを決める際に、以前の打ち合わせの際に五木先生がぽつりとおっしゃった言葉が、ずっと心に引っかかっていました。

「誰かに認めてほしいという欲求が、高まりすぎているね」

世の中の流れを絶えず感じ続け、その大きな流れの先端にいらっしゃりながらも、自分はマイノリティだ、とおっしゃる先生。いつでも外側から俯瞰しておられるような、そんな視座をお持ちだからか、とにかく世の中にある流れにものすごく敏感でらっしゃいます。その感度の絶妙さは、神がかり的と言っていいでしょう。
その先生が「認めてほしい」という言葉を使われたことが、気になって気になって……。

苦しみの根源にあるもの
そうしたところに、前作、前前作の読者の皆さんからのお便りが届きました。その中には、まるで先生の言葉が呼び寄せたかのように、「誰かに認められたい」、そんな思いで苦しんでおられる言葉が溢れていたのです。

その苦しみは、「自分の人生を肯定できない」と考えていることが原因のように感じました。そしてそれは、「ほかの人の人生と比べてみると、自分はだめだ」、そうおっしゃっておられるのがほとんどだったのです。

「比べる」

これをして、良いことになることは少ないのではないでしょうか。
「比べて」分析し、情報として前向きに生かせればいいですが、なかなかそうはいかないのではないか。それで、私たちは二重・三重に、苦しみ合っている……

「認められたい」「比べる」

N編集長と私は、これだ!と思いました。これこそ今回のご本のテーマなのではないか、と。そのことを先生にご相談すると、先生はにっこりと頷かれました。それがいいね、と。

そうして、タイトルもストレートに、『あなたの人生を、誰かと比べなくていい』となりました。

この世界は、生きるにあたいする
先生がこれまでに何度も、ブッダが生まれて間もなくにはなった言葉、「天上天下唯我独尊」をキーワードとし、語ってこられたことがあります。

それは、この言葉とは、「私という存在は、ただひとつしかない尊い存在である」という意味ではないか、ということです。つまり、「比べようがない」貴重な存在なのだということです。

「(前略)私たちはたったひとつの存在としてひとりで生まれ、ひとりで死んでいきます。つまりすべての人が、「ひとり生きる」存在だということです。私たちはそのことを、実感として気付く必要があると思います。

「ひとり生きる」ことは、とても険しい道のりです。似たような人がいても、同じではない。誰かの真似をしても、まったく同じにはならないでしょう。だから自分ひとりで悩み苦しみながら、精いっぱい生きるほかないのです。

しかしひとつの希望は、「すべての人が、ひとり生きている」ということです。その点において私たちは共感し、つながることができる。

不安のあまりひとり眠れぬ夜を過ごしていたら、そのことを思い出してみてください。苦しくて涙も出ない。そんな時にも、世界にはあなたと同じように苦しんでいる人がきっといる――そのことを思い出してほしいのです。」(「まえがき」より引用)

少々長くなりましたが、まえがきより引用させていただきました。

「ひとり生きる」とは、「孤独」ということです。
しかし、孤独であることを恐れないで、と先生はおっしゃいます。

なぜなら、この世に生きるすべての人が、「ひとり生きる」存在だから。孤独を抱える存在だからこそ、誰かとともにある時の――寄り添えた時の喜びは大きいのです。

先生はあとがきで、「やはりこの世界は生きるにあたいする」と呟かれています。

何度も鬱状態に陥ったり、自殺を考えたこともあるという先生ですが、今、そのような境地になられたということは、私たち読者にとっても、「希望」なのではないかと思います。

* * * * * * * * * *

また、おかげさまで、第一弾『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』は5刷を数え、3月に刊行されました第二弾『無意味な人生など、ひとつもない』は、3刷を数えました。本当にありがたいことです!
お手に取ってくださった皆様、改めて御礼申し上げます。

そして、最後になりますが、第一弾から一緒に走り続けてくださっているN編集長様。また本シリーズの礎を築いてくださったN元編集長様、本当にありがとうございました!第四弾も、頑張りましょう~!

(むとう)

日韓仏教交流の歴史を知る②「和諍(わじょう)」と「一心」の思想/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


6世紀にはじまる仏教交流史
第一回の講座の講師は、岡本一平先生です。仏教学の研究者であり、今回の展覧会開催の立役者でらっしゃるとのこと。初めて講義を拝聴しましたが、サービス精神たっぷりな語り口で、とても分かりやすい!

「日本の仏教学は、多宗派だったりするために、研究しにくい面があり(仏教徒でない研究者は特に)、歴史学者がけん引してきたという側面がある。そのために世界の仏教学からすると…」

こんなお話も、もっとくだけた感じで、はっきりきっぱりお話ししてくださったりして、なるほどなるほど、といった感じ。とにかく歯に衣着せぬお話はとても面白かったです。

さて、ご存じのように、韓(朝鮮)半島と、日本の繋がりと関わりは、とても深いものです。仏教という側面で見れば、6世紀半ばごろ、百済から公伝したとされています。

当時の東アジアは、動乱の時代と言っていいでしょう。韓(朝鮮)半島は三国時代です。北部には、高句麗。東部には新羅、西部には百済が林立していました。
中国は、「唐」。そして、我が日本は、時代で言えば飛鳥時代。聖徳太子のお祖父さん・欽明天皇(前後数代)の頃の話になります。

そんな中、当時の最先端文化である「仏教」は、外交儀礼のための教養としても必要だったでしょうし、実際的な話として、戦争が続く情勢下、救いを求める人々がたくさんいたのではないかと思います。

新羅が生んだ大思想家・元暁(がんぎょう)、その思想「和諍(わじょう)」
そんな時代、当時の新羅で誕生したのが、元暁(617-686)という人です。私は不勉強で存じ上げませんでしたが、韓国では、日本人にとっての聖徳太子のような存在で、彼が具体的にどういう人だったかよくわからないけれども、偉い人だ、ということはみなさんがご存じなんだそうです。

(チラシから抜粋。この髭顔のワイルドなお方が元暁さん)

岡田先生のお話を聞いてますと、元暁さんという人は、仏僧という枠をも大きく超えていってしまうような、とても大きな人だったということがよくわかります。

「元暁の思想は『和諍(わじょう)』にあると言われる」んだそうですが、この『和諍』という思想が、その突端だけ伺っただけでも、とても深くて面白い!

「彼の学問方法を表わす代表的キーワードが『和諍(争いや異なった考えを調和させる方法)』である。和諍に似ている概念に『会通(えづう)』もあり、『会釈』もある。しかし少し分けて考える必要がある。会通あるいは会釈というものは矛盾とも見える異なる意見を統一的に解釈することを意味する。それにたいして和諍は、会通や会釈に至るまでの論法まで含む総称である。具体的に言えば、和諍は部分肯定・部分否定、完全否定・完全肯定といった形式を通して異なる意見を評価し、それらの意見を会通(会釈)するのである。」(図録p20より引用)

元暁さんが、どうしてそういう方法を考案するに至ったかと言うと、ブッダが亡くなって以降論争が絶えないことを解決させたかったのかもしれません。元暁さんは、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことを、彼の全著作によって試みた、というのです。

悟りとは、自分の内に在る「一心」に立ち返ること
そしてその「和諍」の基底にあるものとして「一心」の思想というのがある、と。

岡田先生のレジュメに、

「元暁は、『万境(すべての外界)』を幻と捉え、自分の内に在る『一心』に立ち返ることを『悟り』と考えていた。この『一心』は分割することができない存在である。」

とあります。

例えば元暁さんの著作『両巻無量寿経宗要』に、「穢土と浄土とは、本来「一心」〔の現れ〕である。輪廻と涅槃も最終的には二つではない」とあるんだそうですが、これを岡田先生が訳すと…
「穢土と浄土は本来『一心の現れ』にすぎず、その『一心』を知らないから、二つと考えてしまう」と。

おおお!
何だか、この考え方、今の時代でもとても理解しやすいような気がしませんか??

例えば、「あることを改善する」ことについて話し合っていたとします。
AさんはとBさんは全く逆の意見で対立しています。
しかし、どんなに考え方や方法論が真逆で、喧嘩になろうとも、「あることを改善したい」という大元のこころ(これを一心と考えてもいいのかなと)に変わりはありません。

元暁さんが試みたというその方法論、ぜひ知りたい!
今の時代にこそ、それはまさに必要な智慧なんじゃないでしょうか。
違う考えだろうと、違う宗教だろうと、「鏡がすべての形状を受け入れることと同じように、すべてが融通する」ことができたら……!

いや、ほんと、すごい魅力的な思想です。元暁さん、すごい!

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岡田先生が、講座の中で何度も言っておられたのは、東アジアの文化交流の厚さ・そして大切さでした。この、元暁さんの研究も、金沢文庫に大切に保管されていた著作物類がなければ、なしえなかったとのことなのです。

元暁さんはたくさん本を書いた人なのですが、本国では王朝交代などの政変や戦乱でその多くが失われてしまった。元暁さんが大変に偉いお坊さまだったこと、そのすごい思想を書いた本があったことは歴史として伝わっていても、その本自体が無くなってしまうと、より深い研究や継承はむずかしい。
しかし、日本に伝わった偉大な元暁さんの著作物は、大切に伝承されたのです。

今回の特別展の韓国側の責任者・東国大学の金鐘旭さんが、図録の冒頭で次のような言葉を記しておられます。少し長めにですが、引用させていただきます。

「(前略)元暁以外にも新羅・高麗の僧侶の多くの著述が中国と日本に伝来しますが、残念ながら現在韓国に残っている文献は非常に少ないです。伝承の過程のいずれかの時点で、失われてしまいました。幸いなことに現在知られている新羅仏教文献の約90%が日本に残っています。日本が私たちの著述を伝承してくれなかったならば、私たちは新羅仏教思想を執筆することすらできなかったでしょう。また今回のような素晴らしい特別展も開催されなかったでしょう。相手の優れたものを受け入れる思いやりがなかったらあえて筆写までしなかがら伝承し続けたことはなかったと思います。その点から私は新羅・高麗の偉大なる先人に変わり、我々の文献をよく保存して下さった日本のすべての仏教者に深く感謝申し上げます。」

隣国というのは、利害関係も生じやすく、なかなかスムーズにはいかないというのは世界中どこでもいえることです。

しかし、そうした面以上に、お互い共有している良い面もたくさんある。そして思いやりを持ち、尊敬を持ちあうこともできるのです。

元暁さんの思想は、今こそ必要とされる、大きな思想だと感じました。

そしてその思想研究を、日韓で手を携えて続けておられるという事実が、また何とも喜ばしい。元暁さんという大いなる源から、善なる芽が時を越えて伸び続けているような気がします。
(むとう)

日韓仏教交流の歴史を知る①「金沢文庫」を知っていますか?/『アンニョンハセヨ!元暁法師』展@金沢文庫


「金沢文庫」とは??
二年に一度くらいでしょうか。埼玉から遠路はるばる、京急「金沢文庫」駅に降り立ちます。私のすんでいるエリアの駅からは、2時間10分ほどかかります。こうなるとちょっとした旅ですよね。

ところで、みなさん。「金沢文庫」ってどう読みます?
「かざわぶんこ」が一般的ですよね。

でも、もともとは「かざわぶんこ」と読むのが正しいようです。というのも、この金沢文庫は、鎌倉時代に金沢(かねざわ)流北条氏(金沢氏)二代目、北条実時が建てたものだからなんですね。
そう。形は変われども「金沢文庫」とは、鎌倉時代からずーっと存在しているものなのです!この事実をご存じない方も結構多いかもしれないと思います。

さて、この、創設者の実時という人ですが。
鎌倉幕府三代目執権・泰時の甥であり、幕府の要職を務めた名流です。同時にたいへん好学の人で、和漢の書物を収集し、のみならず自ら書写点校にもつとめました。そのために、鎌倉の自宅には貴重な書物が収蔵されていたらしいのですが、何度か火事で類焼してしまった。それに懲りた実時さんは、金沢の地に別荘を建て、そこに書物を移したそうなんです。

――そのことを称して、いつの間にか世に「金沢の北条の殿の御文庫」と言われるようになったのであろう。(『国史大辞典』より)

学問好きの殿さまが、立派な書庫をお持ちだ、と評判だったんでしょうね。この界隈の人はこのあたりを「文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)」なんて読んだりしてたんだそうです。
実時さんは、のちに別荘を中心に寺院を建立しました。「称名寺(しょうみょうじ)」という真言律のお寺で、代々高僧が住職を務め、日本中から学僧たちが仏教を学ぶために集まるような、大寺院だったそうです。しかし、鎌倉幕府が滅び、北条氏が滅んでからは衰微の一途をたどり、江戸時代には創建当時の堂塔のほとんどが無くなってしまいました。

上の写真は、現在の様子です。浄土式庭園が美しいステキな境内ですが、1778年に『称名寺絵図』をもとに復元されたものなんだそうです。

金沢文庫の収蔵典籍約二万点あまりが一括して「国宝」に
そして、現在の「金沢文庫」は、この称名寺の西側に新しく建てられた中世史専門の歴史博物館です。称名寺や称名寺が管理していた金沢文庫の貴重な資料が主な収蔵品になるわけなんですが、それがとうとう昨年、その2万点余りにおよぶ称名寺聖教(しょうぎょう。経典のこと)および金沢文庫文書が一括して国宝に指定されました。

(こちらが金沢文庫。称名寺境内から抜けていくとこんな感じです)

いや~、すごいことですよね~!
一括で国宝指定だなんて、素人の私でもこれらの典籍がいかに貴重なものであるかがわかります。
しかし、その貴重さの本当のところを、私はよくわかっていなかった。
この典籍類とは、日本どころか東アジア全体の、ひいてはアジア文化史にとって貴重な、本当に奇蹟のような宝物なんです。今回、講座を聴講したことでちょっとだけ身に迫って理解できたような気がします。

現在こちらで公開中の特別展『アンニョンハセヨ!元暁法師』展では、連動して「韓国仏教入門」(全三回)という講座を開講しておられます。

実は、ここのところの日韓の関係に、ひとり静かに心を痛めていました。歴史的に難しい事柄はたくさんあれど、そうはいってもやはり韓国も北朝鮮も、本来とても近しい存在ですし、兄弟のように共有している文化背景もたくさんある。なのに、ネガティブな側面ばかりが目についてしまい、ポジティブな側面が見えにくくなっているような気がしてならないのです。

最近、そんなことを思い、改めて朝鮮(韓)半島の文化、境界地域の文化、日本の文化について自分なりに、学び直そうと思っていたので、この特別講座にはまさにドンピシャ!です。

(つづく)