『へんな仏像』という本がすごい!

最近チェックしていなかったので、資料を探す意味も含めていろいろ本を探したりして見てたら、さすが学研さん!という本を発見しました。

江戸時代あたりの、割と新しい時代のものが多いのですが、お?というものもちゃんと掲載してますし、私自身初めて知る珍品も多数登場!
千葉県にあるという「覆面観音」という仏像なんて初耳でした。「覆面」ですよ。マジでわけわからんですよね。すごい!

いやあ、これは労作です。大変ですよお。こういう本作るの^^;;。

構成もこっています。

目次↓
第一章 忘れがたき神仏像
第二章 怪仏観音
第三章 あらわれた異形の神々
第四章 聖者たちの異貌
第五章 鬼女・聖女礼賛
第六章 ダイコク変化
第七章 変容する地蔵尊
第八章 異相の阿弥陀
第九章 天王の偉容
第十章 黄昏の性神たち

単純に言ってしまえば、ほとんどが神仏習合の、神であり仏である…といった境界型の仏像がほとんどです。民間信仰で大切にされてきた身近な仏像、といったかんじ。
やりすぎ感も洗練されない感も、民間ならではです。素晴らしい想像力、いや、妄想力!

ちょっと残念なのは、カバーデザイン。
このお像を表1に持ってきちゃうと、天狗の本?なんて思ってしまって、ちゃんとした仏像の本だということが伝わりにくいように思いました。

こんなことを言いたくなってしまうのも、内容が大変な労作だからです。
しかもこれだけ頑張って、お値段571円(税別)!!!しかもオールカラー!!!
ううむ。これはすごい。本当にすごい…

なんだか少々ずれたところで感心してしまってますが、とにかく内容が素晴らしいのです。仏像好きな方にはお勧めです。「こんなお像あったの?」という驚きが必ず味わえますよ!

『名工と若き職人がつなぐ心と技』/柴田敦乙著

先日お仕事をさせていただいているオーダー家具会社で、「魂のある」木工職人さんを求人していました。
社長さんととお話ししていたら、あ、そういえばとっても有望な伝手があるじゃないの?!と思いだしたのが、「京都伝統工芸大学校」。もう8年前になりますが、本書を担当させていただいたことが、伝統工芸の世界に引き込まれてしまうきっかけになったんです。

本書を作った時のことは、今も、ありありと思い出せます。
当時はまだ大学部はなく専門学校だけだったんですが、京都から30分ほど電車で行ったところ、山間部の広々とした土地に、ドドーンと立派な建物が立ってました。

京都伝統工芸専門学校(通称TASK。当時)は、伝統工芸の技術を教えてくれる学校。
特に、工芸界のサンプルメイカー的立場である京都伝統工芸の技術を教えてしまう、というのだから、大変話題になりました。一子相伝みたいな技術を教えちゃうんですもの。かなり反対もされたらしいです。でも、当時、継承者の問題は各地で深刻化していました。
ものづくりのお仕事は、どうしてもハードなものです。効率を上げるわけにもいかない、手間はかかるけど、原材料代は高い、工賃は決して高くない…。楽なお仕事も多々ある今の世の中、生半可な気持ちでは続けられません。なので、各地でその地方の宝でもあるはずの伝統工芸は継ぐ人がいなくて大変な状況になりつつありました。

とはいえ、やりたい人はいるんです。でも、一子相伝といった感じで受け継がれてきた伝統工芸の世界と、なかなかつながることができないんですね。
そこで、経産省が支援する形で立ち上がったのがこの学校だったんです。

とと、なんだか話が長くなっちゃいますね。ちょっといきさつは端折りまして…
##以前、ほぼ日さんでも寄稿させていただいたことがあるので、ぜひこちらのリンク先をごらんください!(「ほぼ日「編集者は知っている」)

本書では、各専攻の先生と、在校生、また卒業生にお話を聞き、一冊の本にまとめるというものでした。
先生、というのは、第一線で活躍されている伝統工芸士の方。これがまたTASKの素晴らしいところで! 超ど級のプロフェッショナルから、懇切丁寧に最高の技術を教えてもらえちゃうんですもの。これ以上の教育はありません。

この時に出会った、先生方は、本当にすべての先生がめちゃくちゃ魅力的でした。
わたしは単なる取材者でしたが、そんなわずかな時間でも、美を追求する感性、厳しさ、思いやり、優しさ、世界観…様々なことを学ばせていただきました。

久しぶりに、本書を手に取り、著者、柴田さんの文章にも酔いしれました。
柴田さんの文章がまた素晴らしいんです!!
緻密な構成、しっかりとした背景把握でものすごい安定感を感じさせながら、人間っていいなあ、そんな感動が行間からビシバシ放射されています。人間礼賛!

ぜひ、お手に取ってみてくださいませ!

 

【仏勉】④世界と私。そしてバランス・調和。

自分がどう成り立ってるか、まず理解する
前回、かなりの飛躍はあるにしろ「世界は私、私は世界である」というところまで、私なりに理解しました。引き続き『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましょう。

以下の三つの理(ことわり)で、私たちは成り立っている、ということみたいです。

■「苦」……自分の思い通りにならないこと
■「無常」……すべてのことは因縁が絡み合って作られたもので、常に変遷するものである。
■「無我」……「無常」の理から考えて、私たちを構成している物質的な要素、機能のいずれも「自己」と解することはできない。(前回「世界は私、私は世界」ってこと?と理解した部分)

さらに、抄訳してみますと…

『迷いの根本は、‟盲目的な欲望”である。
「苦」からの離脱を求める人は、「苦」「無常」「無我」の理をよく理解して、認識を持ち、迷いの根本である「執着・愛欲」を絶たなくてはならない。』

なるほど~~。確かに、迷ってるときって、覚悟が決まってないというか、心が定まらない状態の時ですよね。

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

迷いは「盲目的な欲望」から生まれる
自分を顧みても、「だまされるんじゃないか」「バカにされるんじゃないか」、「損するんじゃないか」…、そんな考えが背後にあるとき、迷ってる状態に陥っている気がします。「怯えてる」とも言えますね。

「よくわからないから不安」。だから怯えてる。怖いので、自分を守る方法として、他者に対して「攻撃」が出てくる。
「よくわからないけど、自分が損したらやだ、得したい」。

こういうが「盲目的な欲望」、なのかな。

仏教では、こういう「盲目的欲望」を断ち切るためには、修行に努め、戒律を守り、禅譲を修める必要があると説きます。これが、「解脱」の境地であり、「涅槃」とも呼ばれるんだそうです。

でもって、これを実践するためには、快楽を求めすぎるのではなく、また苦行をしすぎることのないライン【中道】がいいとし、他者に対しては、人間だけではなく一切の生きとし生けるものに対して慈悲を及ぼすことを理想としました。

でも、こういうことって、そうそうできませんよね。修行とか。普通の人には難しいし。お坊さんになるってめちゃくちゃハードル高いですよね。

私たちにもできること
シッダッタさんは、別に出家修行をしなくても、在家でも実践できます、と言ってます。

個人的な戒律には5つあって、

1.生き物を殺すな
2.盗みをするな
3.邪淫を行うな
4.虚言を言うな
5.酒を飲むな

なんだそうです。
1.は難しいなあ。食べ物を食べる限り、生き物を殺し続けてますものね。
例えば、魚や肉を食べるのをやめたとしても、野菜はいいのかな?
以前から思ってたんですけど、野菜だって生き物ですよね。果実や穀物はいい気がするなあ。これらは「生ったもの」で、その命を一部わけでもらう、というなら矛盾しない。あ、植物も、根から全部食べちゃうんじゃなくて葉っぱを一部もらうなら矛盾しないか。

盗み、はしないようにすれば盗まないで済みそう。
邪淫、虚言、これはまあ大丈夫かな。
酒、もともと飲めないから大丈夫。

あ、でも虚言に関しては、結構「オトナな配慮」の中、うそをついたりしてることはあるなあ。
よくやってるのが、同居している両親に、本当は友人とごはん食べるために外食したんだけど、ブーブーうるさいので、打ち合わせってことにするとか。
これもウソ、っていえばウソですね。こういうのはいいんだろうか…^^;。

ま、それはともかく、この「五戒」って、まあまあ守れそうですね。

こうしてみていくと、シッダッタさんは、すごくまっとうなことをお勧めしてますよね。
つまり、大切なのは『調和』なのかなあ、と感じました。

自分だけいいってのもバランス悪いし、相手のためだけに何かするっていうのもバランス悪い。苦行をして自分を痛めつけるのもやりすぎだし、愉しいと思うことだけをするというのもなんかやりすぎ。

自分のことも、他者にやさしくするようにやさしくする。
他者には自分のことを大切にするように大切にする。

そんなことが、一般人な私たちにとってもとても大切なんじゃないかな~、なんて。

(続く)