聖武天皇にも小さな子どもにもそそがれる優しい視線。生き生きと立ち上がる人間の素晴らしさ!『語りだす奈良』/西山厚著(ウェッジ刊)


かつて担当させていただいた、『感じる・調べる・もっと近づく 仏像の本』(仏像ガール著)で、監修をしていただいた西山厚先生。

私にとっては、恐れ多くも「心の師匠」であり、名著『仏教発見』(講談社新書)以降、単独のご著書を待望する声が巷に溢れておりましたが、ようやく出版されました~!まさに待望の一冊です!!
なんとありがたいことに、先生が送ってくださったのです。本当に嬉しいです!!

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『仏教発見』でも、ぽろぽろ泣いてしまいましたが(正直言うと号泣しました)、今回もまたたくさん泣いてしまいました。予想した通りでした。これは電車の中では読めません。

先生の文章は、非常に明るくわかりやすく、仏教のことをよくわかっていない私のような素人にもよくわかるように、優しく語り掛けてくださいます。そして、その優しい言葉の重なりが、激しく心を揺さぶるのです。

私は以前、少しお酒をいただいた勢いもあり、生意気にも先生にこんな風に申し上げたことがります。

「先生の文章を拝読しておりますと、聖武天皇が、光明皇后が、生きてそこから立ち上がるんです。そんな言葉を紡げるかたなんてほかにいません!」

正確にいうと、「文章」だけではありませんね、「お話」からも、というべきでした。先生は語りの名手としてもそれはもう高名でらっしゃいますから。

先生の言葉によって、歴史上の人物が、まるで今ここにいて、優しく微笑んでいるような気がしてくるんです。そんな思いを抱く「言葉」に出会うことは、私にとって初めてでした。

そして先生の言葉は、弱き者へその視線が向かったときに、さらに優しく優しくなります。幼稚園の子どもたち、小学生の子どもたち、障害のある人たち……。
そして、愛する我が子を一歳になる前に亡くしてしまい、悲しみに狂いそうになる、聖武天皇と光明皇后にも……。

歴史上の偉人にも今を生きる子どもたちにも、時空を超えて、等しく「尊いやさしさの種」のようなものを見つけられ、それをさっと取り出して見せてくださるんです。それこそが仏教にいう「仏性」なのかもしれません。

今回のご本は、毎日新聞の「奈良の風に吹かれて」という連載を一冊にまとめられたものだそうです。タイトルから連想される通り「奈良」に関するお話をベースに、仏教、歴史上の人物に関するものもあれば、先生が旅をされるというお話もあります。一篇はとてもコンパクトなエッセイでお話は全部で118篇。
随所で胸が熱くなったり、涙がにじんだりしてしまいますが、そのたびに「人間っていいなあ」「生きていくっていいなあ」という気持ちになるのではないかと思います。まさに先生のやさしさと愛に溢れた一冊です!ぜひお手に取ってみてください!!

(むとう)

あまりにもすごい白鳳仏ラインナップ。必見です!!『白鳳』展@奈良国立博物館(7/18-9/23)


「白鳳(はくほう)」と聞いて、何のこと?と思われる人もいらっしゃるかもしれません。

奈良博さんHPによりますと、「白鳳は7世紀の半ばから710年に平城京に遷都するまでの間の文化や時代を指す言葉として、美術史学を中心に用いられてきました」とあります。

国史大辞典によりますと、もともと「奈良時代の公年号『白雉』(650-654)の異称」とのことなのですが、650年から平城京に都を移すまでの間、つまり大化の改新後即位した孝徳帝、斉明帝、天智帝、天武帝、持統帝、元明帝、元正帝が遷都するまでの期間の文物全般の様式を示す時などに、好んで用いられる名称なんですね。

特に仏像好きの世界で「白鳳」といえば、「そう、あれ!!」と即座に答えが返ってくる、非常に特徴的で美しい表現の仏像が造られた時代なのです。

白鳳仏といえば、2013年に東京藝術大学美術館で開催された「仏頭展」も、それを意識した展示になっていました。関東が誇る白鳳仏・深大寺さんの「釈迦如来倚像(しゃかにょらいきぞう)」も一緒に展示されてたりしてね。

仏頭展の主役、「興福寺仏頭」も、以前は「旧山田寺仏頭」とも呼ばれていましたが、もともとは山田寺と言う蘇我氏ゆかりのお寺さんにあったお像で、天武帝の頃の造像ですから「白鳳仏」です。「白鳳仏」の代表的なお顔、と言ったらあのお顔、ってくらいのびやかで美しく、また若々しいお顔が特徴的ですね。

さてさて、また前置き長いですね。
そんな白鳳仏を一度に観られてしまうという、奈良博さんならではの展示が7月18日から開催されています!

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出品物一覧を拝見してますと、関東からは深大寺さんはやっぱり行きますね、あ、あと千葉の龍角寺さんも!
有名どころはだいたい拝見したことがあるのですが、鳥取など遠くの県のお像は拝見したことがないものもたくさんあります。こりゃまた垂涎!
有名どころと言っても、何度拝観してもまた会いたくなるお像ばかりです。大好きな薬師寺さんの聖観音さんに、お外で会えちゃうなんてなああ。うふうふ。

それから、ちょっとマニアックかもしれませんが、個人的には川原寺裏山から出土したという塼仏(せんぶつ)が出ていることに気付き、静かにコーフン!
以前写真で拝見してすごく美しくて、ぜひ一度拝見してみたいと思っていたんです。嬉しいなあ。

そんなわけでして、これは奈良へといかなくてはなりません!
8月の奈良は、死にそうなほど暑いので、ちょっと二の足を踏みますが、どうにか時間を作っていきたいと思います!
皆さんもぜひ足を運んでくださいね~!

奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

【関西旅2015】③なぜご本尊が「十一面観音」、「水」が重要、そして若狭(小浜)から送られてくるのか。構成要素で妄想してみると…


なぜ『お水取り』が重要とされるのか

素人の私がいくら頭をひねっても、その真相などわかる訳もありませんが、しかし私なりに妄想してみたいと思います。

まず、

1.この行を始めたのが「実忠」さんである、ということ。

2.二月堂のご本尊が十一面観音であるということ。

3.実忠さんがこの行事を始めようと思ったきっかけのお話し【笠置山の穴(龍穴)に入ると、そこは兜率天。天人たちが十一面観音悔過を行っているのをみて、人間界でもこの行を行いたい、と切望し、……】にあるように、どこかほかで行われていた優れた行事を実忠さんがもたらした、ということ。

4.重要なのが「水」であるということ。そしてその水は若狭から送られる、ということ。

このあたりにあるキーワードを拾って、ちょっと妄想してみましょうか。


実忠さんはインド人? 国際色豊かだった古代日本

まず1.の「実忠」さんという人、なんですが。

私は何度も若狭小浜を訪ねてますので、ごくごく普通にこの実忠さんという人が、インド人であった、と思っておりました。小浜市のガイドブックや、神宮寺関係のパンフレットにはそのように書かれていますし、そもそも東大寺の開山である良弁(ろうべん)さんも小浜市出身だ、とされています。

しかし、国史大辞典や東大寺のサイトなど確認しますと、そのようなことは一切書かれていません。
国史大辞典によりますと、良弁僧正は近江国か相模国の人だ、と言い、実忠さんは出自がわからない、としています。

ほかの辞書でも、ほとんど同じ。おそらくこの説が通説なんでしょう。
ですので、小浜に残る「良弁さんの出身は小浜」「実忠さんはインド人」というのは、伝説、ということになります。

しかし、単に伝説と言って片付けてしまうのもちょっともったいないようなお話しです。

意外と知られていないかもしれませんが、この時代、外国の人がたくさん来日していました。有名なのは、東大寺の開眼供養を行った菩提僊那(ぼだいせんな)僧正でしょうか。彼はバラモン階級出身のインド人仏僧で、請われて来日し、大安寺に入り、日本仏教の興隆に尽くしてくれました。菩提僊那と一緒に、渡日してきた僧、仏哲はベトナム出身、道せんは唐の出身です。想像以上に国際色豊かだったのが当時の日本なんです。

そうした背景を考えますと、実忠さんが、インド人でも不自然ではありません。
また一説にはペルシャ人(イラン)だったともいわれるそうですが、それも不自然ではありません。当時ペルシャ人が来日し、聖武天皇に拝謁している記録も残っているからです(『続日本紀』)。

ちなみにペルシャ人は当時、「波斯(はし)人」と呼ばれていました。このこともちょっと記憶しておいてください。

十一面観音さんと言えば「水」という連想

そして次に「ご本尊が十一面観音である」、ということです。

仏像好きな人であればピンと来ると思います。頭の中にこんな連想が浮かぶ人は多いんじゃないでしょうか。

【十一面観音さんがご本尊→水→北陸・泰澄(たいちょう)・白山(はくさん)信仰】

よく知られた話ですが、十一面観音さんは「水」とたいへん深いかかわりがあります。もともとインドで天候や雨を支配した神がベースになっている、ということもあるのでしょうか、十一面観音さんがおられるところの近くには、たいてい重要な水源、川、湖などがあります。

また十一面さんといえば、泰澄の白山信仰でしょう。

白山は、富山にある霊峰ですが、この山を開いたのが泰澄さん。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより白山へ登拝しますが、頂上で、白山神の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観音が出現します。

こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広く伝わっていくのですが、この泰澄さん、東大寺関係者とも強い関係があります。

まず、聖武天皇。
聖武天皇の前の天皇で聖武天皇の叔母にあたる元正天皇という女帝がいたのですが、この方の病を泰澄さんが祈祷で平癒させたため、女帝の篤い信頼と帰依を受けます。

そして行基。
東大寺創設の功労者である行基さんは、泰澄さんを訪ね、ともに白山に登り語り合います。哲学者・梅原猛さんは、この時、行基さんは泰澄さんより「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることを学んだのではないか、と推察しておられます。

そして「お水送り」の舞台である小浜。
小浜には、大変有名な美しい十一面観音さんが居られます。羽賀寺というところのご本尊ですが、こちらは元正帝のお姿を映したもの、と言われています。そしてこのお寺は元正帝の勅願により、行基さんが創設した、と伝わっているのです。

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(こちらが羽賀寺の十一面観音さん。何となく日本人離れしてこってりした顔立ちの美人ですよね?)

羽賀寺のある場所は、お水を送る舞台になる神宮寺と鵜瀬からは結構離れてますが、この小浜という地域全体が何となく、聖武天皇ファミリーと近しい間柄にあるような感じをうけます。

つまり、ご本尊が十一面観音さんである、ということは、「水」と縁が深い、とまず連想されますし、その水が聖武帝ファミリーとも何かと縁のある小浜から送られてくる、ということは何となくあり得る話、という感じがしてくるわけです。 必然性と申しますか…

(続く)

【関西旅】②「山の宗教」修験道の始まりの場所・吉野大峯/『山の神仏』展@大阪市立美術館


吉野といえば「蔵王権現(ざおうごんげん)」
展示の第一部は「吉野大峯」。
『山の神仏』という名前にふさわしいスタートですね!
よく「山の宗教」とも言われる「修験道(しゅげんどう)」が生まれた場所がこの吉野・大峯なのです。

「修験道」というと分かりにくいかもしれませんが、「山伏(やまぶし)」と聞くと、ああ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。時代劇なんかで見かけるあの山伏は、この修験道の行者さんです。

修験道というのは、日本ならではの仏教、ともいうべきもので、日本古来の自然崇拝とインドで生まれ伝達された仏教とが合わさってできた宗教、といったもの。

「極端な言い方をするならば、仏教を父に、神道を母に、いわば仏教と神道という仲の良い夫婦のもとに生まれた子どものような存在である」
(図録P193「吉野大峯の神仏」田中利典氏執筆より引用)

そんなわけで、本来仏教の経典にはない神仏もたくさん出現して今に伝わっています。

この修験道の祖と言われているのが、「役小角(えんのおづぬ)」です。役小角は吉野大峯で修業しているときに、「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」という、強烈な尊格を感得しました。この「蔵王権現」こそ、修験で最も重要な存在であり、吉野大峯ならではの仏さんなわけです。

以前、吉野の金峯山寺に行った時のレポートで、イラストを描いたことがあったので再喝。
蔵王権現ううむ。あまりこわくない。実際にはもっと激しくて峻烈なかっこいい尊像ですが、でも形を見ていただけたらと思います。

「仏様」と言われると優しげな様子を思い浮かべる人も多いと思いますが、蔵王権現さんはその真逆ですね。青黒い肌に怒りの形相(憤怒相)、左手は刀印を結び、右手には三鈷杵(古代インドの武器の一種で、仏教では法具)を持って振り上げ、右足は大きく蹴り上げています。

先ほど引用した図録にも「深山幽谷を道場に、命がけの難行苦行に身を置く実践宗教・修験道に相応しい力強い尊像である」(P195)とありますが、まさにその通り。厳しい自然の中では、受け止めて慰めてくれる優しい様子の仏さんではなく、叱咤激励してくれる仏さんのほうが相応しいのでしょうね。

展示では、この蔵王権現の尊像をはじめ、吉野の宗教世界を表わす曼荼羅などが展示されていて、その世界を感じさせていただけました。

また蔵王権現以外にも、吉野ならではの神々がいらして、その姿もその曼荼羅をはじめ、いろいろ描かれているのですが、特に印象的だったのは「天河弁財天」を描いた「天川弁財天曼荼羅図」(室町・能満院)ですね。

こちらに掲載することはできませんが、とにかく強烈!弁財天さんと言いますと、だいたい美しい女性の姿で表されますが、この曼荼羅図の弁財天は、顔が蛇で、しかも三つの顔があり、口から宝珠をはいている、というお姿。

弁財天は水にかかわる神さまなので、蛇身の神さまである宇賀神(うがじん)と習合して描かれることも多いのですが、浅学ながら、お顔そのものが「蛇」というのは初めて見ました。すごいなあ。強烈だなあ。ネットで調べてみますと、この像容は有名なんですね。天河弁財天ならではって感じなのでしょうか。

図録がいいかんじ!
さて、このレポートは本展の図録『山の神仏』を読みながら書いていますが、この図録がすごくいいかんじ。
20140527-10ストレートな作りですし、一見そっけない構成ですが、寄稿されてる先生方の文章が私のような素人にもわかりやすいです。なるほどな~、とうなずきながら拝読してます。

そして造本デザインがまたかっこいい!
一見地味ですが、予算も限られてる中でデザイナーさんの工夫が随所にひかります。カバーは色のある紙に二色摺り(黄色の特色とスミ)で抑えてますが、見返しは少し透ける片面色紙に一色印刷で、本扉のタイトルが透けるようになっており、そこから光が放射されているように見えるデザインです。
20140527-9余分なことは一切してない。でも、必要十分で、コンセプトを際立たせる演出をしてくれてます。こういうのは本当にいいデザインですよね。

と、ちょっと話がずれてしまいましたが、話を戻しますと…。

第二部は「熊野三山」ですよ。

(続く)

 

モチーフから世界観と歴史を読み解く……『奈良美術の系譜』/小杉一雄著




東洋美術史の巨人・會津八一博士の直系

学問の世界は、領域意識が皆さん強いので(それだけ譲れない信念を持っている、とも言えます)、なかなか横に広がって検証する、みたいな動きは難しいようです。…そうしますと、ある領域では、当たり前のことでも、すぐ隣の領域では誰も知らない、みたいなことが起こってしまう、と…。

歴史学の研究者と、考古学の研究者、一般人から見て「え?何が違うの?昔のこと研究してるんだから同じじゃないの?」なんて思うかもしれませんが、当事者からすると、それはあまりにも乱暴なお話なわけで。例えば同じ時代の研究をしていても、まったく研究する方向性・方法論がちがうので、それによって導き出される結論もかなり違ってくるわけです。

以前、尊敬する歴史学者の先生がご著書で、「日本の歴史を、日本だけで語ろうとしてはいけない。もっと大きな視座を持たねばならぬ」という意味合いのことをおっしゃられていたのですが、いや、ほんとその通り!と膝を打ったのですけど、この本を読むと、本当に改めてそのことを改めて思い知らされました。
なんかもう読んでてワクワクしちゃってね、読み終わってから踊りだしたくなるような気持ちにさせられちゃいましたよ!
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小杉先生は、偉大なる東洋美術史家で歌人の會津八一博士のお弟子だった方です。本書をものされた時(1993年)、すでにに85歳。

「師匠は私に奈良の美術の本当の姿を知るためにはうちがわからばかり眺めずに、美術の故郷である中国古代に身を置いて、中国がわから眺めなければならないということを教えてくださいました。それ以来六十有余年、私は中国の岸辺に立って、小手をかざして奈良の美術の本質を眺め暮らしてきたのです。」(「はじめに」より引用)

師匠への溢れるばかりの敬愛は、本書のなかでも随所に感じられるのがまた素敵なのですが、その視野の広さ、柔らかさは、私のような一般読者にとっては目からうろこの嵐です。何よりその人柄がにじんでいる文章がいいんですよね。たまにキカンキの強い少年のような表現があるんですけど、それすら微笑ましい。

藤の木古墳の年代比定についても一言在り
すべての章が面白かったんですが、特に抜いてご紹介するとすれば、本書には日本の古代美術から頻繁に登場するモチーフである「鬼神」「天女」「仙人」について、目からうろこのお話があります。

例えば、「鬼神」について。

藤ノ木古墳から出土した鞍金具には、二つの武器を持った鬼神が浮き彫りされていました。この鬼神を見て、小杉先生は一瞬で「これは『蚩尤(しゆう)』だ」と思ったというのです。

『蚩尤』というのは、古代中国の美術を見てますと、めちゃくちゃよく出てくるモチーフです。古代中国の神話の中で、大人気の神さまで、5つの武器を発明したことから最強の戦神として崇敬されました。

ちなみに、この蚩尤さんはとても長い間中国の人々が信仰し、表現していたので、時代によって徐々にその形状が変わっていきました。

例えば、指の数。当初は三本指が多かったのですが、6世紀末から7世紀末徐々に5本指になったと小杉先生は言われます。また、武器も、最初は5種類持っていたのが簡略されて二種類になっていくのですが、それもわせて考えますと。

この藤の木古墳の鞍金具に彫られている鬼神(蚩尤)の指は、五本指でかつ二つの武器を持っているので、そのモチーフが変化していく過程を考えたときに、7世紀後半が妥当だと思う、と言われるのです。

おおおお!?ほんとに??

ちなみに、その指摘は藤の木古墳が発掘された当初から、小杉先生は指摘されておられたとのことですが、当時は6世紀前半、現在では6世紀後半と比定されてるようです。そうしますと100年余りの差がありますね。

「私はあえてこのことで藤の木古墳そのものの年代をうんぬんしようとは思わない。古墳ができてから後に馬具だけが何かの理由で入れられることも十分にありうることではある。
(中略)6世紀前半か中ごろとされる藤の木古墳から、7世紀中期以後の5本指の蚩尤が出土したというのは、江戸時代の墓とばかり思っていたのが、中からコカ・コーラの瓶が出てきたというわけなのである。」(P160より引用)

アハハ、すごい言い方ですね^^;。

だけど、それくらい、モチーフからみたらおかしな話なわけですよね。

「これは蚩尤と言ってもいい、しかし5本指だからといってそれを気にしすぎる必要ないんじゃない?たまたまこれが5本指に描かれただけかもしれないじゃないの?だから、6世紀のお墓である、という説をまげるつもりはありません~」(むとう解釈で要約)

当事者から、そんな風に言われちゃった小杉先生の精一杯な皮肉です。

でもね、やっぱり変な話ですよ。モチーフ、っていうかデザインってその時代を反映しているし、特にこんな大事なところに、王族のお墓に入れるようなものなんですから、かなりしっかりと選びますでしょう。その人物が愛用していたもの、またはその時代ならではで高品質なもの、宗教的思想的に意味のあるものを副葬品にするはずですよね。

なかなかいいたとえが浮かびませんけど…

例えば、火の鳥というモチーフはものすごく昔からあるモチーフですけど、手塚治虫さんが書いた「火の鳥」ってありますね。それまでの火の鳥とは違いますよ。よりデフォルメされ擬人化した表情の火の鳥です。
この「手塚さん型火の鳥」が、とあるお墓から発見されたとしますよ?そうしましたら、少なくとも手塚さんが火の鳥が描かれたのは1954年からなので、このお墓は1954年以降のものだろう、とそう推理するでしょう。

「あとから入れたんじゃない?」ということはできますけど、100年ほど前の人のお墓に、あえていれますかね??なんかおかしくないですか???

…小杉先生はそんなことをおっしゃりたいのかな、と思いました。私も同感です。

日本美術、仏像、古代史に興味のある方には、特にお勧め!
少々長くなってしまいましたが、ほかにも目からうろこなお話が、とても分かりやすくかかれています。
ぜひ、そのあたりにご興味のある方で未読の方は是非読んでみてください!すごいおもしろいですよ!
それまでなんだこれ?と思っていたものが、そういう意味だったのか!となります。すごい楽しいです。

少々余談ですが、実は小杉先生は、画家として高名な小杉放菴の息子さんなので、絵もデザインも上手。このカバーデザインの原案もご自分でされてるそうです。説明する為のイラストも先生の自筆です。

寺社好きのみなさん、絶対手に入れたほうがいいです!!なガイドブック登場。


 

尊敬する大先輩・Wさんが、すごい本を上梓されました。
祈りの回廊をゆくこちらです!!『奈良大和路 祈りの回廊を歩く~奈良町・高畑界隈~』。

帯はこれまた尊敬してやまない、奈良博の西山厚先生が寄せていらっしゃいます。

本書の特徴は、先生の言葉に凝縮されています。
「小さなお寺や神社に向けられた温かいまなざし。こんな本がほしかった。ずっと待っていた。奈良がもっともっと好きになる本です」

奈良町・高畑のあたりといえば、奈良にいったらまず歩くところだと思いますが、本書を読むと、いかに自分がものを分かっていなかったということがわかります。

拝読しながら、こんなところに、こんなすごい歴史の神社があったんだ!お祭りもあるんだ!え、こんなきれいな仏像があったの??…と付箋たてまくりですよ。関東在住の割には結構知ってるほうだと思いますが、まだまだ浅かったああ、という心地よい敗北感が…。
祈りの回廊(P6-7より引用)

そしてこのページをご覧ください。

本編の一番最初の見開き、最も大きな写真は、元興寺(たぶん本堂)の屋根ですよ!!
く~~っさっすが~~Wさん~~~!
確かにこのシリーズの最初を飾るにふさわしい写真です。元興寺、そして「行基葺き」。

元興寺は、ちょっと特別なお寺ですよね。元興寺はもともと現在の飛鳥寺だったお寺です。えっと、そういうとちょっとわかりにくいですよね。

蘇我馬子によって、日本最古の本格的な仏教寺院として建立された「法興寺」というお寺が飛鳥にあったのですが、平城京へ遷都する際に、一緒に引っ越して、名前を元興寺と改めたんですね。
(それで、うつされたものの、法興寺自体も残りまして、これは現在〔飛鳥寺〕と呼ばれてるわけなんですね)。

つまり、仏教興隆の第一歩ともいえるお寺さんなわけで、このお寺がまず最初に来るのはとても納得しますし、そしてその屋根が大きく出ているのもとても納得してしまうのです。というのも、この本堂(国宝)自体は鎌倉時代のものですが、屋根の瓦は、飛鳥時代の瓦でもって、一部葺いてるんです。そんな古い瓦が現役なんて、すごいですよね!
まさに、トップを飾るにふさわしい写真です。はああ、さすがだなあ。
祈りの回廊(P18-19より引用)

また、本書の特徴は、お寺さんだけでなく神社も取り上げているところ。一見小さくみえる神社でもこんなにすごい特徴、歴史、物語が詰まってるなんて、と改めて驚かされます。

そして、通常のガイドブックではまずスルーされてしまうであろう石造物もきっちりフォローしてくれてますよ!石部の魂も騒ぎます。付箋付箋、と……。

これだけ、しっかりとした情報が満載なのに、文章量も適度で、そんなに重たいという感じもないのがまた…。ガイドブックとしてとても使いやすそうですよ。もちろん地図もわかりやすいし。

「奈良では『ありがたいものはみんなありがたい』という素直な祈りの心が数えきれないほどの人々によって伝えられ、守られてきた。今改めて、奈良は町全体が『祈りの回廊』なのだと称えたい」(前ソデより引用)

なるほど。

そうなのです。これだけの多くの寺社を、奈良の人たちは伝え、守ってきたのです。それは簡単なことじゃありません。戦渦にあっても、途絶の危機にあっても、その時の誰かが踏ん張って伝えようとした。その結果が、この豊かな「祈りの回廊」なのですね!!

……Wさん、西山先生、これが「愛」ってやつですね!?

すみません、ちょっと興奮しすぎですね。いやでもそれくらい感動してしまったんです。

とりあえず、今度このガイドブックをもって、奈良町と高畑を歩きます。間違いなく私はもう一歩前へ進める気がするのです。

皆さんも、ぜひお手に取ってみてくださいね!!

 

あの飛鳥大仏が、ほぼ造立当時のままだった!!?


日本最古級の仏像としてまずその名前が挙がる、飛鳥寺の飛鳥大仏(重文)。

ただ、この飛鳥大仏は、鎌倉時代と江戸時代に大幅に補修されていると説明されてきて、造立当時のままなのは、お顔の部分だけ、と説明されてきました。

ところが、早稲田大学大橋一章教授の調査によると、どうも全体が造立当時のままの可能性が高いという結果が出たというのです!

早稲田大学の記事!↓
http://www.waseda.jp/jp/news12/121020_daibutsu.html

ざっくり要約してしまいますと、お顔も体も銅などの金属組成が同じなため、同時期に作られたんじゃないかという、結果。これは、すごいことです!

現在、飛鳥大仏の造立は609年とされています。609年に日本で作られた銅製の仏像となると、名実ともに最古と名乗るにふさわしい仏像ってことですよね!

最古であってもなくても、補修されていてもなくても、あのお像の素晴らしさは変わりませんが(私は飛鳥大仏大好きなのです^^)、今後のさらなる調査が楽しみです。

快慶最初期??石仏に銘文発見!


すごい発見です!

なんと、あの快慶が、石仏造立にもかかわっていた可能性が高いというニュース。
しかも、快慶最初期と思われるそうです。しかもしかも、鎌倉時代の高僧、貞慶(じょうけい)上人による造立ですって!

奈良県三郷町持聖院(じしょういん)での再発見。「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」と呼ばれ、現在、町指定文化財だそうです。
でも、今後もっと上の文化財に指定されそうですね。

詳しくは↓
http://t.topics.jp.msn.com/t/news/national/article.aspx?cp-documentid=253620709

イシブカツvol.9 東京真ん中編⑤山縣さんちの石もの〔後篇〕(椿山荘)


イシブカツ


世紀の大発見

さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
般若寺燈籠

かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!

さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
般若寺の灯籠というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。

名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。

なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。

現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;

「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。

もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
東大寺大仏殿たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
秋篠寺こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。

奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。

いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。

「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。

般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。

いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
般若寺燈籠ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。

笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。

普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。

しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。

本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。獅子後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀と鳳凰孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。

「むとうさん、ここ、ここに注目!」
孔雀の脚石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。

「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」

なるほど!

確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。

「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」

なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。

それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。

ふほおおお。

ため息をつく石造センパイと私。

こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。

(終わり)

file.2 究極形の五輪塔/伴墓五輪塔(奈良県)


東大寺を再建したスーパーお坊さん・重源(ちょうげん)さん
「五輪塔」といえば、とても気になる五輪塔があります。それは、東大寺横の三笠霊園にある『伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)』(重文)。

鎌倉時代、平家によって東大寺は燃やされてしまったんですが、その復興を指揮した人物に、重源さんというめちゃくちゃすごいお坊さんがおります。この五輪塔はその重源さんを供養するためとも、お墓であったとも伝えられているものなんですね。

実はこの重源さん。ほんと~~にすごい人なんです!!

東大寺って、今見てもものすごく大きくて立派ですね。しかし、あのお寺のすごいところは、あの建物を建てるにあたっての「方法」「コンセプト」なんです。
国家で全額出す、とかそういう方法ではなく、いろんな階層の人々の寄付でもって建造する、というのが、創建した時に大切に考えられた方法でした。

なので、鎌倉時代に再建するにあたっても、その方法を踏襲しました。
日本中にお坊さんを派遣して、様々な階層の人から寄付金を集め(勧進)、そのお金であれだけ大きなものを作り直したんですね。
その取りまとめをしたのが、この重源さんというお方なのです!

これってものすごく大変な大事業ですよ~~!
想像を絶するほどの大勢の人々、思惑をコントロールしつつお金を集め、最終的に、あれだけ大きな鋳物の金銅仏を作り、なおかつ巨大な覆い屋(建物)を作るんですもの!

重源さんは、この再建を任された時、すでに61歳だったといいます。今聞いてもその歳からこの大事業の責任者!?と思いますけど、当時の60代は今よりももっと上の年齢の感覚だったでしょう。そんな年齢から、なんと20年余りをかけて重源さんは見事その責任を全うし、大仏殿を再建したのです。

すごくないですか!?マジで!!

美術史に燦然と輝く、鎌倉時代の名品たちの揺籃
また、重源さんの普通じゃないところは、自分自身でも、工人的知識・土木知識を持っていたところ。重源さんは、なんと中国(南宋)を三回も訪れたといい、中国の最先端文化に精通していました。なので、再建にあたり中国の優れた工人をたくさん呼び、中国の工人や日本の工人に優れた建造物・仏像・石造物をたくさん作らせました。

あの、天才仏師、運慶・快慶しかり。仏像にしても建造物にしても、工芸品にしても、鎌倉時代には本当に素晴らしい名品が数多く作られましたが、その背後には、びっくりするぐらいこの重源さんの影があるのです。

重源さんは、事業家としても天才的でしたが、美意識・見識も抜群の人だったんでしょうね。彼が成し遂げたことを何度も何度も見続けてますと、本当に頭が下がります。そして、心からあこがれてしまうわけなのです!

さて、この五輪塔はとても有名な五輪塔なんですけど、なんで有名かというと、鎌倉時代のスーパースター重源さんゆかりのもの、という点以外に、そのスタイルが一般的なものと異なるということもあります。

gorintouちょっと繰り返しになってしみますが、五輪塔というのは左のイラストのようなスタイルで作られています。

下の基壇(地輪)は四角、水輪は丸、火輪は三角…という形で、これらすべてが、とある経典の教理の具現化でもあるわけなんですね。

そして、立体的な言い方をすれば、地輪は四角柱、水輪は、球体、火輪は「四角錐」になっています。
平面的に見たら、四角、丸、三角に見えますし、造形的にも、物理的にもおそらく安定するだろう、という形です。

しかし、この「伴墓五輪塔」は、その火輪が四角錐ではなく、「三角錐」なのです。このスタイルのことを「三角五輪塔」と呼びます。

これです!

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

正面から見ると、見事に「四角・丸・三角」ですよね!
それで、この屋根みたいな部分(火輪)が、立体的に見ても三角形なのです。どういうことかというと…
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こんなかんじです。

こうしてみると一目瞭然ですが、四角錐の火輪のほうが、作りやすそうだし、安定すると思うんですよね。
だけど、あえてこうしたかったわけです。つまり、このスタイルは、「火輪は三角形である」というコンセプト面をより大切に、強調している形、と言えるんじゃないかと思います。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

コンセプト重視の「究極の形」
この「三角五輪塔」は、重源さんがとくに好んだスタイルだったようです。
重源さんゆかりのお寺では、水晶製の舎利塔など、この三角五輪塔のスタイルであらわされているものが、いくつか残されているそうなんですね。

そのために以前は、重源さんが考えたデザインじゃないか、という説もあったそうなんですけど、今では重源さんが修業した醍醐寺ですでに三角五輪塔のデザインがあったことがわかっているとのこと。つまり、自分自身のルーツである醍醐教学の大切なエッセンスである三角五輪塔を、重源さんも大切にしていた、という 証、と言えるかもしれません。

じつは、この伴墓五輪塔を初めて見た時、私はそのアンバランスさに驚きました。

笠がずれてるような気がしましたし、とにかく不安定な感じがするんです。
だけど、よくよく見てみると、そのアンバランスさに何とも言えない魅力があります。

これも私の勝手な想像なんですけど、重源さんってとっても人間らしい、清濁併せのむタイプの、スケールの大きな人だったんじゃないあと思うんですよね。ある人にとってはまるで菩薩のようで、ある人にとってはまるで悪魔のような…そんなアクの強い人だったんじゃないかなあ。

けして器用なタイプの人ではなかったんじゃないかと思うんです。でも、人を信頼するとか、一度決めたら絶対に意志を曲げないとか、そういう強さを持った人だったんじゃないかなあと。
だから、周りの人も、「重源さんがそういわはるんやったらやらなしゃあないなあ」とかそんな感じで、彼を応援していったんじゃないかな、なんて思うのです。愛さずにはいられない、憎めない人、というか。愛嬌たっぷりの人だったんじゃないかなあ。

この三角五輪塔には、そんな気配を感じるんです。
アンバランスだけど、コンセプトを表現する形としては、最強です。余分なものが何もない。むき出しの何かがそこにあります。
それは、重源さんという人そのもののような気がするのです。