【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑬「海幸彦・山幸彦」神話に登場する「海宮」の痕跡


その参、仁位浦の和多都美神社〔明神大社比定地〕

阿麻氐留(あまてる)神社から、浅茅湾周囲を廻りこんで北側に行くと、「いよっ!本打ち!」とあいの手を入れたくなるように美しい「和多都美(ワタヅミ)神社」が現れます。
こちらの写真は、境内側から外を見て撮った写真です。
本当でしたら正面からとりたいとなりますと、海のほうから撮影しないといけません。

上の写真のように、海の中にある一番左が一の鳥居、二の鳥居、そして地上にある三の鳥居と連なっています。いかにも海の神さまのお社らしい、「海の参道」です。

いやああ、それにしても美しい場所!!
まるで湖かと見まごうような、穏やかで優しい海です。

ちょっとわかりづらくなってしまいますが、上の写真は四の鳥居を過ぎ、海の方を振り向いて撮った写真です。

鳥居から見て、左側に池、相撲の土俵があります。

この池がまたすごくてですね…

池の真ん中に、こんな三角鳥居があります。三角鳥居と言えば秦氏…という連想は、ちょっと置いといて(というのも最近設置されたとのことなので)、注目すべきは、この石なのです。

こちらの石は、「磯良(イソラ)エベス」と呼ばれる霊石で、「原初はこの石こそ、ご神体だったろう」と『日本の神々』で、対馬史研究の泰斗・永留久恵先生が言っておられます。

岩肌には亀裂が縦横に生じていて、まるで鱗のように見え、まさに海の神のお社のご神体にふさわしい神秘的な石ですね。
そして「イソラ」と聞いて、すぐに連想されるのは、海人族「安曇」氏ですね。安曇氏のご先祖はこのイソラ神だとされてます。

あの「海幸彦・山幸彦」物語の舞台

記紀などに紹介される、「海幸彦・山幸彦」という物語、覚えている方も多いと思います。

「海幸彦と山幸彦という兄弟の神がいた。ある日、お互いの猟具・漁具を交換して、山幸彦は釣りに行くものの、借りた釣り針をなくしてしまう。困り果てていると、塩椎神(しおつちのかみ)が現れ、教えに従って小舟に乗って海の神・大綿津見神(オオワタツミノカミ)の宮に行くと、歓迎される。オオワタツミの娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚し三年を過ごした後、なくした釣り針と、霊力のある玉を姫からもらい、地上へ帰る。その玉を用いて、兄・海幸彦を懲らしめ、忠誠を誓わせた」

ざっくりこんな内容でしたね。

この中に出てくる山幸彦は、「火遠理命(ホオリノミコト)」と言い、天照大神のお孫さんにあたります。
阿麻氐留神社の祭神「ホアカリ」さんは、天照大神の息子さんのひとりなので、ホオリさんからすると、伯父さんにあたる、という関係性です。

一般的に、この物語の舞台は、日向(宮崎)だとされていますが、ここ対馬にもその物語の痕跡がかなり濃厚に残されているのです。

五の鳥居をくぐると、本殿が見えてきます。
小ぶりながらも立派な作り。寛文年間に洪水で流されてしまったという伝承があるので、それ以降の造りなんでしょう。

神社というより、お寺さんのような雰囲気ですが、しかし、裏手にまわると…

このように、しっぱな高床式の本殿が現れます。
簡素で美しいですね。

和多都美神社の由緒によりますと、

「当社は海宮の古跡なり。上古、海神豊山彦命(トヨタマヒコノミコト)この地に宮殿を造りたまひ、お子に一男二女ありて、一男を穂高見命(ホタカミノミコト)と申し、二女を豊玉姫命(トヨタマヒメ)・玉依姫命(タマヨリビメ)と申す。
ある時、彦火火出見(ヒコホホデミ)命、うせし釣り針を得んと、上国より下りたまひ、この海宮に在すこと三年にして、終に豊玉姫を娶り配偶したまふ。良ありて釣り針を得、また上国に還りたもうがゆえに、宮蹟に配偶の二神を斎たてまつりて、和多都美神社と号す」

とあるので、こちらの主祭神は、ヒコホホデミとトヨタマヒメ夫婦ということでしょう。ちなみにこのヒコホホデミという名前は、「火遠理命(ホオリノミコト)」の別名です。そして、豊玉彦とはオオワタツミの別名となります。

つまり、この仁位浦に、オオワタツミこと、豊玉彦さんのお屋敷があったわけですね。そこに、天の国から王子様・ホオリさんが釣り針を探しにやってきて、そのままお屋敷の姫・豊玉姫さんと結婚し、三年も生活した、と。釣り針と海の宝物を持って天の国に帰ったので、そのお屋敷のあとを神社にして、夫婦を神さまとしてまつりました、……と、こういうことなわけですね。

そんなお話をこの現場で聞いていると、神さまの話をしているようで、神さまじゃないみたいな、実際に人間の物語としてあったんじゃないかな、というようなリアリティを感じてしまいます。

そのリアリティを裏付けるように、豊玉姫の陵とされる場所(磐座)が境内にあります。同様にオオワタツミ(豊玉彦)のお墓も境内にありますが、ホオリさんのお墓はありません。ホオリさんは、自分の国に帰ってしまったということを意味しているんでしょうか。

ちなみに、前述の「イソラ」神は、この二人の間の子どもであったとされていて、つまり「ウガヤフキアエズ」の別名かとも言われています。

余談ですが、こちらの宮司を代々努めてきた長岡家の世継ぎには、「背中に鱗があるという」(『日本の神々』より)そうで、イソラ、つまり海人族の本流の血脈、この地に脈々と伝えられたいたんじゃないか、という気がします。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑪住吉神社なのに、祭神はワタツミ系の不思議


その一、鶏知の住吉神社〔明神大社比定〕

対馬島のちょうど真ん中には、入り組んだ入り江と島からなる浅茅(あそう)湾があり、その南側の入り口といった位置に「鷄知(けち)」という集落があります。住吉神社はその集落に鎮座しています。

対馬の集落は、切り立った山の下に形成されているので、かなり密集した感じなのですが、このお社がある場所も、辿りつくまでの道が細くて、慣れない車で焦りまくりました。

とはいえ、どうにかたどり着くと大きく立派な鳥居があり、参道をぐいぐい歩いて行きます。屋根のある門をくぐりますと、お社が見えてきましたが……

……あ、やっぱり、参道の正面にお社がありませんよ。
しかもすごい角度。ううむ。これは、気のせいではありませんよね。万松院と全く同じ思想を感じます。やっぱり意図的にはずしてるんだよな……


いやもう、これはわかりやすい。
なんかよくわからないけど、くいっと真ん中から外す、それが対馬の寺社の作法なのか……。

住吉さんなのに、祭神は住吉三神ではないこの不思議

謎は深まるばかりですが、さらに謎が深まるのは、こちらは明神大社の住吉神社なのに、その主祭神が、住吉三神ではないということです。
住吉神社は、日本中にありますが、中でも有名なのは大阪の住吉大社と博多の住吉神社でしょうか(この二社はいずれも明神大です)。
「住吉社」と言えば、主祭神は住吉三神こと、底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) なのですが、鶏知の住吉神社は違います。
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、玉依毘売命(タマヨリビメノミコト)の三神です。

何だかこう神さまの名前を羅列されると、わけわからなくなるかもしれませんが、ものすごくざっくりご説明しますと

ウガヤフキアエズ→神武天皇の父
トヨタマヒメ →海神オオワタツミの娘。ウガヤフキアエズの母で、神武天皇祖母
タマヨリビメ →海神オオワタツミの娘。ウガヤフキアエズの叔母で妻。神武天皇母

となります。「海幸彦と山幸彦」のお話はご存じの方が多いと思いますが、その山幸彦が海の底に行って結ばれたお姫さまというのが、このトヨタマヒメ。そして二人の間の子が、ウガヤフキアエズなのですね。

そして、住吉三神はというと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)から戻って穢れを清めるために、海に入ったところ生まれた神々。有名なのは、神功皇后 の三韓遠征を促し、神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)は住吉三神の加護のおかげで三韓を平定し、無事帰還したという物語です。そのため、神功皇后も一緒にお祀りされることも多いらしく、「住吉大神」というとこの四神のことを言うこともあるようです。

しかし、こちらに祀られているのは、初代天皇である神武天皇のお父さんとお母さん、そして奥さん。神話上とはいえ13代の隔たりがあります。

また、ちょっと見方を変えますと、ウガヤフキアエズは天孫系ですが、女性二人は海人族の女性です。つまり、祭神の名前だけ見る限り、こちらは住吉神社というよりは、ワタツミ神社という内容ですよね。

ちなみに、住吉神社はもうひとつ鴨居瀬という集落にもあり、どうも最初の住吉神社はこちらのようで「元宮」と呼ばれるそうです。こちらには住吉三神が祀られているそうなので、なぜ新宮では祀られなくなってしまったんだろう、と素朴な疑問……。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑧宗氏はどうして「宗」なんでしょう?(…大胆にも妄想仮説)


惟宗(これむね)氏のルーツ〈秦氏〉を考えてみる

対馬を長らく統治した「宗氏」をさかのぼると、惟宗(これむね)氏に行きあたります。この「惟宗」と言う氏族は、秦(はた)氏系の氏族である、と辞書などに書いてあります。

そこで、「出た!秦氏!」と思わず浮足立ってしまうのは、歴史ファンとして仕方ないですよね。
秦氏と言えば、京都太秦(うずまさ)の…と思い浮かべる人も多いかと思います。『新撰姓氏録』などによれば、「秦の始皇帝の末裔で、百済からやってきた」とということですが、様々な説があるようです。でも私は、新羅系だろうな、と思っています。

――なぜならば。
秦氏の氏寺・太秦寺の仏像が、〈新羅系〉のお顔をしてるからです!(単純!)

数年前、韓国の仏像や仏塔を見て廻ったことがあるんですけども、その時に、慶州を訪ねて、仏国寺、石窟庵で8世紀の仏像のお顔を拝見した瞬間、「あっ」と腑に落ちちゃいました。ああ、秦氏は新羅系だわ、と。

それまでは、秦氏というのは百済系だというけれども、なんかちょっと違うよなあ、やっぱり朝鮮半島に移住した中国系氏族だからなのかしら…、なんて思っていたんですが、あ、やっぱ新羅系、と確信してしまったのです。

(写真:仏国寺大雄殿。文章と関係ないですけども、この石燈籠の素晴らしさと言ったらもう!見てるだけで興奮してしまうレベル)

(仏国寺でとにかく見るべきなのは、この多宝塔と…)

(写真:そして釈迦塔。この塔二基と石灯籠、および石造の構造物は774年創建当時のものですよ。新羅仏教美術最盛期のものですよ。そりゃもう、素晴らしすぎて石造美術ファンなら鼻血出ちゃいますよ)

 

何をもって美とするかは、固有の美意識そのもの

美しさに対する好みというのは、時代の趨勢・流行もありますが、本質的にその氏族(今風に言えば民族)の特徴が出やすいと思います。
特に仏像のお顔には、その美意識のすべてが注力されますから、明確に出るように思うのです。

石窟庵のお像・釈迦如来のお顔は、紛れもなく、太秦広隆寺 (こうりゅうじ)の有名な「弥勒菩薩半跏思唯像」のお顔の方向性だったんです。
写真では何度も見ていましたけど、そんな感覚は全くなかった。仏像を見るときに、こうしたことはよく起こります。写真ではなかなかこの「美の空気感」みたいなものは、感じられないんです。
やはり実際に拝観しないと分からないものなのかもしれません。

有名な秦河勝(かわかつ)が新羅仏教の信奉者であったことは、有名な話ですが、それからしても、やはり新羅系ですよね。信教のチョイスと美意識は、ルーツと密接に関係しているだろうと思うからです。

「海」を表わす言葉「ハタ」、「アマ」、「ウミ」

さて、この「秦」氏の「ハタ」。これはやっぱり、「海」のことを指してるんじゃないでしょうか。
古い日本語では、海を「ワタ」と言いました。海神の名のひとつに「ワタツミノカミ」があるように、「ワタ」は海のこと。朝鮮語の「パダ」とほぼ一緒ですね。

ちなみに、海を表わす古い言葉に「アマ」があります。「天」も「アマ」といいますが、ある瞬間に天と海の境が無くなるような体験をする海洋民族ならではの言葉遣いな気がしますね。
(写真:対馬の北部、千俵蒔山近くから臨む海。「天(アマ)」と「海(アマ)」の境目のあわいが美しい)

そういえば、今最も一般的な「海(ウミ)」はどうなんでしょう。いつから使われていたんでしょうか。

『国語大辞典』の用例を見てみますと、「宇美(ウミ)」として、古事記に登場しています。こちらも、「アマ」「ワタ」と同じくらい古い言葉のようですね。

しかし、アマとワタと決定的に違うと思われるのは、淡水も「ウミ」というところ。
『全文全訳古語辞典』には、「広く水をたたえている所。海洋のほか、湖・沼、大きな池などをもいう」とあります。
語源も、何だか果てしなくあるんですが、その中のひとつに「大水の意」というのがあります。なんとなくこのあたりが妥当なのかな、という感じですね。つまり、「ウミ」は、「水がたくさんある場所」のことを表現した言葉のような感じですね。
そう言えば、神さまの名前で「ウミ」とつく神さまはいましたっけ??
思いつかないですね……。

「惟宗」が、どうして「宗」氏になったのか

さて、その秦氏の一族である「惟宗」氏は、もともとは讃岐国に住む、法律に明るい一族だったそうです。
その惟宗氏が、鎌倉時代になって、九州の守護・少弐氏に使えるようになったのはなぜかはわかりませんが、いずれにせよ、「海」を通じて何か繋がっていくものがあったのかもしれません。

そこで、ですよ。

その「惟宗」氏が、文永の役には、「宗」氏と名乗っているのですが、なぜなんでしょう。一字の名字にしたのは、中国・朝鮮との外交上の利便性もあるのかな、と思いますけど、しかしなぜ「惟(これ)」氏じゃないのかな、……という素朴な疑問なのです。

例えば、藤原氏なら、中国風に名乗るときは「藤(とう)」氏ですもの。「原(げん)」でもいけますけど、あえて後ろの漢字はとらないんじゃないかな、と。

だのに、なぜ「惟」ではなく、後ろの漢字「宗」を採用したんでしょうか。

そもそも、もし本当の「惟宗」氏であれば、本姓は「秦」なんですから、そう名乗ればいいわけです。

#もっとも、その後、宗氏は「平」氏の末裔であると自称しますので、本姓の名乗りは「平」になっていきますけども……

そこで、ふと思っちゃうわけです。

この「宗」って、やっぱり「ムナカタ」氏の「ムネ」ってことなんじゃないのかな、って。

前回もお話ししましたが、1408年まで、宗氏の本拠地は宗像郡にありました。素直に考えて、やっぱり、宗氏は宗像氏の一族ですよね。

そうなると、本姓が秦氏である「惟宗」氏の名乗りもなんか怪しいな。
意味的にうまくはまるし、秦氏と宗像氏は関係も深いしって感じで名乗っちゃったのかもしれませんよね(中世ならではのあれ)。

ちなみに惟宗の「惟」の意味を調べてみますと

「……隹は鳥占(とりうら)。その神意を示すことを唯といい、神意をはかることを惟といい……」

とあります。そんな意味の言葉を「宗」の前にくっつけてると、なんだかやけに意味深で、ちょうどよすぎる感じになります。「ムナカタの神の神意をはかる」、そんな意味からしても、いい名乗りです。

妄想全開ですが、この仮説、けっこう面白い線ではないでしょうか。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】④宗像大社辺津宮に在る「聖地」の空気感


いよいよ宗像大社へ、GO!

東郷駅近くの日本料理店「史」で、美味しいお魚を堪能した後は、バスに乗って宗像大社を目指します。

余談ですが、宗像市って「宗像駅」がないんですね。宗像大社の最寄り駅は、「東郷駅」。市役所の住所を見ても「東郷」なので、このあたりが中心地ということになるんでしょうか。
宗像市のHPを見ると、昭和の大合併(昭和29年)の時に、東郷町、赤間町などの町が合併して「宗像町」となり、その後人口が増えて「宗像市」になったんだそうなので、その気配を今に伝えている、と言ってもいいのかもしれません。

駅のある内陸部から、海の方へと向かいます。ちょっと岡みたいな地形、のどかな田園地帯を越えると左手にいよいよ現れました!

宗像大社、辺津宮です!!

さて、ここから正面を歩いて行きますと…

石橋のさきに二の鳥居が見え、その先の本殿が見えてきました。

おおお。
なんとも重厚な、厳かな本殿です。

世界文化遺産に登録が決定した矢先でしたので、ひとで溢れているかと思っていたのですが、そんなことはなく、とても静かです。

こちらが本殿・拝殿です。
こちらには、「宗像三女神」のうち、「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」が祀られています。

さっそく本殿にお詣りしご挨拶をすませると、以前友人がプレゼントしてくれた宗像大社パンフレットのマップを見てみました。(以下、パンフレットからマップを転載)

お寺さん以上に、神社は敷地が広いことが多いですよね。
しかも、思いもよらない小さなお社が実はとても重要なお社だったりします。ですので私の場合、初めて参拝するときには、社務所の方にどのような順でお参りするとよろしいでしょうか、なんて聞いてしまうこともあります。
大きなお社なんかですと、こうした地図の入ったパンフレットを配ってらしたりしますので、ぜひ社務所などをチェックしてみてくださいね!

さて、せっかくですので、このパンフレットにある通り「推奨ルート」の順に巡ってみたいと思います。

古代祭祀の姿を伝える「高宮斎場」――神籬(ひもろぎ)とは

国指定重要文化財の本殿・拝殿(安土桃山時代再建)も素晴らしいのですが、今回、実はもっとも楽しみにしていたのは、この二番目「高宮斎場」を拝観することなんです。

静かな木立の中を進んでいきますと、15分ほどしてぐんと空気が変わるエリアに到達しました。

参道を進んでいくと直角に左折、その正面〔どん詰まり〕ではなく左手に、木の柵で覆われ、平らかで玉石がひかれた広場が現れました。周囲には常緑樹が茂り、祭壇の先には「神籬」と思われる枝の別れた常緑樹が見えます。

「神籬」は神の依り代(しろ)のことです。
この高宮斎場は、宗像三女神が降臨した場所だそうで、今も古式ゆかしい神籬ならではのお祀り方をされているということだそうで…。宗像大社さんにとって、沖ノ島と同じくらい大切な場所なんだそうです。

すみません、上の写真では、実際の中の様子がよくわからないと思います。
しかし、気配に押されて写真撮るのやめちゃいました(びびり)。

私以外に人がいなかったということもありますが、この濃密な空気ときたら…。これは「お行儀良くしなければ…」と思ってしまう場所ですよ。

なんとなくぎこちない形で拝礼すると、少し緊張したまま、来た道を取って返します。先ほど左折したところ右折すると、「ほうっ」と息を吐きました。ここから、空気が軽くなるんです。

いや、こんなこと言うと「???」と思われてしまうかもしれません。単に私はびびりだからかもしれませんが、ある種の「危機察知能力」が強いんじゃないかと思うんです。
霊感、とかそう言うのともちょっと違います。もっとプリミティブな衝動というか…
動物が生存するために持っている直感のようなもの…(多分)。

ですので、けっこうこの感覚あたります。
そんな経験があるので、「わ、わわ…」と感じるところには入りませんし、入ったとしてもものすごく大人しくします。理屈じゃないこうした感情を、古来、「畏れ」と呼んできたのかもしれませんね。

「聖地」というのは、古来より聖地であることが多いと思いますが、それはどの時代の人間にとっても、何か「畏れ」を感じさせるものがその場所にあり続けている、ということなのではないでしょうか。

宗像大社の高宮にも、そんな空気を感じてしまったのでした。

(つづく)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】①「海の国・日本」の大切なルーツをたどりたい


「日本文化」のおおもとを感じたい

40年余りの人生を振り返ってみますと、どうも私は、自分自身が生まれ育ったこの「日本」という国のおおもとを感じたい、という欲求に突き動かされ、動き回っているような気がします。

きっかけはひょっとしたら、子どもの頃に、縄文土器を見つけたことかもしれません。私が生まれた家は、縄文時代の住居跡の上にあり、発掘調査は済んでましたが、それでもちょっと掘れば土器の破片が出てくる場所でした。

その縄文土器はおそらく後期ぐらいのものだったんでしょうね。かなりデコラティブな文様のものもあって、そりゃもうかっこよかった。
と同時に、弥生時代と思われる薄い土器や、もっと下った時代と思われる土師器も一緒に出てきました。実際には重層的に積み重なっていたんでしょうけど、子どもが穴を掘るので、結局混ざって出てきているような感じになるわけですね。

私が暮らすこの土地には、信じられないほど長い時間、誰かが暮らしていた――。

そう考えると、何とも言えない豊かな気持ちになるんです。
私もいつか、その大きな流れの流れに帰っていくんだ、そんなふうに思うと、私は孤独ではない、そう感じられてホッとしたものでした。

そんな経験があったからでしょうか。

そうした気持ちを感じられる場所が、私の大好きな場所になりました。そんな場所はつまり、「太古から繋がる何かとアクセスしやすい場所」ということになるのです。

それは不思議と縄文時代の遺跡や、古墳、お寺や神社がある場所と重なります。
どんな時代でも、「ここは…?!」と、人間が感じる場所はそうそう変わらないということでしょう。なんとなく気持ちがいい、畏れ多い、感謝したい、そんな気がふと起こってしまう場所というのは、いつの時代でも共通なのではないでしょうか。

(写真:飛行機から見た富士山。富士山もまさにそんな場所ですね!)


古代日本を動かしていた海人族、安曇(あずみ)氏と宗像(むなかた)氏

さて、私たちが暮らす「日本」の最大の特徴は、「島国」だということでしょう。
島国ということは、四方を海に囲まれていますから、海を自由に行き来できる技術を持った人たち「海人族」が力を持つようになる、ということは自然な流れです。

そんな海人族の中でも、特に有名なのは、安曇(あずみ)氏、そして宗像(むなかた)氏です。
「安曇」と聞くと、信州の安曇野を思い浮かべる人も多いかと思いますが、それ、正解です。安曇野は山間部にありますが、安曇氏は日本中に散らばって今も地名や神社などにその姿を残しています。

そして「宗像」氏。――「むなかた」。
最近耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。
つい数週間前に、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産に登録されることが決定しましたね。

この「沖ノ島」は、祭祀が行われていたその姿をそのまま今に伝えている大変貴重な場所ですが、そもそも「宗像大社」の「沖津宮」です。

(写真:宗像大社・辺津宮正面。一般的には宗像大社といったらここを想像するかもしれませんが、宗像大社そのうちのひとつ、ということなんですね)
私は、かねてよりこの「安曇氏」と「宗像氏」などの海の民の本拠地であるこの地域に興味津々でした。奇しくも、というか必然なのかもしれませんが、この海人族は両方とも北九州で発生した氏族なのです。
安曇氏の発祥地は「筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町)」とされていて、宗像大社から20キロしか離れていない場所にあります。ほんとに近いですよね。
この至近距離から、これだけの勢力を持つに至った氏族が二つ出ているというのは、偶然ではないのでしょう。それだけ、この海域が重要な場所だったということを想像させます。

安曇氏も、宗像氏も今の日本の礎となるような、重要な存在です。
…ううう。
これは、やっぱり実際にその場に行ってみたい。その場に立ってみたいですね。

(続く)