【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑮対馬で最も陽気を感じたお社・天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社〔式内社〕


対馬北部の山道を走っていると、にわかに立ち上がる「山梨」感

翌日、さらに北上し、ツシマヤマネコ保護で有名な佐護地区を目指します。その間の道程は、ほとんどが山道。道はよく整備されていますが、海はほとんど見えない島の真ん中をひたばしるので、いったいここはどこだっけ?という気持ちがふつふつと…

「なんかさ、山梨っぽくない?」

友人がポツリとつぶやきます。
わかる~~!そうなのよ、そう!
いきなり目を瞑ってここに連れてこられて、ここどこだって言われたら、山梨か、長野って答えるわ!…という、そんなかんじなのです。

もちろんこの地域に来たからには、
対馬野生生物保護センターで、ツシマヤマネコさんにお目にかかったり……

対州馬にも体験乗馬させてもらったり……

イキモン部活動も、存分に楽しんできましたが、そこはまたイキモンブ項目でご紹介できたらなということで、ここは先を急ぎます。

その五、天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社〔式内社〕と、神御魂(カミムスビ)神社〔式内社〕

佐護のあたりは、古くより対馬唯一と言っていいような穀倉地帯です。穀倉と言ってしまうと大きすぎますかね。いえ、でも水田が広がる唯一の場所とはいえるでしょう。

水田地帯を抜け、入り江に出るとそのほとりに、かわいらしいこんもりとした緑地帯が見えてきました。天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社です。

わああ…。
何とも言えず気持ちのいい場所です。
そして、すごく愛らしい場所……。

溜息をつきながら、たたずんでいると、何かの視線を感じました。
ふっとソテツの下に視線を向けると、

あ、なんかいる。…目があった!

茶色の毛がふっさふさの、やたらにかわいい生き物が私のほうを見つめていたのです。見つめ合ったのは一秒もなかったでしょうが、妙に長い時間がたったような気がします。

はっと気が付いたら、その生き物はいなくなっていました。おそらくイタチ、チョウセンイタチかなと思われますが、このお社に招き入れてくれたような気がして、ますます嬉しい気持ちになります。

タクズタマさんのお使いかな~、と口元をほころばせながら、さっそく…

こちらのお社のご神体は天道山で、社殿のない古い様式です。写真で二つ目の鳥居の奥に見える祭壇は、天道山を遥拝するために設けられたもので、「東面と北面に鳥居があり」と『日本の神々』にあるのですが…。

鳥居は三基建っていますが、上の写真の方角が東面しているのは確かにそうですが、下の写真が南面してるような…あれれ?

それはともかく。

遥拝所を中心に、両側に二基、積み石型の石塔があり、東面、南面を鳥居でもって結界してるこの様子は、まさに磐境(イワサカ)です。かっこいい!

この結界の中に入ると、なんとも爽やかで、軽やかな気が流れているように思います。今回の対馬で参拝したお社の中でも断トツに明るい!気持ちいい!

ただし、この祭壇がある場所の前までは、って感じですね。それより中は沖縄の御嶽(うたき)のような濃厚な気配がして、写真を撮ることも憚られる気がして、撮りませんでした(びびり)。

タクズタマと「天道信仰」

ところで、こちらの主祭神は「タクズタマ」という神さまなのですが、いったいどんな神さまなんでしょう。

実は、対馬には固有の神道「天道(てんどう)信仰」というのがありまして、タクズタマはこの天道信仰の象徴である「天道菩薩」と同体なのです。

この信仰は、神仏習合が盛んに行われた中世に生まれたものようですが、

「尊い生まれの女性が、太陽の光で受胎し、男の子・天道童子を出産。神童の誉れ高く、僧となり巫祝の術を覚え、上洛、帰郷する。33歳の時、体調不良をどうにかしたい天正天皇の要請を受け、再び上洛。見事平復させ、感謝した元正帝は、様々な恩賞と、宝野上人の称号を賜った…」

といったような、物語が語られるんですけども、極めて中世らしい物語かなと思います。

一方、タクズタマは、タカミムスビとカミムスビの子どもです。この二柱は先だっても少し書きましたが、日本神話では「ヒトリガミ」とされる尊い神々なんですけど、対馬では、夫婦神なんですね。

おそらくこちらが、古い神話として対馬に根付いていて、中世になってから、天道法師の物語と習合した、ということだと思います。

面白いのは、この夫婦神と子供神が一緒に祀られていないということ。

タクズタマを祀る特に重要な神社は、二つありまして、ひとつがこの「天神多久頭魂神社」で、もうひとつが、対馬の最南端の集落・豆酘(つつ)に鎮座する「多久頭魂神社」なんですが、前者の近くにはお母さんであるカミムスビのお社があり、後者の近くにはお父さんであるタカミムスビのお社があるんです。

必ず、片親とセットって言うのが、なんか不思議ですが、興味深いですね。
天神多久頭魂神社から、車で5分ほどの場所に、お母さん、カミムスビのお社・神御魂神社があります。

こちらも杜の中、鬱蒼と茂る草を押しのけて進むと、現れます。

めちゃくちゃ、素朴!
鳥居には手書きで神社名が書かれてますし、お社も、普通のおうちのよう。
しかし、気配はとても濃厚なので、鳥居の中に入らずに遥拝して、失礼しました。この濃厚な気配、沖縄の御嶽にそっくりですよ!

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑭ワタツミ信仰の聖母子と、八幡信仰の聖母子の習合なのでは……?


その四、対馬国一宮・木坂海神(きさかかいじん)神社

仁位を出発してさらに北上すると、対馬西海岸の中心に三根湾があり、その北側に「木坂」という里があります。里の北側には「伊豆山」という神山があり、その山腹に「海神神社」が鎮座しています。

私たちがたどり着いたのは、夕方ごろ。かなり暗くなっています。
周辺には人家もほとんど見えず、静まり返っていてなんかコワイ。ひとりだったらたぶんここでお参りして境内には入らなかったかもしれません(ビビり)。

本殿は見えませんけど、そんな遠くないだろうと、鳥居をくぐってみましたら…

あれっ?また鳥居が…
なんか全然本殿が見えませんよ(嫌な予感)。

薄暗い急坂な参道を、ただひたすら上り続けます。
これってまさに、山の気配です。これまでのお社は、みんな海の気配濃厚でしたが、このお社は間違いなく山の神さまの懐に入っていく感じがします。
ほんっと、一人じゃなくてよかった。

薄暗い参道は、きれいに整備されていますが、かなりの湿気でキノコ類の天国と化していました。とりあえず気を紛らわせようとキノコの写真撮ってみたりして…

ふお~!ようやく明るいところに出ましたよ!
鳥居の向こうに、建物が見えて、本当にホッとしました。
そして、もはやお馴染みの、この角度。
正面は絶対ずらしてきますよ。それにして激しい角度です。

そして、終に本殿に到達!
めちゃくちゃ立派です~~!!さすが一宮ですね。

「母と子」が主祭神のお社なのではないか

今でこそ、名前が「海神」になってますが、明治以前は八幡本宮、あるいは上津八幡宮と号していたそうで、社の古い由緒によると「神功皇后が新羅親征の帰途、幡(はた)八流を祀ったことに始まり、八幡宮創始の地と伝える」んだそうです。

しかし、延喜式の対馬のリストには「八幡宮」という名前はないので、おそらく明神大社「和多都美御子神社」に比定されると考えられるとのこと。つまり、神宮皇后ゆかりの八幡信仰とワタヅミ信仰の習合と考えてもいいのかな、と思います。
(それにしても立派!)

祭神についても、辞書など見ますと諸説ありますが、豊玉姫、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズのワタツミ系三柱、そこに応神天皇・神功皇后を合祀して、五柱とするのが正しいのではないかと、と永留先生が書かれてますが、やっぱりそれが一番しっくりきますね。

いずれにせよ、ここの信仰の中心は、「母と子」なんじゃないかな、と思われてなりません。豊玉姫(母)とウガヤフキアエズ(子)、神功皇后(母)と応神天皇(子)といった風に、お父さんの気配は大変希薄です。今風に言えばキャリアウーマンシングルマザーと息子、という感じです。

永留先生が、「和多都美御子神社」に比定するのも、おそらくそんなことをお考えだったからかな、と思います。

それにしても、山の気配が濃いお社です。
海神神社なのに……

……やっぱり、ここは、そもそも伊豆山がご神体のお社なんじゃないかな~……

伊豆とは、「厳(いづ)」、「齊(いつ)く」の意味で、聖なる美を意味します。つまり、この山はとても古い時代から信仰の対象で、まずそれがあって、そこにワタツミ信仰が乗り、さらに八幡信仰が乗っていったんじゃないかな~という気がします。
重層的な聖地なんじゃないかと。

山の神は女性である、とすることはよくありますので、そういう神さまの原型があり、そこに、ワタツミ系の聖母子と、八幡系の聖母子が習合したんじゃないかな、……とそんな気がします。
(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑬「海幸彦・山幸彦」神話に登場する「海宮」の痕跡


その参、仁位浦の和多都美神社〔明神大社比定地〕

阿麻氐留(あまてる)神社から、浅茅湾周囲を廻りこんで北側に行くと、「いよっ!本打ち!」とあいの手を入れたくなるように美しい「和多都美(ワタヅミ)神社」が現れます。
こちらの写真は、境内側から外を見て撮った写真です。
本当でしたら正面からとりたいとなりますと、海のほうから撮影しないといけません。

上の写真のように、海の中にある一番左が一の鳥居、二の鳥居、そして地上にある三の鳥居と連なっています。いかにも海の神さまのお社らしい、「海の参道」です。

いやああ、それにしても美しい場所!!
まるで湖かと見まごうような、穏やかで優しい海です。

ちょっとわかりづらくなってしまいますが、上の写真は四の鳥居を過ぎ、海の方を振り向いて撮った写真です。

鳥居から見て、左側に池、相撲の土俵があります。

この池がまたすごくてですね…

池の真ん中に、こんな三角鳥居があります。三角鳥居と言えば秦氏…という連想は、ちょっと置いといて(というのも最近設置されたとのことなので)、注目すべきは、この石なのです。

こちらの石は、「磯良(イソラ)エベス」と呼ばれる霊石で、「原初はこの石こそ、ご神体だったろう」と『日本の神々』で、対馬史研究の泰斗・永留久恵先生が言っておられます。

岩肌には亀裂が縦横に生じていて、まるで鱗のように見え、まさに海の神のお社のご神体にふさわしい神秘的な石ですね。
そして「イソラ」と聞いて、すぐに連想されるのは、海人族「安曇」氏ですね。安曇氏のご先祖はこのイソラ神だとされてます。

あの「海幸彦・山幸彦」物語の舞台

記紀などに紹介される、「海幸彦・山幸彦」という物語、覚えている方も多いと思います。

「海幸彦と山幸彦という兄弟の神がいた。ある日、お互いの猟具・漁具を交換して、山幸彦は釣りに行くものの、借りた釣り針をなくしてしまう。困り果てていると、塩椎神(しおつちのかみ)が現れ、教えに従って小舟に乗って海の神・大綿津見神(オオワタツミノカミ)の宮に行くと、歓迎される。オオワタツミの娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚し三年を過ごした後、なくした釣り針と、霊力のある玉を姫からもらい、地上へ帰る。その玉を用いて、兄・海幸彦を懲らしめ、忠誠を誓わせた」

ざっくりこんな内容でしたね。

この中に出てくる山幸彦は、「火遠理命(ホオリノミコト)」と言い、天照大神のお孫さんにあたります。
阿麻氐留神社の祭神「ホアカリ」さんは、天照大神の息子さんのひとりなので、ホオリさんからすると、伯父さんにあたる、という関係性です。

一般的に、この物語の舞台は、日向(宮崎)だとされていますが、ここ対馬にもその物語の痕跡がかなり濃厚に残されているのです。

五の鳥居をくぐると、本殿が見えてきます。
小ぶりながらも立派な作り。寛文年間に洪水で流されてしまったという伝承があるので、それ以降の造りなんでしょう。

神社というより、お寺さんのような雰囲気ですが、しかし、裏手にまわると…

このように、しっぱな高床式の本殿が現れます。
簡素で美しいですね。

和多都美神社の由緒によりますと、

「当社は海宮の古跡なり。上古、海神豊山彦命(トヨタマヒコノミコト)この地に宮殿を造りたまひ、お子に一男二女ありて、一男を穂高見命(ホタカミノミコト)と申し、二女を豊玉姫命(トヨタマヒメ)・玉依姫命(タマヨリビメ)と申す。
ある時、彦火火出見(ヒコホホデミ)命、うせし釣り針を得んと、上国より下りたまひ、この海宮に在すこと三年にして、終に豊玉姫を娶り配偶したまふ。良ありて釣り針を得、また上国に還りたもうがゆえに、宮蹟に配偶の二神を斎たてまつりて、和多都美神社と号す」

とあるので、こちらの主祭神は、ヒコホホデミとトヨタマヒメ夫婦ということでしょう。ちなみにこのヒコホホデミという名前は、「火遠理命(ホオリノミコト)」の別名です。そして、豊玉彦とはオオワタツミの別名となります。

つまり、この仁位浦に、オオワタツミこと、豊玉彦さんのお屋敷があったわけですね。そこに、天の国から王子様・ホオリさんが釣り針を探しにやってきて、そのままお屋敷の姫・豊玉姫さんと結婚し、三年も生活した、と。釣り針と海の宝物を持って天の国に帰ったので、そのお屋敷のあとを神社にして、夫婦を神さまとしてまつりました、……と、こういうことなわけですね。

そんなお話をこの現場で聞いていると、神さまの話をしているようで、神さまじゃないみたいな、実際に人間の物語としてあったんじゃないかな、というようなリアリティを感じてしまいます。

そのリアリティを裏付けるように、豊玉姫の陵とされる場所(磐座)が境内にあります。同様にオオワタツミ(豊玉彦)のお墓も境内にありますが、ホオリさんのお墓はありません。ホオリさんは、自分の国に帰ってしまったということを意味しているんでしょうか。

ちなみに、前述の「イソラ」神は、この二人の間の子どもであったとされていて、つまり「ウガヤフキアエズ」の別名かとも言われています。

余談ですが、こちらの宮司を代々努めてきた長岡家の世継ぎには、「背中に鱗があるという」(『日本の神々』より)そうで、イソラ、つまり海人族の本流の血脈、この地に脈々と伝えられたいたんじゃないか、という気がします。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑫対馬には、太陽神が二柱もいる!?


その二、阿麻氐留(あまてる)神社〔式内社比定〕

鶏知から国道を北上して間もなく、阿麻氐留神社に到着しました。車道の脇にちんまりと鎮座する可愛らしいお社ですが、なんと言っても名前がすごいです。「あまてる」ですからね。

「あまてる」と聞くと、ほとんどの人が「アマテラス」を連想するのではないでしょうか。皇祖神・天照大神(アマテラスオオミカミ)です。太陽の神さまですよね。

しかし、似てますが同じ神さまではない気がします。祖型のひとつかもしれませんが…

アマテル〔アマノヒノミタマ〕が、ホアカリだとすると…

こちらの神さまの名前は「天日神命(アマノヒノミタマノミコト)」と言います。
別名を「天照魂命(アマノテルミタマノミコト)」というそうですが、そこから手繰っていくと、どうもこの名前は、天孫族の一人、天火明命(アマノホアカリノミコト)の別名でもあるみたい。
この、ホアカリさんはややこしいこと言いますけど、天照大神の孫にあたります。そしてこの神さまが登場となると、ちょっと面白いことになっていくんです。

ホアカリさんは、古代の大族である「尾張」氏の祖であり、大阪の住吉神社の歴代宮司であった「津守」氏の祖であり、元伊勢と呼ばれる籠(この)神社の社家である海部(あまべ)氏の祖でもあります。
これまた、「海人族系の氏族」揃い踏みです!
たしかに太陽神ですけど、子孫たちを見ていくと、ど真ん中海人族ではありませんか。


急な石段をカクカク登っていくと、またしても階段の真正面ははずした形で、本殿が現れました。
こうなってくるともう、これが普通なんじゃないか、という気がしてきますね。
拝殿は、とても素朴な作りです。
正面にはなんとサッシの硝子戸が取り付けられてますよ。普通のおうちみたい。

しかし、横へ廻ると、こんな感じでちゃんと本殿があり、その前に拝殿がある、という神社らしい構成です。

もうひとつの太陽神・オヒデリ様

さて、今回はたずねることはできませんでしたが、対馬にはもう一柱、太陽の神さまがいらっしゃるんだそうです。

その名も「御日照(オヒデリ)」。
この神さまは、「社がなく、神社の形式から外れているために祭りも絶え、名前も廃れてしまった」(『日本の神々』より)とのことで、現在は厳原町阿連(あれ)地区の里にのみ、その祭祀が伝えられているんだそうです。とても厳しい禁忌があるとのことで、私のような観光客にはうかがい知ることはむずかしいですが、何かそういうことも含めて、沖縄に残る太陽崇拝の祭祀を連想してしまいます。

ちなみに、どうも前者の「アマテル」は男神で、「オヒデリ」は女神のようなんですが、そのあたりも何かとても興味深い気がします。
(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑪住吉神社なのに、祭神はワタツミ系の不思議


その一、鶏知の住吉神社〔明神大社比定〕

対馬島のちょうど真ん中には、入り組んだ入り江と島からなる浅茅(あそう)湾があり、その南側の入り口といった位置に「鷄知(けち)」という集落があります。住吉神社はその集落に鎮座しています。

対馬の集落は、切り立った山の下に形成されているので、かなり密集した感じなのですが、このお社がある場所も、辿りつくまでの道が細くて、慣れない車で焦りまくりました。

とはいえ、どうにかたどり着くと大きく立派な鳥居があり、参道をぐいぐい歩いて行きます。屋根のある門をくぐりますと、お社が見えてきましたが……

……あ、やっぱり、参道の正面にお社がありませんよ。
しかもすごい角度。ううむ。これは、気のせいではありませんよね。万松院と全く同じ思想を感じます。やっぱり意図的にはずしてるんだよな……


いやもう、これはわかりやすい。
なんかよくわからないけど、くいっと真ん中から外す、それが対馬の寺社の作法なのか……。

住吉さんなのに、祭神は住吉三神ではないこの不思議

謎は深まるばかりですが、さらに謎が深まるのは、こちらは明神大社の住吉神社なのに、その主祭神が、住吉三神ではないということです。
住吉神社は、日本中にありますが、中でも有名なのは大阪の住吉大社と博多の住吉神社でしょうか(この二社はいずれも明神大です)。
「住吉社」と言えば、主祭神は住吉三神こと、底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) なのですが、鶏知の住吉神社は違います。
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、玉依毘売命(タマヨリビメノミコト)の三神です。

何だかこう神さまの名前を羅列されると、わけわからなくなるかもしれませんが、ものすごくざっくりご説明しますと

ウガヤフキアエズ→神武天皇の父
トヨタマヒメ →海神オオワタツミの娘。ウガヤフキアエズの母で、神武天皇祖母
タマヨリビメ →海神オオワタツミの娘。ウガヤフキアエズの叔母で妻。神武天皇母

となります。「海幸彦と山幸彦」のお話はご存じの方が多いと思いますが、その山幸彦が海の底に行って結ばれたお姫さまというのが、このトヨタマヒメ。そして二人の間の子が、ウガヤフキアエズなのですね。

そして、住吉三神はというと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)から戻って穢れを清めるために、海に入ったところ生まれた神々。有名なのは、神功皇后 の三韓遠征を促し、神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)は住吉三神の加護のおかげで三韓を平定し、無事帰還したという物語です。そのため、神功皇后も一緒にお祀りされることも多いらしく、「住吉大神」というとこの四神のことを言うこともあるようです。

しかし、こちらに祀られているのは、初代天皇である神武天皇のお父さんとお母さん、そして奥さん。神話上とはいえ13代の隔たりがあります。

また、ちょっと見方を変えますと、ウガヤフキアエズは天孫系ですが、女性二人は海人族の女性です。つまり、祭神の名前だけ見る限り、こちらは住吉神社というよりは、ワタツミ神社という内容ですよね。

ちなみに、住吉神社はもうひとつ鴨居瀬という集落にもあり、どうも最初の住吉神社はこちらのようで「元宮」と呼ばれるそうです。こちらには住吉三神が祀られているそうなので、なぜ新宮では祀られなくなってしまったんだろう、と素朴な疑問……。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑩対馬は神社だらけ!九州の三分の一の式内社が集中する場所


対馬島内には式内社が29社、そのうち明神大社がなんと6社もある!

私たちが知る『日本神話』とは、『古事記』や『日本書紀』の記載がベースになっているのですが、対馬に残る神社の神さまの名前や、言い伝えなどを読んでいると、ちょっとびっくりするくらい共通点があります。「共通点」というよりも、「祖型」といったほうがいいですね。よりプリミティブに感じる物語の断片が、たくさん残っているのです。

「延喜式(えんぎしき)」(平安時代に編纂された律令の施行細則、法令集みたいなもの。927年完成)には、「神名帳」が掲載されています。これは、当時の朝廷が重要視した全国の神社のリストで、このリストに名前があるものを「式内社」と呼び、社格のひとつになっています。(長い年月で消滅したものもあれば、確かなことが分からなくなったりもしているので、様々な状況証拠から「たぶんここがそう!」というとこを「比定地」としていることも多い)

つまり、「式内社」だということは、次のようなことを連想させるするわけです。
①927年の段階で、その神社があったことを史実として考えていい
②朝廷が無視できない力を持つ神社があり、氏族がそこにいたということ

そのなかに「明神大社」というのがあります。「明神大」と略されたりしますが、これは、式内社の中でも特に朝廷にとって重要だったお社ということなんですが、なんと対馬にはこの明神大のお社が、「6社」もあるのです。ちなみに式内社は29社で、九州全体(98社)の三分の一が集中しているというものすごさ。
しかも、『対馬神社ガイドブック』(対馬観光物産協会)によると、江戸時代初頭には島内に455社あったという記録があるそうです。現在はかなり減って130社だとのことですが、それにしたって多いです。

狙いは明神大社と、対馬独自の神・多久頭魂(タクズタマ)のお社

有名どころだけでもものすごい数になってしまうので、とりあえず今回は「明神大」のお社を重点的に参拝してみることにしました。対馬は、博多や釜山への航路の帰着港になっていて、ポイントになる港が南北に二つありますが、その厳原港と比田勝港の車による移動時間が、約二時間半かかります。

上の図では、オレンジの線を引いたところが「明神大」のお社。そして赤いチェックが今回参拝したい場所です。

対馬には、「タクズタマ」という神さまがいてとても重要。前述したように、対馬は『古事記』『日本書紀』に出てくる神々の祖型がみられると思われるのですが、この「タクズタマ」は記紀には出てきません。出てこないけども、タクズタマの両親とされる神さまたちは、めちゃくちゃ重要な神さまとして登場するのです。
しかも、タクズタマの両親とされる神々はタカミムスビ、カミムスビと言って日本神話だと性別がない「ヒトリガミ」とされている尊い神々なのですよ。なので、その二人の子だという説明を読んだ時、私は思わず目をむいてしまいました。
それは、ぜひとも拝観せねば、と気合を入れたのです。

そんなこんなで、厳原港でレンタカーを借りて、とにかく北へ。廻れるところからということで出発!

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑨宗氏の菩提寺で気づいた、とある「違和感」


そして対馬旅は、宗氏菩提寺「万松院」から始まった

そんなわけで、宗氏の菩提寺である「万松院」へやってきました。

立派な山門は、対馬藩二代目藩主・義成(よしなり)が創建した時(1615年)のものだそうです。
入口は、左手にあり、左手の入り口から入ります。

境内は、思ったよりもかなりコンパクトです。

建物と、山門の間がすごい狭い。
境内のレイアウト、土地もありそうだしもっと広くできる気がするんですけど…

「この凄まじい角度は、いったい……」

友人Kが呟きました。
確かに、門からのアプローチ、こんな角度。
角っ角っとなっちゃってますよ。

なんだろう、これ。スペースの問題でしょうか。建築家工夫しまくりの狭小住宅みたいなかくどって言うか。

……うーん、、やっぱおかしいですよね。
なんと言ってもここは島主の菩提寺です。スペース取り放題でしょう、普通。

そう言えば、入口のとこ、山門までのアプローチにも、やたら長い参道の割に、角度がありましたよ。

これ、これですよ。
濃いオレンジと、黄色で書いてみましたが、一度「角っ」となってますでしょ?

そいでもって、門から本堂へのアプローチも、この角度です。さらに激しく「角っ」となってます。

ひょっとして、これは、魔封じでしょうか。
うーん。それともスペースどりの問題……?

宗氏重代の墓所「御霊屋(おたまや)」へと

違和感を感じながらも、たまたまかもしれないしねえ、と呟き合いながらお詣り続行。

ちなみに、本堂は、明治時代の伯爵・宗重正公の寄進だそうで、シンプルで品の良い感じです。お詣りをしてから、お堂の左手に行くと、宗氏重代の墓所があります。

こ、これは、すごい。
本堂のコンパクトさに対して、このスケール感。石段が延々と続いています。

この時の気温、36度。
体感はもっと過酷な温度に感じるのは湿度のせいか……

それにしても広い。
実に広大です。
この石の階段の右わきには、藩主の側室や子供たちのお墓、階段を登り切って…、

さらにもう一段階段を上ると、大きなスギの木がドーンとあり、向かって左の正面の階段を上ると、ようやく藩主の墓所「御霊屋」があります。

上の写真が、御霊屋ですが、これでごく一部です。

すごいですよ!この広さ!
お寺さんの庫裡の大きさに比べて、この墓所の広さったら…

どう考えましても、こちらの墓所が主役。お寺さんは、そのお守りをするためのもの、という感じがとても強いです。
ちょっと矛盾した言い方かもしれませんけども、ものすごく神社っぽい。

例えば、米沢の上杉神社みたいに、歴代藩主の御霊がご神体で、神さまとしてお祀りしている、そんな場所に似ている気がします。
そういう意味ではほかの場所でも、ない話ではありません。しかしこの時感じた「違和感」はなかなかどうして。今回の旅にとってけっこう重要なポイントだったとあとあと気付くことになるのです。

(続く)

 

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑧宗氏はどうして「宗」なんでしょう?(…大胆にも妄想仮説)


惟宗(これむね)氏のルーツ〈秦氏〉を考えてみる

対馬を長らく統治した「宗氏」をさかのぼると、惟宗(これむね)氏に行きあたります。この「惟宗」と言う氏族は、秦(はた)氏系の氏族である、と辞書などに書いてあります。

そこで、「出た!秦氏!」と思わず浮足立ってしまうのは、歴史ファンとして仕方ないですよね。
秦氏と言えば、京都太秦(うずまさ)の…と思い浮かべる人も多いかと思います。『新撰姓氏録』などによれば、「秦の始皇帝の末裔で、百済からやってきた」とということですが、様々な説があるようです。でも私は、新羅系だろうな、と思っています。

――なぜならば。
秦氏の氏寺・太秦寺の仏像が、〈新羅系〉のお顔をしてるからです!(単純!)

数年前、韓国の仏像や仏塔を見て廻ったことがあるんですけども、その時に、慶州を訪ねて、仏国寺、石窟庵で8世紀の仏像のお顔を拝見した瞬間、「あっ」と腑に落ちちゃいました。ああ、秦氏は新羅系だわ、と。

それまでは、秦氏というのは百済系だというけれども、なんかちょっと違うよなあ、やっぱり朝鮮半島に移住した中国系氏族だからなのかしら…、なんて思っていたんですが、あ、やっぱ新羅系、と確信してしまったのです。

(写真:仏国寺大雄殿。文章と関係ないですけども、この石燈籠の素晴らしさと言ったらもう!見てるだけで興奮してしまうレベル)

(仏国寺でとにかく見るべきなのは、この多宝塔と…)

(写真:そして釈迦塔。この塔二基と石灯籠、および石造の構造物は774年創建当時のものですよ。新羅仏教美術最盛期のものですよ。そりゃもう、素晴らしすぎて石造美術ファンなら鼻血出ちゃいますよ)

 

何をもって美とするかは、固有の美意識そのもの

美しさに対する好みというのは、時代の趨勢・流行もありますが、本質的にその氏族(今風に言えば民族)の特徴が出やすいと思います。
特に仏像のお顔には、その美意識のすべてが注力されますから、明確に出るように思うのです。

石窟庵のお像・釈迦如来のお顔は、紛れもなく、太秦広隆寺 (こうりゅうじ)の有名な「弥勒菩薩半跏思唯像」のお顔の方向性だったんです。
写真では何度も見ていましたけど、そんな感覚は全くなかった。仏像を見るときに、こうしたことはよく起こります。写真ではなかなかこの「美の空気感」みたいなものは、感じられないんです。
やはり実際に拝観しないと分からないものなのかもしれません。

有名な秦河勝(かわかつ)が新羅仏教の信奉者であったことは、有名な話ですが、それからしても、やはり新羅系ですよね。信教のチョイスと美意識は、ルーツと密接に関係しているだろうと思うからです。

「海」を表わす言葉「ハタ」、「アマ」、「ウミ」

さて、この「秦」氏の「ハタ」。これはやっぱり、「海」のことを指してるんじゃないでしょうか。
古い日本語では、海を「ワタ」と言いました。海神の名のひとつに「ワタツミノカミ」があるように、「ワタ」は海のこと。朝鮮語の「パダ」とほぼ一緒ですね。

ちなみに、海を表わす古い言葉に「アマ」があります。「天」も「アマ」といいますが、ある瞬間に天と海の境が無くなるような体験をする海洋民族ならではの言葉遣いな気がしますね。
(写真:対馬の北部、千俵蒔山近くから臨む海。「天(アマ)」と「海(アマ)」の境目のあわいが美しい)

そういえば、今最も一般的な「海(ウミ)」はどうなんでしょう。いつから使われていたんでしょうか。

『国語大辞典』の用例を見てみますと、「宇美(ウミ)」として、古事記に登場しています。こちらも、「アマ」「ワタ」と同じくらい古い言葉のようですね。

しかし、アマとワタと決定的に違うと思われるのは、淡水も「ウミ」というところ。
『全文全訳古語辞典』には、「広く水をたたえている所。海洋のほか、湖・沼、大きな池などをもいう」とあります。
語源も、何だか果てしなくあるんですが、その中のひとつに「大水の意」というのがあります。なんとなくこのあたりが妥当なのかな、という感じですね。つまり、「ウミ」は、「水がたくさんある場所」のことを表現した言葉のような感じですね。
そう言えば、神さまの名前で「ウミ」とつく神さまはいましたっけ??
思いつかないですね……。

「惟宗」が、どうして「宗」氏になったのか

さて、その秦氏の一族である「惟宗」氏は、もともとは讃岐国に住む、法律に明るい一族だったそうです。
その惟宗氏が、鎌倉時代になって、九州の守護・少弐氏に使えるようになったのはなぜかはわかりませんが、いずれにせよ、「海」を通じて何か繋がっていくものがあったのかもしれません。

そこで、ですよ。

その「惟宗」氏が、文永の役には、「宗」氏と名乗っているのですが、なぜなんでしょう。一字の名字にしたのは、中国・朝鮮との外交上の利便性もあるのかな、と思いますけど、しかしなぜ「惟(これ)」氏じゃないのかな、……という素朴な疑問なのです。

例えば、藤原氏なら、中国風に名乗るときは「藤(とう)」氏ですもの。「原(げん)」でもいけますけど、あえて後ろの漢字はとらないんじゃないかな、と。

だのに、なぜ「惟」ではなく、後ろの漢字「宗」を採用したんでしょうか。

そもそも、もし本当の「惟宗」氏であれば、本姓は「秦」なんですから、そう名乗ればいいわけです。

#もっとも、その後、宗氏は「平」氏の末裔であると自称しますので、本姓の名乗りは「平」になっていきますけども……

そこで、ふと思っちゃうわけです。

この「宗」って、やっぱり「ムナカタ」氏の「ムネ」ってことなんじゃないのかな、って。

前回もお話ししましたが、1408年まで、宗氏の本拠地は宗像郡にありました。素直に考えて、やっぱり、宗氏は宗像氏の一族ですよね。

そうなると、本姓が秦氏である「惟宗」氏の名乗りもなんか怪しいな。
意味的にうまくはまるし、秦氏と宗像氏は関係も深いしって感じで名乗っちゃったのかもしれませんよね(中世ならではのあれ)。

ちなみに惟宗の「惟」の意味を調べてみますと

「……隹は鳥占(とりうら)。その神意を示すことを唯といい、神意をはかることを惟といい……」

とあります。そんな意味の言葉を「宗」の前にくっつけてると、なんだかやけに意味深で、ちょうどよすぎる感じになります。「ムナカタの神の神意をはかる」、そんな意味からしても、いい名乗りです。

妄想全開ですが、この仮説、けっこう面白い線ではないでしょうか。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑦絶海に現れる山島「対馬」。領主・宗氏とムナカタの深い関係とは……


博多はとにかくおいしいですよね!
宗像大社で濃厚な時間を過ごすことができ、すっかり満足しつつ、これからの旅がより濃ゆい旅になりそうだな…と期待に胸躍らせながら、博多に戻ります。

そして友人Kと合流。

友人Kは高校時代からの親友で、いろんなところに一緒に旅してきました。沖縄にドはまりするきっかけになった旅も、Kとの二人旅でした。面白がりセンスが近いので、普通の女友達ではなかなかオッケーしてもらえなさそうな場所でもたいがい「いいねえ!」と言ってくれます。今回も突然「対馬に行ってみたい」と言いだした私を、力強く受け止めてくれましたよ。ほんと心強いやつです。

夕ご飯は明日からの旅に備え、軽めにおうどん。「大地のうどん博多駅ちかてん」さんにてごぼてんうどんいただきました。ここのおうどんもてんぷらもめちゃくちゃ美味しかった!
武蔵野うどん圏の私としては、細かいことを言えばこしの強いうどんが好きではありますが、正直言ってうどんならなんでも好き。細かろうが柔らかかろうが、こしがあろうがなかろうが…。
博多のおうどんは、柔らかホワホワですが、こちらのおうどんは切りたて・ゆでたてで、柔らかいけどちょっとこしもあるという、なんとも言えない絶妙さ。お出汁も美味しいし、最高でした。ぜひまた行きたい。
ついつい盛り上がりたくなる博多の夜ですが、明日からの旅に備えて、早めに引き揚げて就寝しました。

絶海に突然現れる「山塊」
博多港から高速船(ジェットフォイル)に乗り、約二時間半。

途中、壱岐に一度停泊した時にも、「壱岐って大きい島だなあ」と驚いたんですけど、対馬が見えてきときに、思わず「おおおお!」と声を出してしまいました。

いきなり山がある!

そんな感じなんです。
対馬が大きな島であることは、知っていました。日本の離島としては、佐渡、奄美大島に続く第三位の大きさです。ここまで大きいと上陸してしまえば「島」感はほとんどないはずです。

そんな予想はしていたものの、実際に見ると、想像を大きく超えてきました。そこには突然「山塊」と言いたいような島が出現したのです。

「対馬は島土の89パーセントが山地」という情報も知ってはいたのですが、なんと言ったらいいんでしょう。想像以上の「山国」感だったのです。

港から中心地「厳原(いずはら)」地区を目指します。

港から見てもますます増していくこの「山」感。

変な言い方ですが、海なし県に生まれた身としては、その土地の属性が「海」なのか「山」なのかは、何かとても大きな違いがあると感じるのです。
離島というのは、圧倒的に「海」です。あの大きな佐渡島でも、やはり「海」の気配が濃厚な気がします。

しかし、この対馬は何か…ちょっと違う。気がする……。

「海」の気配がないわけはないのです。
しかし、「山」なのです。
……なんだこれ?

私たちは、そんな不思議な感覚について話し合いながら、とにかくまずはお腹を見たそう、ということで、厳原の中心にある「ふれあい処つしま」へと向かいました。

山、山言ってても、そりゃまずいただくのは、やはりお魚ですね!
地魚のお刺身の盛り合わせと、アナゴのフライの定食。お魚は奥から「スギ」「サザエ」「イカ」、「ヒラス」、「アナゴ」。どのお魚も、絶品!
アナゴのお刺身なんて初めていただきましたが、めちゃくちゃ美味しかった!ヒラメのエンガワみたいな感じ。アナゴのフライもふわっふわでもトロっと溶けちゃいます。対馬はアナゴの水揚げ量が日本一なんだそうですよ。なるほどなるほど…


「宗」氏の城下町、厳原を歩く
初日は、あまり無理せず厳原観光することになりました。お腹はいっぱいになって、パワーは充てんされたのですが、あまりにも暑い!

土地の人も、こんなに暑いことはめったにないですよ、と言ってましたが、本当に「やばい」暑さです。
ふれあい処つしまから歩いて間もなく、右手に金石城(かねいしじょう)の城壁が見えてきます。金石城は、1528年に宗氏14代・宗将盛(そうまさもり)が館を建立したことに始まり、対馬府中藩こと対馬藩第三代(宗氏22代)、宗義真(よしざね)が1669年櫓門を建立し、城郭として整備されました。天守閣はなかったようですね。
これがその櫓門!
平成2年の復元だそうですが、かっこいいですよね?!

さて、ここから5分ほど歩くと、宗氏の菩提寺である万松院があります。


意外と知らない「宗氏」の根源と宗像の関係
対馬と言えば、宗氏。
日本史で対馬が特にクローズアップされるときには、対馬の領主だった「宗氏」が必ずと言っていいほど出てきますね。しかしこの「宗氏」、意外なことに元々は対馬の人たちではありません。

宗氏は、いろいろな説があるようですが、『国史大辞典』をはじめ、おおどころの解説を読みますと、元は秦氏である惟宗(これむね)氏の末裔のように思われます。

とはいえ、その実在が確実とされている一番古い人物というのが、1274年(文永11)の元寇で戦死した資国(すけくに、助国とも)なんだそうです。思ったよりそんなに古くないんですよね。

この資国は、対馬国守護・地頭だった少弐(しょうに)氏の地頭代として、対馬の国府に居ましたが、そこに元の来襲があり(文永の役)、戦死しました。

助国の死後も、地頭代として対馬の経営にあたりましたが、南北朝末期になり、地頭代から守護職に昇格。北九州にも領地があり、また筑前国守護代も兼ねていたので、宗像郡に本拠地があったのですが、第8代の貞茂(さだしげ)が、1408年に対馬に本拠地を移したんだそうです。

おおお、ここで「宗像郡」!
出た~!!

本拠地にしていた、ということは、定かではありませんけど、宗氏はおそらくこの辺り出身の氏族と考えていいでしょう。
やっぱりいろいろ絡みますよ、ムナカタと対馬!

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】②「対馬」から「東アジア」を感じ、考えてみたい


九州と朝鮮半島の間に在る「対馬」

そして、もう一つ。
このあたりでどうしても気になっていた場所がありました。

九州島と朝鮮半島の間にある、「対馬」です。

距離からすれば、九州島よりも、朝鮮半島のほうが近い「対馬」。
対馬の北部からですと、釜山までほんの50キロしかはなれていないのです。博多港までは140キロほどだそうですから、その距離感の強弱はお分かりいただけるかと思います。

(写真:博多港から高速船で2時間15分。いよいよ姿を現した対馬は、唐突に目の前に立ちはだかるような急峻な山島でした)

 

『魏志倭人伝』でも、対馬国は「倭国のひとつ」だった

しかし、『後漢書倭伝』や有名な『魏志倭人伝(『三国志 魏書東夷伝(とういでん)』)』の時代から、対馬は「倭国」なのです。

ちなみに、『後漢書倭伝』には「倭の西北と境界をなす狗邪(くや)韓国から七千余里離れている」とあり、その後漢書を参考にかかれたと思われる『魏志倭人伝』には以下のように表現されています。

『倭人は帯方〔郡〕の東南大海の中に在り、山島によりて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずるところ三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を歴て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸・狗邪(くや)韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)のみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。』
*『三国志 魏書東夷伝』『日本大百科』掲載文を改定。〔 〕内は筆者による。

これを読むと、当時の対馬人がどう考えていたかは倭国側の史書が残っていないのでわかりませんが、少なくとも「後漢」や「魏」の人は、対馬は「倭国」だと考えていたということがわかります。これが当時の東アジア社会の共通認識だったと考えていいんじゃないかと思います。

しかし、本当に、とても不思議な気がします。
地理的には朝鮮半島のほうが圧倒的に近いのです。単純に考えたら近い方が親和性が高いような気がしてしまいます。でも、そんな単純な話ではないんですよね。これだけ離れているのに、「倭国」という認識があるということは、距離以外の何か理由があったと考えるべきでしょう。

(写真:対馬の博多側の玄関口・厳原港。島が大きすぎて、島という感じがしません!さすが!)


そして、宗像、対馬、壱岐へ旅立つ!

私は、実際にその場所~対馬~に立ってみたいと思いました。
対馬という場所に立ってみて、その地点から朝鮮半島や日本列島や中国大陸を考えてみたい。どう感じるのかを、確認してみたい、そんな気持ちに囚われたのです。

そうして、対馬について調べ始めました。
そうしましたら、この「対馬」という場所が、「日本」の文化や歴史にとって、とても大切な場所であるということがちょっとずつわかってきました。

そしてもう一つ一緒に、というのはなんですが、その対馬と九州島の間にある「壱岐」にもむくむくと興味が湧いてきました。「壱岐」も倭国の国のひとつとして、『魏志倭人伝』などに登場する由緒ある場所です。

宗像、そして対馬、壱岐。距離で言えば、宗像→壱岐→対馬なのですが、今回の旅では、「対馬」をメインに考えて、「宗像→対馬→壱岐」の順で巡ってきました。

(続く)