イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷⑤善光寺式板碑コンプリート!



イシブカツ
全国でも数基しかないデザインの板碑
さて、狛犬さんたちにくぎ付けだった私たちですが、本題の板碑を見なくちゃね、と我に帰りました。
本堂を出て歩いて5分ぐらい。寺務所というか、もう一つの大きな建物があるんですけど、そこに至るまでの一般道のすぐわきに…
板碑ありました!
「立派立派!いいかんじだねえ」
にっこりとうなづきあう石部二人組。

これが本日、かなりメインな位置づけの板碑です。
というのも、熊谷のこの区域に、このデザインの板碑が3基あるんですけど、全国的に見てもとても珍しいものなんです。

板碑には梵字だけで表す場合と、実際に仏像を彫り出す場合とありますが、こちらに描かれている、仏像のスタイルがちょっと特別なのです。こういうのを「善光寺式」と言い、仏像の世界でもこのようなスタイルが存在します。

さて、この「善光寺式」ですが、これは、長野にある大寺院「善光寺」のご本尊のかたち(スタイル)のこと。じつは、仏教公伝の伝説なのですが、このご本尊は「一光三尊阿弥陀如来」像と呼ばれ、日本で最古とされる仏像です。

昔日本史でならいましたよね。仏教が百済の聖明王より欽明天皇に初めてもたらされたってお話。「ごさんぱい」で538年、って暗記するやつです。(552年説もあります)
この時にもたらされた仏像が、この善光寺のご本尊だという言い伝えがあるのですね。実はこのご本尊は「絶対秘仏」なので、だれも見たことがないはずなのですが、これがそのスタイルだ、と伝わっているのが不思議ですね。とはいえ、古代からこれが「善光寺式」と言われてきたことは確かなのです。

んで、それがどういうものかと申しますと…善光寺式阿弥陀三尊像こ、こんなかんじです!
…はあはあ(息切れ)…。イラストにしてみたら難しかった(^^;)。いろいろ略しましたがざっくりこんな感じです。

まず、中央には阿弥陀如来さん、そしてその左右には脇侍の観音菩薩さんと勢至菩薩さんがいます。これは「三尊」といい、よく見る表現です。

では、善光寺式はどんな特徴があるかと申しますと、まずはその手のかたち〔印〕でしょうか。阿弥陀さんは左手をおろして、人差し指と中指をそろえた形(「刀印」)をしてます。そして菩薩さんたちは、胸の前で上下に手を合わせているような形(梵篋印)をしてます。

そして、仏さんたちが載ってる蓮台、普通は花弁があるお花の状態を台にした感じですが、花が散り終わって臼状になった蓮を台にしてます。

そして一番わかりやすいのは、三尊で一つの光背(後ろの光の部分)だということです。
善光寺式板碑ほら!確かに一つの光背の中に、三尊おさまってますよね?
ちなみに真ん中の阿弥陀さんの頭部の周りにあるものは、これは「飛天」または「化仏(化仏)」です。

斎藤実盛さんも善光寺信仰だった?
さて、それにしても何でこの熊谷のこの区域に、善光寺式仏像をレリーフした板碑が残されているのでしょうか。
鎌倉時代、善光寺は全国で崇敬されました。源頼朝や北条時宗も深く帰依しましたし、鎌倉新仏教の開祖たちも、こちらにお参りしています。宗派や主義を超えて崇敬されるのがこちらの特徴で、これは現在でも続いています。
#善光寺は、無宗派。天台宗と浄土宗両派でお祀りしている珍しいお寺です。

おそらく、熊谷のあたりでも、善光寺信仰を持つ武士がいたんでしょうね。こちらの板碑は、斎藤実盛さん創建の歓喜院の境内にありますから、斎藤さんちも善光寺信仰だったのかもしれません。

こちらの板碑、すごくいい感じです。仏さんのお顔はよくわからなくなっていますが、全体にまろやかな感じがして素敵です。鎌倉時代中期ごろの作と推測されています。

「あれ?なんかおかしいよ」
裏面を見ていた石造センパイが叫びました。板碑こちらが裏側。三つの文字が見えますが、「梵字」です。

「あれ??この梵字、「バク」?なんで?」

いぶかしむ石造センパイ。そうなんです。「バク」という梵字は釈迦如来を表します。この三文字は「釈迦三尊」を意味しているのです。

「表は阿弥陀三尊で、裏は釈迦三尊なんて珍しいよね」

普通は両面おなじですよね。なんでなんでしょう?帰宅してから調べてみましたが、「類例がない」と書かれていました。うーん。

せっかくだからコンプリートしたい
さて、謎は残しつつですが、時間的にもうちょっと見て廻れそうです。

調べてみましたら、このエリアであと二基、これと同じスタイルの板碑があることがわかりました。すごく珍しいものですから。あと二基見たらこのエリアでは「コンプリート」ですよ。そりゃ、みにいきますよね。

歓喜院から、車で10分ほど。

福寿院というお寺さんにやってきました。お寺さんと言っても無住寺のようですね。締め切った本堂と思しき建物と、墓地があります。
福寿院板碑ありましたありました!確かに一つの光背に三尊像です。
福寿院板碑ディテイルわかりにくいですが、菩薩さんたちの手の形、また宝冠のかたちがいかにも善光寺式です。

さてさて、もう一つでコンプリートですよ!!と騒ぐ私。
はっと気づくと、心なしか石造センパイが元気ない。

「……むとうさん、暑いね」

わあ、やっぱり暑さに体力奪われてる!
もう一つ、もう一つで今日は終わりですから!カキ氷食べましょうね!と励ましながら、急いで車に乗ります。

そしてまた約10分ほどのところ、能護寺さんです。
能護寺広々と広がる田園風景の中にぽつんと大きなお寺さん。こちらは何と創建は8世紀。行基菩薩が開創で、9世紀に空海さんが再建したとの縁起があるそうですよ。

20130722-37言葉少なになっていく石造センパイ。やばい、これは早く見つけないと!と焦る私。

すると、ありました!墓地の前あたり。ちょっと近くに寄れないので、ズームで写真を撮りました。ちょっとわかりにくいですが、こちらも、大きな光背がみえます。なるほど確かに善光寺式ですね。

しかし、日光が強すぎることもあるのか、よく見えません。……そしてじりじりと、暑い!

「石造センパイ、き、今日はもうこんなところでどうでしょうか」
「うん、むとうさん、今日はもうこれで終わりにしよう」

ヨレヨレなふたり。もう限界です。って言ってもまだ時間としては3時前で普段ならもう一つか二つ、となるところですけど、熊谷の暑さの前には敗北せざるを得ません。

あ~、もう無理~、もう限界だ~と念仏のように唱えながら、熊谷市街に戻り、かき氷屋さん「慈げん」さんへ。
和三盆+小豆あん美味しいかき氷「雪くま」で、どうにか生き返りました!

熊谷は本当に暑いです。石部もやっぱり真夏の熊谷は避けたほうがいいんじゃないか、と実感を持って思いました。「次回は春か秋にしましょうね」と語り合う二人…。

熊谷・深谷はまだまだ見るべきものがたくさんあります。ぜひまた近いうち訪れたいと誓い合う二人なのでした。

(終わり)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷④妻沼聖天で狛犬にはまる


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お昼ご飯はもちろん肉汁うどん!
さて、深谷で予想以上にアツイ体験をした私たち。もうすっかり正午を回っていました。
お昼には、もちろんうどん!あらかじめリサーチしておいしいと評判のお店「利休」で肉汁うどんをいただきました。
武蔵野うどん期待通りのうどんです。パワー倍増!ただ、病み上がりだったので、うどん並盛でお願いしたら、思ったより並盛が普通だった…
「もうちょっと盛りがよくてもペロリだったなあ」
と私。いや、実は、武蔵野うどん系のお店って、並盛でも相当な量なんですよ。ほかのお店ならこれは小盛りと言っても過言ではない…ような気がする。

「さすが、うどん好きは病み上がりでも変わらないようだね」
そういって石造センパイは妙に感心して微笑んでくれました。

「妻沼の聖天」さんへ
さて、美味しいうどんをいただいてすっかり元気になった私たちは、熊谷の北部にある「妻沼の聖天」さんへと向かいました。

こちらは、本殿が国宝に指定されたばかり。江戸時代の華麗な彫刻で有名なお寺です。ちなみに、これまた鎌倉時代の有名人「斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)」さんゆかりのお寺。
この人は、関東の地にありながら、最後まで平家への忠義を突き通した人で、義理人情に厚い勇猛な武士として高名でした。晩年、木曽義仲軍と戦って戦死した時。勇猛に戦った武士をだれかと確認するために兜を取ると、髪を黒く染めた老人で驚いた、というエピソードで有名。

それにしても、鎌倉武士の鑑ともいうべき人が、この辺りには多いですねえ。斎藤実盛さん、熊谷次郎直実さん、畠山重忠さん、そして深谷でご紹介した岡部六弥太さんも…

さて、この聖天さんですが、実盛さんが念持仏の聖天像(秘仏)をお祀りしたことをはじまりとし、その次男の方が出家し、お寺を開創したんだそうです。
#聖天さん、というのは「歓喜自在天」「大聖歓喜天」の略。仏教の神さまですが元はインドの神ガネーシャのことですね。
聖天山

立派ですね~。こちらの三門は江戸時代以降のものですが、重厚で美しいです。
本殿そして本殿。こちらが国宝です。
もうお分かりかと思いますが、こちらの本殿は、日光の東照宮みたいな方向性です。江戸時代中期の貴重な文化遺構としての国宝指定だったとのこと。

正直言って、あんまりキンキラしてるものは、ピンと来ない石部のふたり…。石造物が好きだと言ってるくらいですから、ね。キンキラとは無縁なのです。
本殿実は聖天さんにやってきたのは、境内にある板碑を見ることが目的なので、私たちにとってはそちらが主役です。しかし、やはり「ちゃんと本殿にお参りしてご挨拶するのも筋ってもんよね」ということでの御参りです。

いや、でもものすごい彫刻でしたよ!!
彫刻お好きな人は必見です。すさまじいものでした。

もちろん私たちも大変感心しましたが、しかし私たちが足を止めてもしまったのは…
獅子
おお!!??

獅子

なにこれ、この狛犬、っていうかお獅子めちゃくちゃ上手なんですけど!

阿形獅子

おおおお、阿形のお獅子も、素晴らしいんじゃないの??

阿形見てください、この見事な背中と尾っぽ。背骨と筋肉の表情!
背中この背中の筋肉のリアル感とまるみの表現、ただごとじゃありません。ものすごい上手ですし、また、この作者は動物が好きだったと思います。よく観察し、デッサンしてないとこうはなりませんよね。
背中いいですね~~。この佇まい、丸っとしててたまらないですね。

本当にこのお獅子は素晴らしいです!私がこれまでに見た狛犬中でも5本の指に入りますよ。特にこの背中の表現だけとればナンバー1と言ってもいいです。個人的ランキングですけどね。

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷③上杉さんもすごいです。


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南北朝時代の深谷もアツイ
さて、前回は、この深谷という地がいかに文化度高かったかについてアツく語ってしまいましたが、その流れは今回も続きます。

岡部さんの墓からこれまた車で10分ほどの至近距離に、国済寺という立派な禅宗のお寺があります。
国済寺三門

立派な三門ですね~。かっこいいです。
こちらの創建は1390年。今から600年ほど前ですね。時代としては南北朝時代です。前回ご紹介した、岡部六弥太さんが生きた時代から200年ほど経過しています。

国済寺

本堂も立派です。堂々としてますよね。残念ながら何度か火災に遭い、当初の建物ではないそうですけど、そのたたずまいは十分に残しているのではないでしょうか。

ところで、こちらのお寺を開創した人は、上杉憲英(うえすぎのりふさ)さんという武人なのですが、実はこの方のお父さんが、足利幕府を開いた足利尊氏の従弟さんなのです。

上杉氏というのは、もともと公家の家柄で、藤原氏の血筋なのですが、足利氏と縁戚関係を結んだりして土着し、武人化した一群。南北朝から戦国時代の長きにわたり、武人の名門としてその名を馳せていきました。

このお寺は、上杉憲英さんが、当時不穏な動きを見せていた新田氏を抑えるために、お父さんから派遣されて築城した、廰鼻和(こばなわ)城の南側に建てられました。

廰鼻和(こばなわ)上杉氏の菩提寺
さて、このお寺には上杉憲英さん以下、廰鼻和(こばなわ)上杉氏累代のお墓が残されています。ちなみに、当初憲英さんは「コバナワ上杉氏」と名乗っていたそうですが、その数代先の子孫から「深谷上杉氏」を名乗ったそうです。
深谷上杉氏累代の墓

これが、その累代の墓です。すみません、中央に見える白い影は石造センパイです。幽霊とかじゃないですから!ご心配なく!
#センパイが最初のご挨拶で手を合わせて、振り返ったところを撮ってしまいました。しかし全体写真はこの写真しかなかったので、先輩のお姿はぼかしてお届けしております。

さて、先輩のお姿で隠れてしまってますが、中央の覆屋のしたにある宝篋印塔が、憲英さんのお墓で、左右に並んでいるのが一族の墓標とのことです。こちらも立派ですね。きれいに清掃されて清々しい空気です。墓地ですけど、怖くないですよ!

上杉憲英墓

資料によりますと、時代が室町とのこと。なるほど、全体的にちょっと華奢で細身な宝篋印塔です。時代が室町とされている、ということは、本人が亡くなってからしばらくたって、供養塔として建造されたのかもしれませんね。

初めてみる墓石の形

上杉氏累代の墓

さて、そして、左側にあります累代の墓。

「…こういう形のものは初めて見るね」

と石造センパイ。確かに、こういう形のものを墓標として見るのは初めてです。祠のようなかたちですよ。

「祠っぽいですけど、奥行きが浅くて横長な感じがちょっと違いますよね。なんなんだろう…。よくあるものなんでしょうか」

思わず黙り込む二人。一年ほど前に、南会津村に行ったときにも、こんな石造物は見たことがあるような気がしますが…↓。
南会津村の石造物全然違った。祠ですよね。改めてみると。
ところが、こちらのものは、「家型の埴輪」に似ているような気がする…。

ナゾの石造物

さらに謎なのは、軸部、というか屋根の下の部分。幾何学模様にぬいてあるんですよね。こういうのをわざわざ開けるというのは、ひょっとしてこれ、中に灯心いれたりしたのかな?と思って、可能な範囲で覗き込みましたが、どうもそんな様子はない感じ…

ハート形の窓

「それにしても、これなんて、ハート形じゃん!」

石造センパイが興奮するのもよくわかります。実はこのハート形、私たちにとってとても馴染み深いものなのです。

ハート形といえば、朝鮮伝来の形で馬具飾りなどに好んで用いられ、日本でも古墳の副葬品などに散見される「心葉形(しんようがた)」を、想像してしまうのです。というのも、私たちの師匠、N先生もこの形を好まれて、さりげなく灯籠の意匠に用いられてました。なのでとても見覚えのあるものなのです。

実際、この深谷のあたりから熊谷、また群馬のあたりには古墳がたくさんありますし、そうしたところからこの意匠の馬具装飾などはかなり出ています。関係ないかもしれませんけど、なんか関係あったら面白いなあ。かなりな妄想ですけどもww。

それにしても、これ、いったい何というものなんでしょう。どなたかご存知の方、ぜひ教えてください!!

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷②岡部さん、すごいです。


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深谷が誇る鎌倉武士・岡部六弥太さん
さて、平忠度(たいらのただのり)さんの五輪塔の後は、やっぱり岡部六弥太(おかべろくやた)さんの五輪塔を見るべきですよね。車で行くと15分ほど。ずいぶん近くにあるんですねえ。

さて、岡部六弥太さんについて、ちょっとご紹介しておきましょう。

岡部六弥太忠澄さんは、鎌倉時代に活躍した人。鎌倉幕府を開いた源頼朝のお父さん・義朝の家来で、頼朝が平家打倒で挙兵した時に合流。すでにご紹介したとおり、一ノ谷の合戦では敵将:平忠度を討ち取って、武名を上げました。

「岡部さん」は、もともと有力御家人だったみたいです。

埼玉県中・北部のあたりには、熊谷次郎直実や、畠山重忠など、頼朝に仕えた大物御家人の本拠地が集中しています。「勢力を持っている」ということは、おそらくそこそこの経済基盤があったということです。深谷や熊谷のあたりは、すぐそばに荒川や利根川もありますし、豊かな農地があり、交易路もあります。遺跡や古墳もたくさんありますので、それこそ縄文のころから豊かな土地だったんでしょう。
そういう富の蓄積があったからこそ、鎌倉になって花開いた、と言えるんじゃないかと思います。

文化度の高さと富裕度は密接に関係してる
岡部さんもそんな状況の中で現れた富裕な御家人です。というか、私たちは彼のお墓である五輪塔を見て「富裕」だったに違いない、と思うに至ったのでした。
岡部六弥太墓地

こちらが、その岡部六弥太のお墓です!

なんだか妙に大きい、というか何基も五輪塔がありますよ。資料によりますと、岡部六弥太の父母、妻など一族の五輪塔6基が残ってるみたいです。
岡部六弥太墓この左側の削れちゃってるのが、六弥太さんの五輪塔だそうです(右側はお父さんの五輪塔)。なんでこんなに削れているかというと、お乳が出ないとき、また子宝を授かりたいときにこの五輪塔を削って飲むといい、という迷信があったんですって。なんでそんなことになったんだろう??ナゾです・・w
#ひょっとした六弥太さんは女性に優しい人だったのかもしれませんね。

また、この五輪塔は「凝灰岩」という、比較的やわらかい石でてきてるので、削りやすかったんだろうなと。ちなみに、地らの凝灰岩は、群馬県の天神山産だということがわかっています。美しい白色で、きめが細かく細工もしやすいそうです。いろんなところに運ばれて、供養塔などに好んで使われたんですって。

そして、この天神山は、あの名族・新田氏の領地にあります。新田氏の重要な交易品目だったんでしょうか。また、この石を大量に使って五輪塔を代々作っている岡部さんなので、きっと新田氏とも交流があったんだろうなあ、と想像されます。
岡部氏の墓そして、六弥太さんの左側にあるこちらは、奥さんの玉ノ井さんの五輪塔です。こちらは形もよく残ってますね。

それにしても美しい五輪塔です。写真だとちょっとわかりにくいですが、白地に赤茶の地層みたいな模様が入ってます。マーブル模様ってかんじです。形もとても洗練されてます。

じっと見つめていた石造センパイが、ほうっとため息をつきました。

「これを作った人、概念としての五輪塔の意味をちゃんと理解してて、なおかつ中央で作られている五輪塔をつぶさに見たことがあるんじゃないかな。でないと、こういうきれいな五輪塔は作れないと思うよ」

うんうん。確かにこのクオリティは半端ないなあ。
玉ノ井墓以前、国の重要文化財に指定されている東松山市の宝篋印塔を観に行った時も、そのあまりに洗練された美しい姿に驚きました。なぜこんな鄙の地にこれだけのものが?!と。

こういう洗練されたものがある、ということは、このあたりの当時の文化度を垣間見ることができます。そして冒頭にもお話ししましたが、文化度が高い、ということは経済的基盤がかなりしっかりあったはず=富裕なんじゃないかと。

たとえ、今は野原であったとしても、こういった石ものがあることで、そこに高度な文化があったことを確認できますね。この五輪塔を見る限り、当時の岡部氏の文化度の高さは相当なもんだったろう、と想像できます。

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷①「関東石もの」の聖地へ


イシブカツ
記念すべき第10回目
またまたちょっと久しぶりになってしまいましたイシブカツ。前回の「東京真ん中編」から、ふと気が付いたら二か月以上経過。油断なりませんねえ。

そんなこんなで、今回はなんと記念すべき10回目だったりするのです。イシブカツ、感動の10回目は、やはり「熊谷」ですよ!!
実は、石部が愛してやまない「板碑」の最古は熊谷市にあるんです。そして第一回イシブカツも熊谷巡礼から始めたのでした。まさに「聖地」と言って過言でない場所!!

しかし、熊谷といえば数年前日本最高気温をたたき出し、「あついぞ!熊谷」キャンペーンで有名です。何もこの暑いさなかに行かなくてもいいような…

「いや、だからこそ行く。暑い熊谷をあえて味わいたい!」

熊谷のやばい暑さを知ってひよる私に、石田石造(女)センパイがこぶしを振り上げる如く言い放ちました。そこまで言われちゃあ私もこぶしを振り上げざるを得ません。熱中症にならないように、せめてかき氷「雪くま」を食べるぞ!といつも以上にリキをいれてリサーチを開始。そして今回は、熊谷の北部と深谷エリアの石ものを見て廻ろう、と予定を立てました。

深谷エリアの石ものもアツイ!
熊谷は、平家物語でも有名な「熊谷次郎直実」の出身地ですし、有力鎌倉武士の地だというのはよくわかっていました。なので、鎌倉時代の立派な板碑がたくさんあるのはよくわかっていたんですけど、そのお隣の深谷市は盲点でした。石部の根本教典(?)である川勝先生の『日本石造美術事典』に掲載されていなかったことも大きな理由です。

調べてみますと、確かに板碑はあまりないですが、立派な五輪塔が数基あります。私たちはまず、その五輪塔を見て廻ることにしました。

まず訪れたのは、「平忠度(たいらのただのり)の墓」。深谷駅から車で5分ほど。歩いても15分くらいの清心寺境内にあります。
清心寺立派なお寺ですよね!……いや、実は私たち、深谷駅周辺に来てちょっと驚きました。ほんとなめててごめんなさい、というかんじなんですけど、神社やお寺が多く、しかもとても立派なんです。
さらに少し車を走らせていると、美しい小川がそこかしこを流れていて、水が豊かなことがわかります。こういう環境は、間違いなく「豊かな土地」ってやつです。熊谷もそうですけど、こういう土地に鎌倉時代有力ご家人がいたというのはとてもわかりやすい。納得の地勢です。
清心寺そしてきよぎよしく立派な本堂。ドドーンとしていて「武士!」ってかんじ。かっこいいですね。こちらのお寺は、室町時代、深谷を領していた深谷上杉氏の有力家臣だった岡谷氏創建だそうです。

平忠度さんと岡部六弥太さんの因縁
お寺の門をくぐってすぐ左にお目当ての五輪塔はありました。でも、本堂でまずはご挨拶…というわけで、お参りを済ませてから改めて入り口付近に戻ります。
平忠度の墓標はいこちら!
立派な看板もあります。「平忠度公墓」。

さて、この「平忠度」さんですが、どんな人と申しますと、平清盛の異母弟です。弟と言っても26歳も年下。紀伊半島の熊野で生まれ育った人らしい。

武人としても見事な人だったらしいですが、歌人としても有名だったそうで、一ノ谷の戦いで、源氏方のご家人、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)に討ち取られた時も、敵味方なくとても惜しまれたんですって。

実は、この五輪塔も「墓」となってますけど、実際には骨が入ってるわけではなく「供養塔」なのです。平忠度を打ち取った張本人である岡部六弥太が、その死を悼み、供養のために自分の領地の一番景色のよい場所に、この五輪塔を建てたんだそうですよ。いやあ、なんかいい話ですよね。
平忠度五輪塔こちらがその五輪塔です。火輪(笠)や水輪(丸い真ん中の部分)の様子を見るとそれほど古くなさそうに見えます。古くても鎌倉後期くらいじゃないかな…。市の文化財資料をみますと「鎌倉~室町」とあります。定かでないんですね。

この塔を建てたという岡部六弥太は、1197年(鎌倉初期)に亡くなってますので、時代が合わなくなっちゃいますね。ううむ。しかし、この塔は鎌倉初期まではいかないですよねえ。ううむ。

とはいえ、この塔のすっきりとさわやかな印象はいいかんじです。伝承にある「平忠度」の文武両道な人物像と、それを悼む武人・岡部六弥太の印象ととてもよく合ってます。

さて、そしてその横には、板碑もありましたよ。
板碑こちらは、深谷市指定文化財になっていますが、詳細不明。資料によると「鎌倉」とだけありますね。上部分が欠けてしまってますが、残っている蓮台の様子なんかを見ますと、キリッ&スパっなかっこいいかんじ。鎌倉中後期、かな~。ううう、わからない。
#どなたか、ご存知の方、ぜひ教えてください!!

(続く)

イシブカツvol.9 東京真ん中編⑤山縣さんちの石もの〔後篇〕(椿山荘)


イシブカツ


世紀の大発見

さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
般若寺燈籠

かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!

さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
般若寺の灯籠というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。

名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。

なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。

現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;

「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。

もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
東大寺大仏殿たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
秋篠寺こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。

奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。

いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。

「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。

般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。

いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
般若寺燈籠ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。

笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。

普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。

しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。

本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。獅子後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀と鳳凰孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。

「むとうさん、ここ、ここに注目!」
孔雀の脚石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。

「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」

なるほど!

確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。

「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」

なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。

それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。

ふほおおお。

ため息をつく石造センパイと私。

こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。

(終わり)

イシブカツvol.9 東京真ん中編④山縣さんちの石もの〔前篇〕(椿山荘)


イシブカツ
山縣有朋さんという人
大倉集古館から来た道を戻り、溜池山王駅から地下鉄で江戸川橋駅へ。

江戸川橋からは徒歩で椿山荘へ向かいます。
椿山荘は武蔵野台地の東縁上にあります。そして東京のど真ん中とは思えないような自然が今に残されている場所なんです。

古くからこの辺りには椿が群生していて、南北朝時代ごろまでは「つばきやま」と呼ばれていたそうです。1878年に明治の元勲・山縣有朋公爵がこの場所を購入し、自邸として「椿山荘」と名付け、その後藤田平八郎男爵に譲渡され、ホテルとして開業するに至りました。

山縣さんは、政治家で軍人。イメージとしては「妖怪」「フィクサー」という感じですけど、文化面ではお茶人としても高名です。
大変な趣味人で、特に作庭を好みました。京都の作庭家・植治(7代目小川治兵衛)さんと作り上げた明治の名庭「無鄰菴庭園」(京都)をはじめ、「古稀庵庭園」(小田原)と、今回ご紹介する「椿山荘庭園」の三つを「山縣三庭園」と呼ぶくらい、多くの庭を作っています。

近代主義的で自然主義的な、新時代の日本庭園
山縣さんの好みは「近代主義的で自然主義的な」庭園であったと言います。それまでの主流であった、抽象的な「わびさび」な世界ではなく、自然を自然としてあるがままに、写実主義的に心地よい空間を作りたい、というのが山縣さんの考えでした。

無鄰菴の造園について後年山縣さん自身が語った言葉というのが残されています。(以下『植治~7代目小川治兵衛』白幡洋三郎監修・京都通信社 から要約を抜粋)

「この庭園の主山は東山であり山麓にあるこの庭園では、滝も水も東山から出てきたようにデザインする必要があり、石の配置樹木の配植もおのずと決まってくる」

ほほ~~。すごい。コンセプトに揺るぎがないですよ。まさに写実主義です。
それにしても本職・軍事&政治家の彼が、こんなにも明確にデザインの意図を持っていたなんて、驚きます。相当な才能です。そして本当に造園が好きだったんでしょうね。
好きだからこそでしょうか、細かい具体的な部分にも考えをめぐらしています。

「滝の岩の間にシダを植え、ツツジを岩に付着するように植える。地被としては苔でなく芝を用いるとともに、樅・楓・葉桜を植栽の中心とする」

植栽にまで指示を出しています。すごいなあ。

以上の抜粋は無鄰菴についてのものですが、椿山荘も同じように山縣さんは取り組んだはず。椿山荘は小石川在住の作庭家・岩本勝五郎さんという人と一緒に作ったらしいのですが、この岩本さんに関する情報はちょっと見つけられませんでした。でも、仕上がりを見ると相当力のある、当時は有名な方だったことは間違いありません。

椿山荘も、山縣さん好みの、自然をダイレクトに取り入れた美しい庭園です。

石造美術のクオリティは東京ナンバーワン!
さて、そんな山縣さんのお庭です。石ものも素晴らしいものがたくさんあって突っ込みどころ満載。とてもじゃないけどあれですので、今回はご紹介するものを限らせていただいちゃいます。
織田有楽斎の層塔まずはこちら!
この十三層塔は、お茶人として高名な織田有楽斎(おだゆうらくさい)ゆかりの層塔です。
織田有楽斎さんは、織田信長の弟で、千利休のお弟子だった人(利休十哲の一人)。身近なところですと、東京の有楽町は、昔あのあたり有楽斎の屋敷があったので名づけられたんだそうですよ。
層塔そ、それにしても遠い~~
ちょっと前までは、丘の上にあり、ものすごい近くまで近づくことができたんですけど、最近庭園全体を修復したみたいで、なんだかえらい遠くに行ってしまいました。なので写真がうまく撮れません^^;。残念。

こちらの層塔は、一部寄せてあるみたい(パーツごとに時代が異なる)で、古い部分は鎌倉時代のものだそうです。
全体的に姿がよくて、品がありますね。
青面金剛像そして、こちら。「庚申塔」です。庚申塔は道教由来の「庚申待ち」が基になってたてられているものです。『日本石造美術辞典』(川勝政太郎著)を見てみましょう。

「庚申待・・・・・・庚申の日に夜寝ると、人間の体内にいる「三巳虫(さんしちゅう)」が抜けだして、帝釈天にその人の悪事を告げるというので、本尊を祀り寝ないで庚申待ちをするという民間信仰をいう」

そんなわけで、この日は村中みんな寝ないで勤行をしたり、お酒を飲んだりして過ごしたんだそうですよ。結構楽しそうですよね。

青面金剛
さて、こちらの方、名前を「青面金剛(しょうめんこんごう)」という仏教の神さまです。
庚申待ちではこちらをご本尊としたことが多かったみたい。

青面金剛さんは、もともと人の生気を吸い、血肉を食べ、病をはやらす悪神でしたが、太元明王に降伏してからは善神になり、逆にそういったことから人を守るようになったそうです。
それがいつの間にか、道教系の庚申待ちのご本尊になって民間で信仰されたわけですね。

こちらの青面さん、かなり好きです。
よく見ますと、手に蛇持ってたりして強面ですけど、全体の線がかわいいですよね。そしてきれいです。青みがかった石と相まってなんだかとってもいい感じ。関東っぽい。
こちらの庚申塔は、江戸時代初期ぐらいのもので、椿山荘が立つ前からこの場所に立っていたと考えられるんだそうです。まさにこの土地の守り神。そういう存在をちゃんとこの場所に残されてるのは、さすが山縣さん、わかってるなあ。

(続く)

 

イシブカツvol.9 東京真ん中編③大倉さんちの石もの(大倉集古館)


イシブカツ

あの ホテルオークラの一角に…
根津美術館から、表参道駅を経て溜池山王駅へ移動。溜池山王駅からアメリカ大使館の前を抜けてホテルオークラを目指します。

実は以前勤めていた会社が一瞬この界隈にあったので、この辺りはなんだか懐かしい思い出の地でもあります。アメリカ大使館の前はいつも重々しい雰囲気でね。会社の同僚がよく職務質問されてましたっけ(遠い目)…。

それはともかく、ホテルオークラの一角に、お目当ての大倉集古館はあります。
こちらは、日本で最古の私立美術館。大倉財閥の創設者である大倉喜八郎さんが設立した美術館です。

こちらの外観、なんというか…。ものすごくエキゾチックなんですよね。「外国人が考えた日本」みたいな雰囲気の外観。不思議な場所です。
大倉集古館こちらの設計、なんと伊東忠太さん!あの築地本願寺の建築家です。

あのあまりに振り切ったデザイン、日本というかアジア、みたいなダイナミックさはこちらのデザインにも健在。正直言ってベタベタです。こってりです。
大倉集古館前方の回廊にはこれでもかと仏像やら何やらが無造作に置かれています。手前の普賢菩薩、や如来坐像は清朝の仏像だそうですよ。
この無造作感がまたなんかアジアっぽい。バンコク博物館とかこんな感じです。

石ものは外に、無造作に
さて、今日の私たちは石部の人。当然(残念ながら?)館内には入りませんよ!
館内には、とってもいい感じの北魏時代の如来像(重文)もありますし、有名な国宝・普賢菩薩騎象像もあります。そのほかにも、絵巻物とかいろいろ要チェックなものもたくさんありますが、今回は、外にある層塔を狙い撃ちで見に来た、のであえて観ませんよお^^;。

さて、そんなわけで、石ものを見るだけでしたら入館料も必要ありません。リーズナブルです。
こちらにはさほど広くはない建物の周囲に、いろいろおいてあります。
かなり大胆な配置かなり限られたスペースにたくさん置かれてます。青銅器や焼き物の塔なんかもわらわらと。
その中で気になったのがこの手前の…
華表この謎の石もの。側面の線刻が可愛い!
後で調べてみましたらこれは「華表(かひょう)」というものだそうです。中国の建築様式で用いられる「標柱」(出入り口のところに置く目印みたいな柱)とのことですが、これはだいぶ背が低い。部分ってことでしょうか。

高麗時代初期の五重塔
さてさて。こちらで有名なのは高麗時代の石塔です。古い順で行きますと…
石塔まずはこちらの石塔。おおおお、かっこいい!!
大倉集古館の収蔵品図録『大倉集古館500選』によりますと、高麗時代初頭、10~11世紀ごろ、とあります。日本でいうと平安中期ごろ。藤原時代初期ぐらいの塔です。こちらはどっちかというと新羅系の仏塔のテイストですね。

新羅というと、5年ほど前にちょろりといった仏国寺(@現在の慶州)にある、こちらの塔、
仏国寺三層釈迦塔五層、三層の違いはありますけど、なんかちょっと空気感が似てませんか?
三層釈迦塔と呼ばれる塔で韓国の国宝です。時代はもっとさかのぼって新羅統一時代のものなので、大倉集古館の塔よりおそらく一・二世紀さかのぼりますけど…。

ううむ。これはいいですね。
三層釈迦塔まではいかないですけど、十分に風格のある美しい塔です。石塔ちょっとディテイル観てみますと、この塔がとても丁寧に作られていることがわかります。美しいですね。
石塔この笠、いいわ~~。すごいきれい!
反りもなだらかで、ふわっとしてます。品がありますね。いいですね~!

石造センパイもかなりお気に召したご様子。夢中で写真を撮ってます。

高麗中期の八角五重塔
八角五重塔
こちらは、もう少し時代が下って、高麗中期とあります。ネットでいろいろ検索してみますと、こちらの塔は現在のピョンヤンにあったもののようです。

この塔の特徴はやはり八角形だということと、基壇が連弁だということでしょうか。柔らかい感じのよく出た美しい連弁です。

でも、好みで言いますと、やっぱし前者の塔のすっきりした感じが好きかな~。

それにしても、これだけ素晴らしい石塔を日本にいながら見ることができるとは。しかも屋外にあるので無料!かなりお得です。

さて、そしていよいよ椿山荘へと向かいます。

大倉集古館
http://www.shukokan.org/
 

イシブカツvol.9 東京真ん中編②根津さんちの石もの(根津美術館)


イシブカツ

表参道の魂・根津美術館
表参道から歩いて7分ほどいった閑静な場所に、根津美術館はあります。このエリアは明治神宮もありますが、やはりこの根津美術館があることで、この土地の「品」を高めてる、と言ってもいいんじゃないでしょうか。こういう文化の懐があるというのはその土地の見えない基盤を作る気がするのです。

根津美美術館は、実業家でお茶人として高名でもあった根津喜八郎さんの私邸だったところです。私立の美術館ですけど、えええ!?っていうくらい良質な収蔵品をたくさんお持ちです。

特にこちらのお茶道具はすごい。焼き物は全くわかりませんが(すみません^^;)、こちらの青銅器コレクションは本当にため息が出るような素晴らしいものです。実は私は青銅器が大好きなので、それを観るためにも根津美術館を訪ねてしまうのですが、今回はそこじゃありません。なんといっても、イシブカツ!今日はお庭をじっくり拝観!

根津美術館さて、前回でもちらっとご紹介しましたが、まず入り口にこのセッティングです。

こちらは、根津美術館のサイトを見ると「月の石船」と名付けられているようです。ロマンティックどすな~。舟形の蹲踞(つくばい)を三日月に、後ろにある朝鮮燈籠の灯りを月光になぞらえた、とあります。ひゃ~!なんかかっこよすぎて照れくさいわ~!

とはいえ、この組み合わせは「お茶人である」ということを出自・軸にしていることを示しているような気がしてかっこいい。朝鮮燈籠というのは、朝鮮半島で造られた灯籠、ということですが、お茶人はこういった朝鮮由来の石造物を珍重しました。
おそらくこちらの灯籠は李氏朝鮮のころのもので、そんなに古くないと思いますが、軸部のあたりがステキです。

根津美術館のお庭、めっちゃ広いです
さて、そうして美しいアプローチを進み、入口で入館料をおさめ、館内に入ります。

現在は、『国宝・燕子花図屏風』展開催中。尾形光琳のあまりに有名な屏風は、本当に素晴らしいです。こちらのお話でもいくらでもかけてしまうので、端折りますが、ぜひ一度この季節に尋ねてみてください。というのも、この燕子花図をこの季節に出すというのにも意味があって……
リアル燕子花お庭の燕子花も満開なんですね~!
どうです、この趣向!さすが根津美術館です。

さて、こちらのお庭ですが、表参道のこの一等地にありえないわってくらい広いです。
高低差のある地形に大きな池(川のような感じ)を配し、そのところどころに由来のあるお茶室が4か所もしつらえてあります。
そのすべてに見立てがあり、見る位置でも風景が変わりますし、えらいこっちゃです。

これだけパターンがあると、石ものもたくさん必要です。そんなわけでいたるところに石ものが置かれています。

あったあった!!
正直言って、「う~ん…」と首をかしげるものもかなりあります。石造センパイの眉間も少々曇りがちです。
しかも、石ものにはよくあることなんですけど、置いてあるものにあんまり説明がないんですよね。なので、手探りな感じで鑑賞していきます。
層塔眉間を曇らせて、少々言葉少なだった石造センパイが、さっとカメラを取り出しました。
「これ、けっこういい、かも」
確かに何の説明もないので、ちょっと細かいことはわかりませんが、全体に品があっていいかんじ。部分的に寄せてるけど、けっこう古いかもしれません。
層塔軸部、四方仏が梵字で線刻されています。
彫りは浅めですけど、けっこういいかも。笠のところと軸のところなんて、大らかで品があります。室町ぐらいまではいくかなあ。

この層塔の出現で、私たちの機嫌はかなり↑。ちょっとほっとしました。

石仏そして、こちら!
こちらには説明板があります。平安末期~鎌倉初期、大分のあたりで造仏された、と。
大分といえば、磨崖仏で唯一の国宝「臼杵石仏」があります。時代もまさに同時期です。だいぶ雰囲気違いますけど…
石仏とはいえ、ちょっといたずらっ子のような、きかんきの強い子供のような表情が可愛らしい。
「如来像」とありますが、阿弥陀如来かなあ。

またそのすぐそばに変わった石仏発見。長い長い!(笑)
仏龕ぽい笠塔婆?
笠塔婆ですけど、軸部に地蔵菩薩のレリーフがあります。仏龕(ぶつがん)というべきかなあ。
お地蔵さん優しいお顔です。好きだなあ。それにしても細長い。こちらも結構古いんじゃないかな。

そして、さらなる珍品発見!
ナゾの石もの道の過度のところにぽつんと置かれてます。こういうの、初めて見ますよ!
四角なんですけど、こちら側の側面にはおなじみ五輪塔が浮き彫りになっていて…
ナゾの石ものもういっぱうの面では、船形光背とともに仏さんが彫られています。大日如来かなあ、と思いますが、どうも印が智拳印でも法界定印もなく合掌に見えます。菩薩像でしょうか。ううむ。でも雰囲気的に大日如来な気がします。五輪塔とセットだし。

それにしても、この両方とも、すっごくかわいい!
五輪塔も仏さんもなんかとても優しい雰囲気で、いいなああ。。根津美術館の中で一番好きかも!
それにしてもこれは一体なんなんだろう…

層塔「おお!?」
石造センパイがまた素早くカメラを取り出しました。

あ、この層塔もいいかも!!相輪は明らかな後補ですけど、それ以外は結構ママかもしれませんよ。
四方仏「むとうさん、この四方仏、どれが誰だと思う?」

石造センパイ、鋭い質問。
私は早速iphoneで、コンパスアプリを呼び出しました。

四方仏、というのはその名の通り、東西南北それぞれの仏さんのことを指します。一般的には東が薬師如来、西が阿弥陀如来。南が釈迦如来で北が弥勒如来〔菩薩〕になるんです。それを、梵字で表したり実際に仏さんの姿を彫って示したりするんですけども。

その法則で行くと、手前に見えているのが薬師さん。左のほうがお釈迦さんのはず。
でも、コンパスの針で見る東西南北と比べますとけっこうずれてます。ちょっと違うかもしれません。難しいなあ。

いろいろありすぎて少々混乱
そんなこんなで、根津美術館終了。
こちらではご紹介できませんが、とにかくありとあらゆる石造物がせめぎあってました。
とにかく数が多くて、あくまでも素人目ですけど、かなりの玉石混合な気が…^^;。詳しい方と一緒に一度解説付きで見学したいなあ、と思いました。

「一度、師匠と一緒に廻りたいね」

石造センパイのいうように、私たちの石の師匠・N先生と一緒廻ったら、もっと勘所がわかって味わい深いかもしれません。
いやあ、やっぱり庭の石ものって難しいですわ!

さて、次は大倉集古館へと向かいます。

(続く)

イシブカツvol.9 東京真ん中編①エライ人元邸宅ツアー


イシブカツ
天候に弱いイシブカツ
実にお久しぶりの、イシブカツです!
石部のメイン活動ですが、冬季は寒さに弱い私たちにとって、心理的圧迫感がかなりありましてですね。石田石造(女)センパイがめっちゃクチャ忙しかった、ということも大きな理由ですが、無理をしてでも…とならなかったのは、正直いって気候の件、これは看過できない問題です。

だってだって。
石部のフィールド、ってものすごい露天なんですよ。絶えず露天なんですよ。

石もの(石造物)ってたいがい外にありますでしょ? しかも山裾とか、お寺の端っことか、墓場とかにあるわけです。もうどうにも避けようがない、自然の脅威にさらされているのです。

そんなわけで、冬はもちろん、実は夏もものすごくきついのです。炎天下の中をひたすらじりじり石ものを観る、というのはまあそりゃあもう大変なあれですよ。

…って、いきなり言い訳から入ってしまいましたが、それはさておき、今はベストシーズンなわけです!

現金な私たちは、ちょっと肩慣らし?に東京23区内の石ものを見て廻ることに決めました。

東京の石ものの法則
さて、東京特に23区内で石ものを見る場合、行くところはかなり限られてしまいます。
もちろん板碑などの石ものや、江戸時代の石仏などの石ものや墓石などはありますが、比較的古くて、専門家の方々が「見たほうがいい」と言われるような石ものは、その多くが明治以降に移動されてきたものなのです。

これまでイシブカツでは、埼玉県の板碑を多く訪ねてはご紹介してきました。それというのも、板碑はもともと建立された場所の近くに、そのままの目的で置かれている、ということが多いんです。それが大きな魅力なんですね。本来あるべき場所にある、というのは何となくそれだけでパワフルな何かを温存しているような気がします。
意外と石ものは、移動されちゃうことが多いので、その「本来の場所にある」というのはとても価値のあることだなあ、と思うんですね。

というのも、石ものは、室町以降のお茶人文化と非常に密接に関係しているのです。特に戦国期末期以降のお茶道では、茶室を設け、庭を設け、その空間全部を主がプロデュースして客をもてなします。
そこで「石」は非常に重要なファクターだったのです。
例えば入口から待合室にいたるまでのアプローチ、敷石や庭の景物が必要です。沓脱石といった実用的な石ものも必要ですね。
ここでその人のセンスが問われてくるわけです。目に入るものすべてに意味があるのがお茶道だと思われますが、それは石ものにもあてはまることです。

私たちの印象ですと、例えば石灯籠というと、連想するのはお庭じゃないでしょうか。でも、実は石灯籠というのは、もともとお寺の中に作られた献灯するための器具です。あくまでも仏さんに奉納する明かりをともすものなんですね。本来庭に置くものではないのです。

しかし、お茶人は、茶庭に「世界」を作り上げるために、景物としてお寺におかれていた灯籠を庭にもってきておきました。
そうして時代を経るうちに、庭に石灯籠を置く、というのは何となく当たり前のことになっていったというわけなのです。

明治以降、東京が日本の首都としてなった時、明治の元勲と呼ばれる人たちや実業家がたくさん邸宅を建てました。「明治維新」はその名の通り、それまでの上流階級ではない人たちがたくさんえらくなりました。以前は、足軽の家に過ぎない地方藩の藩士が大臣になったりするようなそんな時代です。

そういう人たちが、明治文化のパトロンになったわけですね。
趣味のいい人も悪い人もいたと思いますが、特徴としては、「やることがダイナミック」というかんじです。ドドーンとでかい、ドドーンと広い。
地方の有名寺院の、有名な木造三重塔や講堂をまるまる移築しちゃう。灯籠どころか、普通の大きな建物を、庭の景物として移築させちゃうんですから、…いちいちやることがでかい。そんな風潮の中で、石ものの「名物」もけっこう移されてきたんです。

そんなわけで、23区内にある石もので「これは」というものがある場所というのは、そんな風に出来上がったお庭にあることが多いのです。

東京石めぐり=元邸宅めぐり
そんなこんなで、23区内を回るとしたら、それはお庭めぐり、みたいなことになるわけです。

今回のメインは、なんといっても「椿山荘」。
椿山荘は、山縣有朋の邸宅だったんですが、その当時のお庭がわりときれいに残されています。こちらにある石ものは、なんといっても東京都下では一番のクオリティです。
私も石造センパイも何度も訪れていますが、今回改めて行ってみよう、ということになりました。こちらは何度訪れてもやっぱりあらためて感動しちゃうんですね。

そして、せっかくだから、とほかに二か所行くことにしました。根津美術館と大倉集古館です。
根津美術館

根津美術館(上の写真は入口にある水船と朝鮮燈籠)は、昭和初期の大実業家でお茶人としても有名な、鉄道王・根津嘉一郎さんの私邸だったところ。大倉集古館は、明治大正時代の大実業家の大倉喜八郎さんが私邸の一角に作った日本で最初の私立美術館です。

そうです。つまり、【偉い人元邸宅ツアー】ともいえるのが今回のコース!
一日でぐるりとまわります!

まずは、根津美術館からスタートです。

(続く)