muto の紹介

ありをりある.com編集長。アウトドア系出版社を経て、ありをる企画制作所を設立。編集者・ライターとして活動中。気になる分野は歴史・伝統文化・仏教・いろんな国のいろんな考え方など。好きな食べ物はあんことなす。趣味は三線弾きと剣道。

雑誌『BE-PAL』公式サイト「BE-PAL.NET」で、新連載「文化系アウトドアのススメ」をスタートしました!


私は、本サイト「ありをりある」で、密かに「文化系アウトドア」を標榜してきました。
それは、アウトドア系出版社に在籍していたということもありますが、実際に自分がやっていることに名前をつけたくなってひねり出した一つの概念だったんです。

しかし、特に大プッシュするでもなく、細々と書き連ねて早8年…。

……が、ようやく、皆さんに知ってもらえるチャンス到来!

雑誌『サライ』で大変お世話になっていた編集者Nさんが、アウトドア雑誌『BE-PAL』へ移籍され、このたびWEBの責任者になられて、「文化系アウトドアで書いてみない?」と、私にも声をかけてくださったのです。

Nさんは、ものすごい博識で、「文化」を絵にかいたようなお人なのですが、そんなNさんとお仕事するとしたら、やっぱそのテーマはこれしかないと、私も二つ返事でOK!

自分がやっていることを、そのまま発表してもいい場所を与えていただけて、本当に嬉しいです。張り切って楽しんで書いていきたいと思います。

ぜひ、お暇な時に覗いてみてくださいね~!

新連載 文化系アウトドアのススメ  Vol.1 大和葛城山の山麓をゆく

葛城山・吉野・金剛山~大和から河内へ。役行者を巡る旅~


11月初めに、葛城山、吉野、金剛山を旅してきました。

来年、修験道に関する本を書くことになったので、そのプレ取材です。
何ごともその場所に行かないと始まらない、という私のクセでありまして、今回も修験道と言えば、まずは役小角さんだろうということで、歴史上の役小角さんがいたであろう地を、歩いてきたんですね。

吉野の方は、度々訪ねてますが、葛城山と金剛山は初めてです。以前から、葛城山と金剛山は歩いてみたいと思っていたんですが、関東在住の身からしたら、なかなかに遠くて……。何かのついで、というわけにはいかない場所ですからね。
しかし、今回はお仕事でも必要だし!と、思い切って歩くことができました。

今回は、小角生誕の地、吉祥草寺を皮切りに、葛城山山頂→葛城山山麓(御所市)→吉野→金剛山山頂→金剛山山麓(河内長野市)というルート。

今回も、自分で日程設定しといてこう言うのなんですけど、かなり過酷でした。
頑張りました。
精いっぱい歩きました。
でも、時間が圧倒的に足りなかった!

それなりに、と思って、四泊五日取ったんですけど、甘かった……

しかし、とはいえ。

やはり実際に歩いてみないと分からないことがたくさんありました。
行ってよかったです。
(写真:葛城山山頂からのぞむ金剛山。綺麗でした!)

なぜ、「役小角」という超人があの場所に生まれ、修行し、活躍したのか。
日本文化の基盤である「山岳宗教」の大きな流れの突端が、なぜ、あの地なのか。

そんなことを考え始めるには、もってこいの取材ができたと思います。

今のところ、俄然私の中で盛り上がっているのは、「河内国」の存在感です。
大阪って、こういう側面からももっともっと全国に知られるべきすごい場所ですよ!!ほんとに!
メディアでこの手のことをご紹介するときに、土地勘もない関東の我々は、どうしても大和国からアプローチします。それも大切なことなんですが、しかしそれだけだと、かなりな片手落ちなんだなと、痛感しました。

このあたりのことは、来年の本にがっちり書きたいと思いますが、来月からもうちょっとライト目に、WEB版BE-PALさんでも、書かせていただくことになりそうです。

どうやって書こうかなあ、とちょっと迷い中です…^^;。

(むとう)

違うこと、尊重すること


「むとうさんは、あまり今の事に関わる仕事はしないほうがいい。疲れてしまうだろうから」

取材でお目にかかったとあるお坊さまが、私を一目見るなり、そんなことを言われました。まだ何もお話していないというのに、なんとまあ、ど真ん中なアドバイスをくださったな、この方は本物だな…

なんて、畏れ多くも思ったのですが、実はこのことは、私が生きていく上で最も重要な「生き抜くためのカギ」なのです。

ひとことで言うと、子どもの頃の私は「変な子」でした(今もか)。
子どもながらにもそう自覚していて、生きるためには「普通のこと」から距離を置かないとだめだ、と感じていました。いろんな過酷な体験があったこともありますが、先天的にそう感じていたような気がします。

この「普通のこと」というのは、私が苦手だと感じることでした。
例えば、「感情を表現すること」や、「誰かを好きになったり嫌いになったりすること」あるいは「誰かと競争すること」です。
この「普通のこと」を自分がうまくできないと痛感し、「普通に見えるように」できる限りコントロールしてやり過ごしていたんです。

この時の自分を、「傷ついた子供がやむにやまれず」と言えば、何だかきれいな話になりますけど、そんなにきれいな思いから選んだ方法でもなかったんですよね。かなり冷静に、「この方法が一番ましだ」と思って選びました。純粋というには遠過ぎる考え方です。

とにかく、私が思いのまま振る舞うと、必ず誰かがそれを気にして、意地悪をしたり、否定してきたりするので、めんどくさかったのです。それを回避しないと、私自身のパワーを維持できない、そう考えたのかなと思います。

そして私は、ある程度無難に生き抜くために、「擬態する」「気配を消す」「同調する」という技を手に入れました。

これって、つまり生き物の「生存戦略」ってやつですよね。

その後、そこそこうまく生き抜くことができ、まだ生きているので、その生存戦略は、まあまあ成功だったと思います。

そんな昔のことを思い出したのは、今話題の『新潮45』休刊に至る、諸々の動きに触発されたからです。

LGBTにまつわる様々なことに、私は何かを言えるような、そんな権利も準備もありません。冒頭のお坊さまのアドバイスを思えば、そして私の生存戦略を思えば、ここで何かを言うことは、あまり良くないことかもしれません。でも、ある意味禁を犯しても、やっぱり今回はひとこと言いたくなりました。

私も存在として、マイノリティであると思いながら生きてきたので、LGBTの皆さんはもちろん、私のようなものも、少しでも生きやすい世界になるといいのにな、と強く思っています。

ひとは、みんな違う。
一生懸命、それぞれが生きている。

そのことをもって、他の人の生も、自分の生も、同じように尊重すればいい。
そんなシンプルなことなのに、なぜ、否定するんだろう。
そして、なぜ否定されなくてはいけないのか。……そう思います。

そして、編集者、ライターのはしくれという立場からも、少しだけ。

「言論の自由は保障されるべきだ」という言説の是非は、正直言ってよくわかりません。だからと言ってすべてが是となるのは、私は到底「是」とは思えない。

少なくとも、私は、誰かが不幸せになる本は、つくりたくありません。

「この本と出会った人が、最後にちょっとだけ幸せになってくれますように」

そう願いながら、本をつくってきました。
拙いですから、うまくできたかどうか、それはわかりません。
でも、本を書いてくれた人も、取材させてくれた人も、読んでくれた人も。そして、デザインをしてくれた人、イラスト書いてくれた人、写真を撮ってくれた人、そして私自身も、幸せであるように。
そんな願いを込めて、本をつくっています。

しかし、もちろん自分が至らないところ、あるいは意図しないところで誰かを傷つけてしまうこともあるだろうと思います。そのことを思いながら、いつも不安に駆られます。
先日、私が自分のライティングにつまずいて弱音を吐いた時に、ある人がこういいました。

「確かにお前の文章は、みんなが喜ぶものじゃない。でも、学校でいったら、学年に一人か二人はかならずおるやろ。少ないかも知れへんけど、お前の言ってることをきいて救われたり、歓ぶやつは絶対おる。その人たちのために書けばいいやんか」

そうだった!

私個人ができることは、とても小さなこと。
世の中で見たらマイノリティ、少数派だろうけども、それでもどこかにいるそんな人たちのためにも、つまりそれは自分自身のためにも、全力で真心を込めること。

まず、このことが一番大切なんだと、改めて思いました。

もちろん、商業出版に携わる以上、ちゃんとした売り上げになるように全力を尽くすことも、重要な仕事です。しかしそれは、あくまでもその次に来ること。
このことを、もう一度、心に刻み、確認しました。

結局、私たちにとって大切なのは、「心」なのではないかと思います。
そして、自分に心があるように、相手や見えないどこかにいる誰かの「心」を想像すること。
そこにもう一度、立ちかえりたいと思います。

私の場合、そこを考え過ぎると、今度は動けなくなってしまうかもしれないので、ほどほどが大切。そこはこれまで培ってきた方法で、どうにかコントロールする必要はありますが……。

さて。

そんなわけで、今はこの目の前の仕事を、心を込めて精いっぱい頑張ります。

長々と、とりとめのない文章を読んでくださってありがとうございました。

(むとう)

即身仏という、究極の祈りの姿を巡る旅!!『新編 日本のミイラ仏をたずねて』/土方正志著(天夢人発行、山と溪谷社発売)


今年に入ってから、ワクワクしながら密教の本をつくっています。

大兄と慕う大先輩Hさんの深い懐をお借りする形で、今回は主に書き手として参画させていただいてます。まだはっきりとしたことはご報告できませんが、10月半ば発売になりそうです。

実はこの密教の本は、シリーズ企画の第一巻になります。

「日本の叡智を、もう一度知ろう」

そんな思いを込めたシリーズなんですが、企画者のKさんは、古巣ヤマケイの大先輩。
『山と溪谷』本誌の元編集長なので、山岳のことはもちろんめっちゃ詳しくてすごいお方なんですが、民俗学的アプローチでもって、Kさんでないとできない世界をずっと表現されてきた方です。

例えば、ヤマケイの近年のベストセラー『山怪』シリーズは、まさにKさんワールド。
これぞKさんの真骨頂。本当に面白いですよ!これ!!

現在、二巻まで出てますが、来月頭に三巻も発売されるそうです!今からめっちゃ楽しみ。

そんなKさんが、「天夢人(テムジン)」の社長に就任されて、以来、まさにKさん節全開の企画をバシバシと刊行されてるんですが、私が参画させていただくシリーズも、まさにそんな企画の一つなんですね。

そのシリーズを担当してくださっている編集者Tさんが編集された『新編 日本のミイラ仏を訪ねて』を頂戴しました。

やった~!!
Kさん、Tさん、ありがとうございます!!

1996年に発売されていた『日本のミイラ仏を訪ねて』の新編です!
22年前の単行本に、加筆修正し、再編集した形での、再発売。

実は私、高校時代の友人はよく覚えていると思うのですが、ミイラにはちょっと詳しい女子高生でした。
エジプト考古学を中心に、神話学にはまっていた小学生のころから、世界のミイラについては、かなり本を読んで勉強してましたので、どこにはどんな形でのミイラがあるか、その葬送方法(ミイラの造り方含め)というのは一通り摑んでおりました。
そのなかで、もちろん日本のミイラである「即身仏」にも、強い関心を寄せていたのです。さらにいうと、実家(埼玉)の近くの寺院でも、明治期に即身仏になろうとした方がいたという話を母から聞いたりしていたことも、大きかったかもしれません。

そういう見方をしていくと、じつは、高僧の遺体が祀られている例というのは、それほど特異なことではありません。
中国唐代には、「肉身像」つまりミイラ、そして遺体に麻布をまき、乾漆の胎(たい、芯のこと)にする「加漆肉身像」(『奈良美術の系譜』小杉一雄)、遺灰を漆の中に混ぜるという手法「遺灰(ゆいかい)像」がよく行われていましたし、
これは、「高僧は自ずとミイラになる」という思想が元(中国の屍解仙ベース?)になっているそうなのですが、日本も例外ではなかったということではないか、と個人的には思っています。
##生き人形のような形で高僧を保存し、礼拝するというのも、上座部仏教国であるタイでは、今でもよく見かけますね。これは中国ベースの発想じゃなさそうですけども

そうそう。そういえば。
以前、仏教美術写真の大家・O先生の担当をさせていただいているときに、仏教美術の研究者であるS先生と雑談をしていて、S先生がふと、

「鑑真和上像、あれは遺灰像ではないかと思うのですが、O先生、いかが思われますか」とおっしゃいました。

ちょっと記憶があいまいなのですが、確か、和上像修復の記録写真を、O先生のお父様が撮影していたというお話から、断面をご覧になってるんじゃないかと、S先生が想像されての発言だったように思うんですが…

「ええ、さように思います。少し遺灰らしきものが混ざっていたように見えたようです」

と、さらっと応えておられて、私は一人、「おおおおおお!!??」と叫び声をあげました。

やっぱ遺灰像なんだ~~!!?

私だけ、やたらと興奮しているのを見て、先生方は優しく微笑んでおられたことを思い出します。

……と、ちょっと話がずれてしまいましたが、

そんな私にとって、この本は、まさにど真ん中、大好物なテーマなのです。

実はまだ、まえがきしか読んでません。
これから、楽しみに、じっくり拝読しようと思います。わくわく。

(むとう)

おかげさまで累計68万部突破しました!大好評シリーズ第11巻発売!!『本所おけら長屋(十一)』/畠山健二著


編集のお手伝いをさせていただいている『本所おけら長屋』シリーズ、いよいよ満を持しての第11巻、発売になりました~!

ますます乗りに乗ってる畠山先生。
第11巻ももちろん、皆さんのご期待通りの泣いて笑って……先生ならではのサービス精神たっぷり全五話!どれもこれも素晴らしいお話ばかりになっておりますよ~~!

呑んだくれてすっかり仕事をしなくなった伝説の石工に、狛犬を彫らせるにはどうしたらいい?--万松の奮闘を描いた第一話「こまいぬ」。

女にもてる男になりたい一心で職を転々としているボンボンの弥太郎。次に憧れた職業はなんと岡っ引き!--第二話「といちて」

おけら長屋きってのいい女・お染には、人に言えない切ない過去があった……。第三話「ぬけがら」。

隠居した親方に昔の女を探してほしいと頼まれた八五郎。成り行きで心を座した男の子を預かることになって……。第四話「えんがわ」・第五話「らくがき」。

今回もどのお話もめちゃくちゃいいんですが、あえて個人的に一番ぐっと着てしまったお話をあげるとすれば、やはり第四話・第五話でしょうか(実はこの二話は、続きになっております)。

第四話で今回、小さな男の子が登場するんですけどもね。
八五郎さんと男の子のやり取りが、本当にいいんですよ~!

先生は、こういういとけない、けなげな存在を書かれたら、まさしく天下一品です!そして、その存在を全力で、時には身を捨ててでも守ろうとする大人たちがまた……。本当に素晴らしいのです。

人間っていいなあ。信じるってこういうことだよなあ。

そんなふうに思いながら、何度拝読しても、また涙ぐんでいる自分に少々呆れながら、編集させていただきました。

毎回同じことを申し上げてしまいますが、『おけら長屋』は、読む人によって一番好き!とおっしゃる作品が違います。
そして、読む時の心もちによってもかなり変わってきます。ぜひお手に取っていただいて、お好きなお話を探してみてくださいね!

そして、まだおけら長屋シリーズを読んだことがないという皆様。

「ちょっと疲れたな」と思ったら、『おけら長屋』を手に取ってみていただけたらと思います。そんな時に読んでいただきますと、
「うん。うん。人間捨てたもんじゃない。…明日は明日。また頑張ればいいよね」
そんなふうに、心の底から力が湧いてくるようなシリーズになっておりますよ~!!

ぜひぜひお手に取ってみてくださいね!

(むとう)

「野村萬斎さん、オリンピック開閉会式統括責任者に」というニュースを見て、がぜん盛り上がる期待



(上の写真は、日刊スポーツさんのニュース記事です)

野村萬斎さんがオリンピックの演出統括??と聞いて、
え~、萬斎さん、なんでまたそんな畑違いのめんどくさそうなことを…と、正直思ってました。
でも、今朝、たまたま記者会見を見て、おおおお!そうか!と、納得して、何だかワクワクしてきちゃいました。
 
「能・狂言師である自分からすると、そもそも「鎮魂再生」こそ芸能の主題である。今度のオリンピックでは、その日本の芸能の根源を、土台にしてあくまでも本質的に表現したい。見てすぐわかる和ではなく、おおもとの精神に、「和」を持って挑みたい」

要約すると、そんな意味のことをおっしゃってたんですが、
なんで野村萬斎さんほどの本筋の芸能の人が、なぜこの仕事を受けたのかわかった気がしました。

そうか、今度のオリンピックは、規模が大きいけど、「鎮魂祭」なんだ。

だからこそ取って付けたような「和テイスト」ではなく、本質的に正しいことをやらなくてはいけない、と。

萬斎さんはそれをやるには、いろんな作法や手法を知っている自分がやらなくてはと思われたんじゃないか。
 
確かに日本の芸能の根幹とは、「鎮魂」なのです。
神や怨霊を鎮める。神仏に感謝をささげる。凶事を祓い、喜事を招来する。
室町時代に誕生したお能や狂言は、それ以前の時代の芸能のエッセンスを集大成したものですから、テーマのほとんどが鎮魂です。萬斎さんは、そんな伝統のど真ん中に入る人です。
これ以上ないってくらい、本筋のことをよくご存じでしょう。
 
他のメンバーも、今を時めく才能あふれる方ばかりですが、その核になる「魂」を呼ぶ人が必要だった。
それを萬斎さんがやってくれるということなのでは!?
 
いやもう、これは、俄然楽しみになってきました!!

「百年生きる」と考えた時、現れ出るのは不安と希望。ついに到来した人類未踏の時代を生き抜く新シリーズ登場!/『人生百年時代の「こころ」と「体」の整え方』五木寛之著(PHP研究所)


「こころ」三部作に続き、新シリーズスタート!

五木先生のご本をお手伝いさせていただいて、今回でなんと6冊目!
思いがけずご一緒させていただくようになって、もう5年ほどになりますでしょうか。先生とお会いできるというだけでもラッキーですのに、こんなにお仕事ご一緒させていただくことになろうとは……。本当にラッキーとしか言いようがありません!

この前の三作は「こころ」シリーズとして、三冊立て続けに刊行していただきましたが、おかげさまで、先生の思いは読者の皆さんに受け入れていただけたと思います。たいへんご好評いただきました。

前作までは三部作、と最初から考えておりましたので、一区切り、という感じだったのですが、ありがたいことに、今回のご本から、新しいシリーズをスタートさせていただくことができました!!
写真ではちょっとわかりにくいかもしれませんが、判型は一回り大きくなって、少しやわらかいハードカバーになっています。

「人生百年時代」――宗教者も哲学者も想定していなかった未曾有の時代到来!

皆さんもご存じのように、このところ、「人生百年」という言葉が、表現というだけでなく、現実として、立ち現れてきています。

「長寿の時代、素晴らしい!」と思うのが半分、「そんなに長く生きるなんて不安だ」と思うのが半分といったところでしょうか。いや、ひょっとしたら、「不安だ」という思いの方が、半分以上、7・8割なのかもしれません。

でも、それも仕方のないことですよね。なにしろ、「人類史上初めての事態」に私たちは直面しているんですから…。

「今までの宗教や哲学も、100年生きるという想定では、作られていない。そうなると、新しい世界観、考え、そういったものが必要になってくるのかもしれないね」

五木先生は、そんなふうにいつも話してくださるんですが、いやもう、さすが先生。鋭いご指摘!

例えば、世界三大宗教で見ても、伝えられるところでは、ブッダは享年80ですし、ムハンマドは享年62、イエスは享年35・6です。

日本国内に目を移せば、おそらく宗教者の中でも、最も長く生きたのは親鸞さんでしょうか。平均寿命が50にも満たない鎌倉時代において数えで90歳ですよ。驚異的な長寿ですけど、それでも90歳です。

そう考えますと、親鸞さんも見たことがない領域に、ほとんどの人が到達してしまう、そんな時代ということですよ。やっぱり、嬉しいというよりは、不安です。

今日一日を生き切ること。その積み重なりが人生であること

もちろんこれまでも、100歳を超えて生きる人はいました。
でもそれは、めったにないことでしたから、おめでたいことでしたし、そう言う意味では、《長寿者》に対する接し方、あるいは《長寿者》として生きる振る舞い方の「フォーマット」のようなものはあったわけです。

しかしそれは、100歳生きるという人が珍しいから可能なのであって、それが当たり前となった場合、そのフォーマットは有効ではなくなるのではないか、……先生は以前からそんなことも言っておられたのですが、今回のご本を製作するにあたり、そのあたりのお話をじっくりお伺いする中で、先生がお感じになっている危機感というものが、ジワジワと迫ってくるような気がしました。

私は40代半ばですが、「これは本当にちゃんと考えていかないとまずい問題だ」と実感しました。本当にそういう時代に、自分が生きているということを、ようやく自覚したのです。

そうなってくると、不安が先に立ちます。
どうしよう、どうしたらいいんだろう、と。

しかし、そこで先生は穏やかにおっしゃいます。

「変化し続ける『生』を生きるということだよね。今日一日を生き切る。その積み重なりが人生になる。 そういうことが、ますます大切になってきたんじゃないかと思うよ」

先生がずっとおっしゃってきたことです。
確かにそうかもしれません。人生の長さ、短さは「結果」なんですよね。

「それから、半分くらいの段階で、例えば50歳、60歳でもう50年、40年をどう生きるか、考える時を持った方がいい。『余生』というような長さじゃないでしょう。昔の人の寿命を考えたら、もう一度生きるようなものだよね。その点が、これまでの人類とは決定的に違う点だと思う」

な、なるほど…。

「こころと体、両方だよね。どんなに健康な人でも、どこかしら不具合が出るだろうけど、それでも、工夫して整えて生きていく。病気になっても、『治ったその先』があるんだから。お医者さんに頼るだけじゃなく、自分で自分の整え方を工夫しないとね」

そんなお話から、本書の企画は立ち上がりました。

あまり頭でっかちになるよりも、まずは、一日を生き切るということが大切、という先生のお考えを基本として、先生が「実際やってきたこと」、「今実践していること」を中心に、先生お勧めの「こころと体のコンディションを整えるための工夫」をたくさん掲載しています。

目標は「どんな時も自分らしく生きられるように」でしょうか。
ぜひ、お手に取ってみてください!

最後になりますが、五木先生、そしていつも共に歩んでくださるN編集長様、今回もありがとうございました!
引き続きよろしくお願い申し上げます!

(むとう)

戦国武将と密教の話


はっと気が付いたらこちらの更新滞りまくり。
あいかわらず、元気に細々とお仕事しております!←近況報告です^^;

ここのところ戦国武将と密教の関わりについて一生懸命調べたり、考えたりしています。
これまでにも、戦国時代をテーマにした歴史小説のお手伝いをさせていただいたりはさせていただいたので、少なからず触れてきた世界ではありますが、今回の主役は合戦、情勢がメインテーマではなく、密教を軸とした戦国の風景ってかんじなので、まるで違います。

それほど分量もとれないので、コンパクトにまとめることになりますが、いやあ、本当にこの角度面白いですよ!

私は、師と仰いでいる、仏教史学者のN先生のスタンス「歴史は人を見るもの」に心から共感しています。先生が口癖のように言う「すべてにわけがある」という言葉にも…。100年前の人だろうが、1000年前の人だろうが、「人」です。思いや考えがあって、行動を起こすわけです。それは一見不条理な行為であったとしても、何かしら「わけ」があったのだろうと考えて想像するほうがいいと思います。
##もちろん理由なく殺人を繰り返すような性質の人もいますから、すべてがそうというわけではありませんけれども…
つまり、「こころ」の問題ですよね。
その時、その人は何を思ったのかを想像したい。このポイントが、私自身の探求心の行く先といってもいいかもしれません。

さて。
今回の原稿では、あまりにも有名な話で恐縮ですが、謙信さんと信玄さんにフォーカスすることにしようと思います。
この二人ほど、中世らしい密教、修験、陰陽道などを駆使していたことが、現代にもわかりやすく残っている武将はいないんじゃないかなと思うんですね。
彼らの信仰心が突出しているというよりも、彼らが偉大だったので、文献や何かがよく残っていてるということじゃないかと思います。当時の日本人、武人というのはおしなべてこういう精神世界にいたんじゃないでしょうか。

とはいえ、この二人は、専門家に依頼する側だけでなく、主体的に執り行うこともできたという点でやはり突出してます。
謙信が東密の阿闍梨位を得ている行者だったということは有名ですが、信玄は台密で大僧正位(権僧正とも)を「贈られて」いるとされ、一般的には名誉職的な意味合いを強調されることが多いのですが、実際にはかなりちゃんと本格だったようです。

実は今回は、学侶としても大変有名ながら、同時に祈祷僧としても高名でらっしゃる大変すごいお方に取材させていただくことができまして、同じ行者として、彼らがどんなかんじだったかをお聞きすることができました。

そして、軍記物や願文に出てくる呪法についても、なぜこの組み合わせか、なぜこの呪法(修法)をチョイスしたのかもお聞きしちゃいましたが、これがもう、目から鱗が落ちまくり!

本当に面白い取材でした。やっぱり、ど真ん中におられる方にお話を伺うと、全然違います。実は原稿だいぶ書き上げていたんですが、最初から書きなおすことにしました。それくらい面白いお話がたくさん伺えたんです。

それにしても、緊張しました~!
基本的にビビりなので、いつも緊張してますが、今回の緊張感はなんだか一味違うと言いますか。全部見透かされてしまうんじゃないかという恐ろしさと言いますか。

お会いするなり、

「…あんまり社会派的なことはやらないほうがいいと思いますよ。いろいろ気にしすぎて疲れてしまうだろうから」

と先生に言われて、アワアワしました。
そ、そ、その通りなんです。だから時事的なネタは避けて、できるだけ文化系のお仕事をしてます~とオロオロしながら申し上げました。
やっぱなんか見えてらっしゃったのかな、そうだよな…^^;

下の写真は、たまたま駅ビルで見つけたラーメン屋さんの名前が「空海」だったので、験担ぎですw。

 

 

京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!②乙訓寺


長岡京・乙訓寺(おとくにでら)

洛北の高雄山寺こと神護寺を含む「三尾」を尋ねた翌日、小雨の中を電車とバスを乗り継ぎ、乙訓寺へと向かいました。

JR京都駅から約10分ほどの長岡京駅で下車、バスでさらに15分ほど。「光明寺行」のバス、というのがゆかしいですね。
光明寺と言えば、浄土宗の開祖・法然上人さん縁のお寺。こちらもぜひ拝観したいところですが、なにしろ雨で足元も良くないので、今回はあきらめました。

バス停から、住宅街を10分ほど歩くと現れたのがこちら。

……あれ?

想像していたのより、だいぶコンパクトな…。
いえ、すみません、失礼な物言いになってしまいましたが、乙訓寺と言えば、例の早良(さわら)親王が幽閉されたお寺です。

早良親王は、桓武天皇の同母弟であり、皇太弟でしたが、無実の罪を着せられ、廃太子となり、非業の死を遂げられた方。
じつは、この早良親王という悲劇の人物が、後の京都(平安京)をつくりだしたと言っても過言ではないのです。憤死された後、桓武天皇の身の回りの大切な人が次々に亡くなり、親王の怨霊の祟りだと考えられました。
その祟りから逃れるために、長岡京を遷都し、平安京に遷ったとされています。まさに「御霊(ごりょう)」--日本史上特筆すべき怨霊のおひとりと言っていいでしょう。
当時の皇太子という高貴な容疑者を幽閉する場所として選ばれたのが、この乙訓寺なので、勝手に想像を膨らませてかなり大規模なお寺を想像してしまっていたのでした。

もう少しすると、ボタンが咲き乱れて多くの人が訪れるそうですが、この日は寒いし雨は降っているしで、ほとんど参拝客はいません。

左手に見える鳥居は八幡神のお社。右手奥が本堂になります。
じつは、この「八幡神」というのが、こちらのお寺のキモと言っていい存在なのです。

桓武天皇にまつわる怨霊と、鎮護国家の道場

ちなみに、空海さんは、神護寺の後、嵯峨天皇の勅命によりこの乙訓寺の別当になりました(811年)。「高雄山寺(神護寺)では不便なので」という理由だったらしいんですけど、それならもっと御所に近い場所のお寺でも良かったのでは?と素朴に思います。長岡京の故地にあるお寺なんて、ちょっと遠すぎませんか。
嵯峨天皇は、空海を別当に命じこの地を「鎮護国家の道場とした」そうなんですが、それはやはり、親王の怨霊鎮めと無関係ではなさそうです。
嵯峨天皇は、早良親王の甥にあたるのです。親王が憤死されたのは785年。嵯峨天皇は786年生まれですから、生前の交流はありえませんが、実母である藤原乙牟漏(おとむろ)皇后は、親王の祟りによって亡くなった(790年)と考えられていましたから、思いは切実だったことでしょう。

事件の時、空海さんは12歳でした。まだ故郷の讃岐国に居ましたが、この大事件を知らないはずがないのです。なぜなら、空海さんの母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)は、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(学問の師として使える役職)だったんですから、とても近い感覚でこの大事件について聞いていたはずです。
ちなみにこの伊予親王も悲劇の人。807年に無実の罪を着せられ自害して、のちに怨霊になっています。パターンは早良親王とほぼ一緒です。

いやもう、実に。

桓武天皇の周りは、怨霊だらけです。
そもそも、桓武天皇が皇位に就く際にも、異母弟で皇太子だった他部(おさべ)親王と、母・井上内親王も、これまたほぼ同じパターンで廃皇后・廃太子、憤死→怨霊化しています。

弘法大師が住まったお寺のご本尊は「合体大師」

こちらのご本尊は、その名も「合体大師」とおっしゃいます。
私はそのことを本田不二雄さんのご本『弘法大師 空海読本』(原書房)で初めて知りました。

「合体大師」??

なんですか、それは!?

改めてお寺のHPを拝見しますと…

ーー空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。(公式HPより引用)

むむむむ。

つまり、お顔は八幡大菩薩。肩から下は、弘法大師のお姿だと、そういうことですね?

しかも、八幡神の姿をつくろうとしているところに、本人が登場して「半分つくるよ」と言って、顔から下を彫り手であったはずの空海さんにしちゃった、ということですよ。なんと秘密めいて、暗示的なお話なんでしょうか。
(ご朱印も、もちろん「合体大師」です)

ちなみに、お像は秘仏ですが、今のご住職は一度だけ、阪神淡路大震災で被害を受けた本堂の修復のためにお像をご覧になったんだと、ご朱印を書いてくださった奥さまからうかがいました。
「お嫁に来てからは一度もあけていないから、私は拝観したことがないんですよ」
と奥さまがにっこり。今後は33年に一度のご開帳と決められたそうなので、生きてる間に一度拝観できそうでよかった、なんてお話ししました。気さくな優しい奥さまでした。

空海さんと八幡神の深いつながり

先にご紹介したご著書の中でも、本田さんは空海さんと八幡神の不思議なほど濃い関係について、考察されています。詳しくはぜひ本書をご覧いただきたいのですが、じっさい、あまりよくわかっていない私ではありますが、そもそも神護寺が「和気(わけ)氏」の氏寺であった時点で、「おや?」と思うわけです。

和気氏といえば、これまた古代史上大事件「道鏡事件」で大きな功績のあった、和気広虫(わけのひろむし)と和気清麻呂(きよまろ)姉弟のあの和気氏です。

道鏡事件をざっくりまとめれば、女帝・称徳天皇が、寵愛していた僧侶・弓削道鏡を天皇にしたいと考えたものの、宇佐神宮のご神託により、天皇にするのをあきらめた、という事件です。

この時、宇佐神宮に使いをして「道鏡を天皇にしてはいけません」というメッセージを持ち帰ったのが、和気清麻呂でした。

宇佐神宮というのは、八幡神のお社のことです。つまり、このご神託は八幡神が発したものでした。

ここでも、素朴な疑問が湧いてきませんか。

「誰を天皇にするかという大問題を、八幡神の意見で決めちゃうの?……なんで??」と。

もちろんこの疑問に関しては、学者の先生方がありとあらゆる仮説を唱えておられます。これまたざっくりとまとめてしまえば、天皇位を含め、権力をめぐる抗争が激しく行われている中、八幡神をトーテムとするグループのようなものがあり、何かこう、大きな力を持っていた一つのポイントだった、ということなんでしょう。
(八幡神は一般的に皇祖神とされますが、成り立ちからしてもともとは宇佐を中心とした地域を代表する尊格だろうと私は思っています)

ちなみに、和気氏は岡山のあたりの豪族で、別に八幡神をトーテムにする氏族ではありません。しかし、このご神託事件あたりから、どうも強い関係性を持つに至ったのではないか、と想像します。

そして、空海さんと八幡神とのつながりも、この和気氏とのつながりがから始まったんじゃないかな~、とこれまた勝手に想像してみたりして。
(上の写真は、神護寺にある和気清麻呂廟)

これまた何の根拠もない想像なのですが、私はこの清麻呂公と空海さんは、会ったことがあったんじゃないかと思うんです。

空海さんは、18歳の時(791年)に京の大学に入学しますが、その超エリートな道をあっさり捨てて、逐電(?)してしまいます。

この時、清麻呂さんは58歳。
清麻呂さんがなくなったのは、799年ですから、この頃は充分にお元気そうな年代です。

空海さんは大学をやめてから、入唐するまで10年余り、いくつか歴史的にわかっている事績はあるものの、はっきりとこういうことをしていたということが、わかっていません。各地の山野を巡り修行していた、東大寺や大安寺などの大寺にもなぜかしっかり出入りをして、経典を読み漁っていた……のかな?という感じ。

そんな時に、才気あふれる政治家・清麻呂翁に会ったりしてなかったかな??
いや、会っててもまったくおかしくないぞ!?

そんなご縁もあったから、唐から帰国し、京に入った時に、高雄山寺(神護寺)に入ったんじゃないのかな、と。

神護寺を出た後、住まったこの乙訓寺でも、和気氏との強い絆は続いていたのではないでしょうか。ご本尊の「合体大師」は、その象徴のような気がしてならないりません。

(むとう)

京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!①神護寺


空海さんの足跡をたどる旅へ

先週、約一週間かけて関西地方を行脚してきました。
今回のテーマは「特に空海さん(弘法大師)の『密教』を巡る」。

少々回りくどい話になりますが、人生を振り返りますと、
「日本文化の根っこに触りたい」というのが、どうやら私自身の変わらぬテーマなのですが、その日本文化の大きな根っこのひとつに「密教」があります。
私は、その大きな根源である『密教』を、仏像を通していつも遠くから(物陰に隠れるように)見てきました。

仏像を拝観するのに必要な、ごく初歩的な情報だけは一応知っていますが、あまりそれ以上突っ込まないようにしていた、というのが本当のところです。
そのあまりに深遠な世界ゆえに、腰が引けまくってました。及び腰になっていたのです。

しかし、仕事で密教に関わることをするかもしれなくなって、そうも言っていられなくなりました。

そこで思い立ったのは、まずは初歩の初歩。
密教を日本に持ってこられた弘法大師・空海上人の足跡をたどることでした。
時間の都合上、唐から帰国して京都に入ってから以降の代表的な関係深いお寺さんだけしかいけませんけど、まず現場に立ってみるというのが、やっぱり大事。そう考えました。

京都・神護寺からスタート

そんなわけで、スタートは京都の北西部にある神護寺さん。
神護寺さんは、和気氏の氏寺として成立しましたが、空海さんが唐から帰ってきたもののしばらく洛中に入らず、住まいしたお寺です。

こちらには、仏像ファンにとっても垂涎のお像がたくさんいらっしゃいますから、これまでも何度ともなく訪れています。

でも、今回は心の設定を「仏像拝観」から「空海さんの密教」に変更して、改めての拝観。面白いもので、そうなってくると見えてくる風景も何だか新鮮。目が行く場所もだいぶ違ってくるものです。

正直言って、この神護寺さんを拝観するだけでも、自分なりの小さな発見や気づきがたくさんありました。これこそまさに、現場にいってこそ感じる気づき。

実は、先週は本当にお天気が悪くて、神護寺に行く途中も曇天・時々雨。気温も低くて残念な感じだったんですが…

なんと、金堂(本堂)の前に進んだら、いきなり晴れました!!

能天気で楽天家の私は、「これはきっと歓迎してもらえてるってことだ!」といきなり気分アップ↑。

何しろ、この金堂の中には(そもそも)大好きな薬師如来像がいらっしゃるし、ね。好きな相手に受け入れたもらえたような、そんな気持ちになってたちまち幸せになり、「この旅は来てよかったってことなんだ!」とほくほく。

これは、企画成功もお祈りして、カワラケ投げるべし!ということで、お馴染みカワラケ投げ。目いっぱい厄除けします!

境内のいちばん奥の地蔵院まえから、錦雲峡と呼ばれる峡谷にこのカワラケを投げますよ。私は、なかなか上手に遠くまで飛ばせたので、茶屋の女将さんに褒めてもらえました。ほくほく。

そのあと、やっぱりせっかく来たからには…と、西明寺、高山寺と巡って、ホテルに戻りましたが、 やっぱり行ってみてよかった。

というのも、この風景。

金堂の後方の山上に、神護寺中興の祖でもある文覚上人のお墓があり、そこから見えるのは、京の街全体です。

なるほど。
この立地、大事ですよね。

山深いところになぜ?と思ってしまうのは、現代人の感覚かもしれません。

この場所からは、京都がよく見えますし、山をいくつか越えれば若狭の国、良港に恵まれた国際都市・小浜に出られます。
それに、素人目ではありますが、池の水の色を見ても土壌に石灰が多く含まれているように見受けられましたし、多くは赤土で鉄分も多そうな感じでした。
鉱物資源にも恵まれてる山系なのかもしれません。

こうしたことを、肌で感じられるのが、現場に立つことの意味でしょう。理屈じゃなくて染み入ってくるものがあります。

それにしても幸先のいいスタートでした。

(むとう)