イシブカツvol.9 東京真ん中編⑤山縣さんちの石もの〔後篇〕(椿山荘)

イシブカツ


世紀の大発見

さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
般若寺燈籠

かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!

さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
般若寺の灯籠というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。

名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。

なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。

現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;

「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。

もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
東大寺大仏殿たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
秋篠寺こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。

奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。

いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。

「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。

般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。

いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
般若寺燈籠ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。

笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。

普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。

しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。

本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。獅子後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀と鳳凰孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。

「むとうさん、ここ、ここに注目!」
孔雀の脚石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。

「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」

なるほど!

確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。

「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」

なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。

それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。

ふほおおお。

ため息をつく石造センパイと私。

こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。

(終わり)

イシブカツvol.9 東京真ん中編④山縣さんちの石もの〔前篇〕(椿山荘)

イシブカツ
山縣有朋さんという人
大倉集古館から来た道を戻り、溜池山王駅から地下鉄で江戸川橋駅へ。

江戸川橋からは徒歩で椿山荘へ向かいます。
椿山荘は武蔵野台地の東縁上にあります。そして東京のど真ん中とは思えないような自然が今に残されている場所なんです。

古くからこの辺りには椿が群生していて、南北朝時代ごろまでは「つばきやま」と呼ばれていたそうです。1878年に明治の元勲・山縣有朋公爵がこの場所を購入し、自邸として「椿山荘」と名付け、その後藤田平八郎男爵に譲渡され、ホテルとして開業するに至りました。

山縣さんは、政治家で軍人。イメージとしては「妖怪」「フィクサー」という感じですけど、文化面ではお茶人としても高名です。
大変な趣味人で、特に作庭を好みました。京都の作庭家・植治(7代目小川治兵衛)さんと作り上げた明治の名庭「無鄰菴庭園」(京都)をはじめ、「古稀庵庭園」(小田原)と、今回ご紹介する「椿山荘庭園」の三つを「山縣三庭園」と呼ぶくらい、多くの庭を作っています。

近代主義的で自然主義的な、新時代の日本庭園
山縣さんの好みは「近代主義的で自然主義的な」庭園であったと言います。それまでの主流であった、抽象的な「わびさび」な世界ではなく、自然を自然としてあるがままに、写実主義的に心地よい空間を作りたい、というのが山縣さんの考えでした。

無鄰菴の造園について後年山縣さん自身が語った言葉というのが残されています。(以下『植治~7代目小川治兵衛』白幡洋三郎監修・京都通信社 から要約を抜粋)

「この庭園の主山は東山であり山麓にあるこの庭園では、滝も水も東山から出てきたようにデザインする必要があり、石の配置樹木の配植もおのずと決まってくる」

ほほ~~。すごい。コンセプトに揺るぎがないですよ。まさに写実主義です。
それにしても本職・軍事&政治家の彼が、こんなにも明確にデザインの意図を持っていたなんて、驚きます。相当な才能です。そして本当に造園が好きだったんでしょうね。
好きだからこそでしょうか、細かい具体的な部分にも考えをめぐらしています。

「滝の岩の間にシダを植え、ツツジを岩に付着するように植える。地被としては苔でなく芝を用いるとともに、樅・楓・葉桜を植栽の中心とする」

植栽にまで指示を出しています。すごいなあ。

以上の抜粋は無鄰菴についてのものですが、椿山荘も同じように山縣さんは取り組んだはず。椿山荘は小石川在住の作庭家・岩本勝五郎さんという人と一緒に作ったらしいのですが、この岩本さんに関する情報はちょっと見つけられませんでした。でも、仕上がりを見ると相当力のある、当時は有名な方だったことは間違いありません。

椿山荘も、山縣さん好みの、自然をダイレクトに取り入れた美しい庭園です。

石造美術のクオリティは東京ナンバーワン!
さて、そんな山縣さんのお庭です。石ものも素晴らしいものがたくさんあって突っ込みどころ満載。とてもじゃないけどあれですので、今回はご紹介するものを限らせていただいちゃいます。
織田有楽斎の層塔まずはこちら!
この十三層塔は、お茶人として高名な織田有楽斎(おだゆうらくさい)ゆかりの層塔です。
織田有楽斎さんは、織田信長の弟で、千利休のお弟子だった人(利休十哲の一人)。身近なところですと、東京の有楽町は、昔あのあたり有楽斎の屋敷があったので名づけられたんだそうですよ。
層塔そ、それにしても遠い~~
ちょっと前までは、丘の上にあり、ものすごい近くまで近づくことができたんですけど、最近庭園全体を修復したみたいで、なんだかえらい遠くに行ってしまいました。なので写真がうまく撮れません^^;。残念。

こちらの層塔は、一部寄せてあるみたい(パーツごとに時代が異なる)で、古い部分は鎌倉時代のものだそうです。
全体的に姿がよくて、品がありますね。
青面金剛像そして、こちら。「庚申塔」です。庚申塔は道教由来の「庚申待ち」が基になってたてられているものです。『日本石造美術辞典』(川勝政太郎著)を見てみましょう。

「庚申待・・・・・・庚申の日に夜寝ると、人間の体内にいる「三巳虫(さんしちゅう)」が抜けだして、帝釈天にその人の悪事を告げるというので、本尊を祀り寝ないで庚申待ちをするという民間信仰をいう」

そんなわけで、この日は村中みんな寝ないで勤行をしたり、お酒を飲んだりして過ごしたんだそうですよ。結構楽しそうですよね。

青面金剛
さて、こちらの方、名前を「青面金剛(しょうめんこんごう)」という仏教の神さまです。
庚申待ちではこちらをご本尊としたことが多かったみたい。

青面金剛さんは、もともと人の生気を吸い、血肉を食べ、病をはやらす悪神でしたが、太元明王に降伏してからは善神になり、逆にそういったことから人を守るようになったそうです。
それがいつの間にか、道教系の庚申待ちのご本尊になって民間で信仰されたわけですね。

こちらの青面さん、かなり好きです。
よく見ますと、手に蛇持ってたりして強面ですけど、全体の線がかわいいですよね。そしてきれいです。青みがかった石と相まってなんだかとってもいい感じ。関東っぽい。
こちらの庚申塔は、江戸時代初期ぐらいのもので、椿山荘が立つ前からこの場所に立っていたと考えられるんだそうです。まさにこの土地の守り神。そういう存在をちゃんとこの場所に残されてるのは、さすが山縣さん、わかってるなあ。

(続く)

 

イシブカツvol.9 東京真ん中編①エライ人元邸宅ツアー

イシブカツ
天候に弱いイシブカツ
実にお久しぶりの、イシブカツです!
石部のメイン活動ですが、冬季は寒さに弱い私たちにとって、心理的圧迫感がかなりありましてですね。石田石造(女)センパイがめっちゃクチャ忙しかった、ということも大きな理由ですが、無理をしてでも…とならなかったのは、正直いって気候の件、これは看過できない問題です。

だってだって。
石部のフィールド、ってものすごい露天なんですよ。絶えず露天なんですよ。

石もの(石造物)ってたいがい外にありますでしょ? しかも山裾とか、お寺の端っことか、墓場とかにあるわけです。もうどうにも避けようがない、自然の脅威にさらされているのです。

そんなわけで、冬はもちろん、実は夏もものすごくきついのです。炎天下の中をひたすらじりじり石ものを観る、というのはまあそりゃあもう大変なあれですよ。

…って、いきなり言い訳から入ってしまいましたが、それはさておき、今はベストシーズンなわけです!

現金な私たちは、ちょっと肩慣らし?に東京23区内の石ものを見て廻ることに決めました。

東京の石ものの法則
さて、東京特に23区内で石ものを見る場合、行くところはかなり限られてしまいます。
もちろん板碑などの石ものや、江戸時代の石仏などの石ものや墓石などはありますが、比較的古くて、専門家の方々が「見たほうがいい」と言われるような石ものは、その多くが明治以降に移動されてきたものなのです。

これまでイシブカツでは、埼玉県の板碑を多く訪ねてはご紹介してきました。それというのも、板碑はもともと建立された場所の近くに、そのままの目的で置かれている、ということが多いんです。それが大きな魅力なんですね。本来あるべき場所にある、というのは何となくそれだけでパワフルな何かを温存しているような気がします。
意外と石ものは、移動されちゃうことが多いので、その「本来の場所にある」というのはとても価値のあることだなあ、と思うんですね。

というのも、石ものは、室町以降のお茶人文化と非常に密接に関係しているのです。特に戦国期末期以降のお茶道では、茶室を設け、庭を設け、その空間全部を主がプロデュースして客をもてなします。
そこで「石」は非常に重要なファクターだったのです。
例えば入口から待合室にいたるまでのアプローチ、敷石や庭の景物が必要です。沓脱石といった実用的な石ものも必要ですね。
ここでその人のセンスが問われてくるわけです。目に入るものすべてに意味があるのがお茶道だと思われますが、それは石ものにもあてはまることです。

私たちの印象ですと、例えば石灯籠というと、連想するのはお庭じゃないでしょうか。でも、実は石灯籠というのは、もともとお寺の中に作られた献灯するための器具です。あくまでも仏さんに奉納する明かりをともすものなんですね。本来庭に置くものではないのです。

しかし、お茶人は、茶庭に「世界」を作り上げるために、景物としてお寺におかれていた灯籠を庭にもってきておきました。
そうして時代を経るうちに、庭に石灯籠を置く、というのは何となく当たり前のことになっていったというわけなのです。

明治以降、東京が日本の首都としてなった時、明治の元勲と呼ばれる人たちや実業家がたくさん邸宅を建てました。「明治維新」はその名の通り、それまでの上流階級ではない人たちがたくさんえらくなりました。以前は、足軽の家に過ぎない地方藩の藩士が大臣になったりするようなそんな時代です。

そういう人たちが、明治文化のパトロンになったわけですね。
趣味のいい人も悪い人もいたと思いますが、特徴としては、「やることがダイナミック」というかんじです。ドドーンとでかい、ドドーンと広い。
地方の有名寺院の、有名な木造三重塔や講堂をまるまる移築しちゃう。灯籠どころか、普通の大きな建物を、庭の景物として移築させちゃうんですから、…いちいちやることがでかい。そんな風潮の中で、石ものの「名物」もけっこう移されてきたんです。

そんなわけで、23区内にある石もので「これは」というものがある場所というのは、そんな風に出来上がったお庭にあることが多いのです。

東京石めぐり=元邸宅めぐり
そんなこんなで、23区内を回るとしたら、それはお庭めぐり、みたいなことになるわけです。

今回のメインは、なんといっても「椿山荘」。
椿山荘は、山縣有朋の邸宅だったんですが、その当時のお庭がわりときれいに残されています。こちらにある石ものは、なんといっても東京都下では一番のクオリティです。
私も石造センパイも何度も訪れていますが、今回改めて行ってみよう、ということになりました。こちらは何度訪れてもやっぱりあらためて感動しちゃうんですね。

そして、せっかくだから、とほかに二か所行くことにしました。根津美術館と大倉集古館です。
根津美術館

根津美術館(上の写真は入口にある水船と朝鮮燈籠)は、昭和初期の大実業家でお茶人としても有名な、鉄道王・根津嘉一郎さんの私邸だったところ。大倉集古館は、明治大正時代の大実業家の大倉喜八郎さんが私邸の一角に作った日本で最初の私立美術館です。

そうです。つまり、【偉い人元邸宅ツアー】ともいえるのが今回のコース!
一日でぐるりとまわります!

まずは、根津美術館からスタートです。

(続く)