【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑮対馬で最も陽気を感じたお社・天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社〔式内社〕

対馬北部の山道を走っていると、にわかに立ち上がる「山梨」感

翌日、さらに北上し、ツシマヤマネコ保護で有名な佐護地区を目指します。その間の道程は、ほとんどが山道。道はよく整備されていますが、海はほとんど見えない島の真ん中をひたばしるので、いったいここはどこだっけ?という気持ちがふつふつと…

「なんかさ、山梨っぽくない?」

友人がポツリとつぶやきます。
わかる~~!そうなのよ、そう!
いきなり目を瞑ってここに連れてこられて、ここどこだって言われたら、山梨か、長野って答えるわ!…という、そんなかんじなのです。

もちろんこの地域に来たからには、
対馬野生生物保護センターで、ツシマヤマネコさんにお目にかかったり……

対州馬にも体験乗馬させてもらったり……

イキモン部活動も、存分に楽しんできましたが、そこはまたイキモンブ項目でご紹介できたらなということで、ここは先を急ぎます。

その五、天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社〔式内社〕と、神御魂(カミムスビ)神社〔式内社〕

佐護のあたりは、古くより対馬唯一と言っていいような穀倉地帯です。穀倉と言ってしまうと大きすぎますかね。いえ、でも水田が広がる唯一の場所とはいえるでしょう。

水田地帯を抜け、入り江に出るとそのほとりに、かわいらしいこんもりとした緑地帯が見えてきました。天神多久頭魂(アマノタクズタマ)神社です。

わああ…。
何とも言えず気持ちのいい場所です。
そして、すごく愛らしい場所……。

溜息をつきながら、たたずんでいると、何かの視線を感じました。
ふっとソテツの下に視線を向けると、

あ、なんかいる。…目があった!

茶色の毛がふっさふさの、やたらにかわいい生き物が私のほうを見つめていたのです。見つめ合ったのは一秒もなかったでしょうが、妙に長い時間がたったような気がします。

はっと気が付いたら、その生き物はいなくなっていました。おそらくイタチ、チョウセンイタチかなと思われますが、このお社に招き入れてくれたような気がして、ますます嬉しい気持ちになります。

タクズタマさんのお使いかな~、と口元をほころばせながら、さっそく…

こちらのお社のご神体は天道山で、社殿のない古い様式です。写真で二つ目の鳥居の奥に見える祭壇は、天道山を遥拝するために設けられたもので、「東面と北面に鳥居があり」と『日本の神々』にあるのですが…。

鳥居は三基建っていますが、上の写真の方角が東面しているのは確かにそうですが、下の写真が南面してるような…あれれ?

それはともかく。

遥拝所を中心に、両側に二基、積み石型の石塔があり、東面、南面を鳥居でもって結界してるこの様子は、まさに磐境(イワサカ)です。かっこいい!

この結界の中に入ると、なんとも爽やかで、軽やかな気が流れているように思います。今回の対馬で参拝したお社の中でも断トツに明るい!気持ちいい!

ただし、この祭壇がある場所の前までは、って感じですね。それより中は沖縄の御嶽(うたき)のような濃厚な気配がして、写真を撮ることも憚られる気がして、撮りませんでした(びびり)。

タクズタマと「天道信仰」

ところで、こちらの主祭神は「タクズタマ」という神さまなのですが、いったいどんな神さまなんでしょう。

実は、対馬には固有の神道「天道(てんどう)信仰」というのがありまして、タクズタマはこの天道信仰の象徴である「天道菩薩」と同体なのです。

この信仰は、神仏習合が盛んに行われた中世に生まれたものようですが、

「尊い生まれの女性が、太陽の光で受胎し、男の子・天道童子を出産。神童の誉れ高く、僧となり巫祝の術を覚え、上洛、帰郷する。33歳の時、体調不良をどうにかしたい天正天皇の要請を受け、再び上洛。見事平復させ、感謝した元正帝は、様々な恩賞と、宝野上人の称号を賜った…」

といったような、物語が語られるんですけども、極めて中世らしい物語かなと思います。

一方、タクズタマは、タカミムスビとカミムスビの子どもです。この二柱は先だっても少し書きましたが、日本神話では「ヒトリガミ」とされる尊い神々なんですけど、対馬では、夫婦神なんですね。

おそらくこちらが、古い神話として対馬に根付いていて、中世になってから、天道法師の物語と習合した、ということだと思います。

面白いのは、この夫婦神と子供神が一緒に祀られていないということ。

タクズタマを祀る特に重要な神社は、二つありまして、ひとつがこの「天神多久頭魂神社」で、もうひとつが、対馬の最南端の集落・豆酘(つつ)に鎮座する「多久頭魂神社」なんですが、前者の近くにはお母さんであるカミムスビのお社があり、後者の近くにはお父さんであるタカミムスビのお社があるんです。

必ず、片親とセットって言うのが、なんか不思議ですが、興味深いですね。
天神多久頭魂神社から、車で5分ほどの場所に、お母さん、カミムスビのお社・神御魂神社があります。

こちらも杜の中、鬱蒼と茂る草を押しのけて進むと、現れます。

めちゃくちゃ、素朴!
鳥居には手書きで神社名が書かれてますし、お社も、普通のおうちのよう。
しかし、気配はとても濃厚なので、鳥居の中に入らずに遥拝して、失礼しました。この濃厚な気配、沖縄の御嶽にそっくりですよ!

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑭ワタツミ信仰の聖母子と、八幡信仰の聖母子の習合なのでは……?

その四、対馬国一宮・木坂海神(きさかかいじん)神社

仁位を出発してさらに北上すると、対馬西海岸の中心に三根湾があり、その北側に「木坂」という里があります。里の北側には「伊豆山」という神山があり、その山腹に「海神神社」が鎮座しています。

私たちがたどり着いたのは、夕方ごろ。かなり暗くなっています。
周辺には人家もほとんど見えず、静まり返っていてなんかコワイ。ひとりだったらたぶんここでお参りして境内には入らなかったかもしれません(ビビり)。

本殿は見えませんけど、そんな遠くないだろうと、鳥居をくぐってみましたら…

あれっ?また鳥居が…
なんか全然本殿が見えませんよ(嫌な予感)。

薄暗い急坂な参道を、ただひたすら上り続けます。
これってまさに、山の気配です。これまでのお社は、みんな海の気配濃厚でしたが、このお社は間違いなく山の神さまの懐に入っていく感じがします。
ほんっと、一人じゃなくてよかった。

薄暗い参道は、きれいに整備されていますが、かなりの湿気でキノコ類の天国と化していました。とりあえず気を紛らわせようとキノコの写真撮ってみたりして…

ふお~!ようやく明るいところに出ましたよ!
鳥居の向こうに、建物が見えて、本当にホッとしました。
そして、もはやお馴染みの、この角度。
正面は絶対ずらしてきますよ。それにして激しい角度です。

そして、終に本殿に到達!
めちゃくちゃ立派です~~!!さすが一宮ですね。

「母と子」が主祭神のお社なのではないか

今でこそ、名前が「海神」になってますが、明治以前は八幡本宮、あるいは上津八幡宮と号していたそうで、社の古い由緒によると「神功皇后が新羅親征の帰途、幡(はた)八流を祀ったことに始まり、八幡宮創始の地と伝える」んだそうです。

しかし、延喜式の対馬のリストには「八幡宮」という名前はないので、おそらく明神大社「和多都美御子神社」に比定されると考えられるとのこと。つまり、神宮皇后ゆかりの八幡信仰とワタヅミ信仰の習合と考えてもいいのかな、と思います。
(それにしても立派!)

祭神についても、辞書など見ますと諸説ありますが、豊玉姫、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズのワタツミ系三柱、そこに応神天皇・神功皇后を合祀して、五柱とするのが正しいのではないかと、と永留先生が書かれてますが、やっぱりそれが一番しっくりきますね。

いずれにせよ、ここの信仰の中心は、「母と子」なんじゃないかな、と思われてなりません。豊玉姫(母)とウガヤフキアエズ(子)、神功皇后(母)と応神天皇(子)といった風に、お父さんの気配は大変希薄です。今風に言えばキャリアウーマンシングルマザーと息子、という感じです。

永留先生が、「和多都美御子神社」に比定するのも、おそらくそんなことをお考えだったからかな、と思います。

それにしても、山の気配が濃いお社です。
海神神社なのに……

……やっぱり、ここは、そもそも伊豆山がご神体のお社なんじゃないかな~……

伊豆とは、「厳(いづ)」、「齊(いつ)く」の意味で、聖なる美を意味します。つまり、この山はとても古い時代から信仰の対象で、まずそれがあって、そこにワタツミ信仰が乗り、さらに八幡信仰が乗っていったんじゃないかな~という気がします。
重層的な聖地なんじゃないかと。

山の神は女性である、とすることはよくありますので、そういう神さまの原型があり、そこに、ワタツミ系の聖母子と、八幡系の聖母子が習合したんじゃないかな、……とそんな気がします。
(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑬「海幸彦・山幸彦」神話に登場する「海宮」の痕跡

その参、仁位浦の和多都美神社〔明神大社比定地〕

阿麻氐留(あまてる)神社から、浅茅湾周囲を廻りこんで北側に行くと、「いよっ!本打ち!」とあいの手を入れたくなるように美しい「和多都美(ワタヅミ)神社」が現れます。
こちらの写真は、境内側から外を見て撮った写真です。
本当でしたら正面からとりたいとなりますと、海のほうから撮影しないといけません。

上の写真のように、海の中にある一番左が一の鳥居、二の鳥居、そして地上にある三の鳥居と連なっています。いかにも海の神さまのお社らしい、「海の参道」です。

いやああ、それにしても美しい場所!!
まるで湖かと見まごうような、穏やかで優しい海です。

ちょっとわかりづらくなってしまいますが、上の写真は四の鳥居を過ぎ、海の方を振り向いて撮った写真です。

鳥居から見て、左側に池、相撲の土俵があります。

この池がまたすごくてですね…

池の真ん中に、こんな三角鳥居があります。三角鳥居と言えば秦氏…という連想は、ちょっと置いといて(というのも最近設置されたとのことなので)、注目すべきは、この石なのです。

こちらの石は、「磯良(イソラ)エベス」と呼ばれる霊石で、「原初はこの石こそ、ご神体だったろう」と『日本の神々』で、対馬史研究の泰斗・永留久恵先生が言っておられます。

岩肌には亀裂が縦横に生じていて、まるで鱗のように見え、まさに海の神のお社のご神体にふさわしい神秘的な石ですね。
そして「イソラ」と聞いて、すぐに連想されるのは、海人族「安曇」氏ですね。安曇氏のご先祖はこのイソラ神だとされてます。

あの「海幸彦・山幸彦」物語の舞台

記紀などに紹介される、「海幸彦・山幸彦」という物語、覚えている方も多いと思います。

「海幸彦と山幸彦という兄弟の神がいた。ある日、お互いの猟具・漁具を交換して、山幸彦は釣りに行くものの、借りた釣り針をなくしてしまう。困り果てていると、塩椎神(しおつちのかみ)が現れ、教えに従って小舟に乗って海の神・大綿津見神(オオワタツミノカミ)の宮に行くと、歓迎される。オオワタツミの娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚し三年を過ごした後、なくした釣り針と、霊力のある玉を姫からもらい、地上へ帰る。その玉を用いて、兄・海幸彦を懲らしめ、忠誠を誓わせた」

ざっくりこんな内容でしたね。

この中に出てくる山幸彦は、「火遠理命(ホオリノミコト)」と言い、天照大神のお孫さんにあたります。
阿麻氐留神社の祭神「ホアカリ」さんは、天照大神の息子さんのひとりなので、ホオリさんからすると、伯父さんにあたる、という関係性です。

一般的に、この物語の舞台は、日向(宮崎)だとされていますが、ここ対馬にもその物語の痕跡がかなり濃厚に残されているのです。

五の鳥居をくぐると、本殿が見えてきます。
小ぶりながらも立派な作り。寛文年間に洪水で流されてしまったという伝承があるので、それ以降の造りなんでしょう。

神社というより、お寺さんのような雰囲気ですが、しかし、裏手にまわると…

このように、しっぱな高床式の本殿が現れます。
簡素で美しいですね。

和多都美神社の由緒によりますと、

「当社は海宮の古跡なり。上古、海神豊山彦命(トヨタマヒコノミコト)この地に宮殿を造りたまひ、お子に一男二女ありて、一男を穂高見命(ホタカミノミコト)と申し、二女を豊玉姫命(トヨタマヒメ)・玉依姫命(タマヨリビメ)と申す。
ある時、彦火火出見(ヒコホホデミ)命、うせし釣り針を得んと、上国より下りたまひ、この海宮に在すこと三年にして、終に豊玉姫を娶り配偶したまふ。良ありて釣り針を得、また上国に還りたもうがゆえに、宮蹟に配偶の二神を斎たてまつりて、和多都美神社と号す」

とあるので、こちらの主祭神は、ヒコホホデミとトヨタマヒメ夫婦ということでしょう。ちなみにこのヒコホホデミという名前は、「火遠理命(ホオリノミコト)」の別名です。そして、豊玉彦とはオオワタツミの別名となります。

つまり、この仁位浦に、オオワタツミこと、豊玉彦さんのお屋敷があったわけですね。そこに、天の国から王子様・ホオリさんが釣り針を探しにやってきて、そのままお屋敷の姫・豊玉姫さんと結婚し、三年も生活した、と。釣り針と海の宝物を持って天の国に帰ったので、そのお屋敷のあとを神社にして、夫婦を神さまとしてまつりました、……と、こういうことなわけですね。

そんなお話をこの現場で聞いていると、神さまの話をしているようで、神さまじゃないみたいな、実際に人間の物語としてあったんじゃないかな、というようなリアリティを感じてしまいます。

そのリアリティを裏付けるように、豊玉姫の陵とされる場所(磐座)が境内にあります。同様にオオワタツミ(豊玉彦)のお墓も境内にありますが、ホオリさんのお墓はありません。ホオリさんは、自分の国に帰ってしまったということを意味しているんでしょうか。

ちなみに、前述の「イソラ」神は、この二人の間の子どもであったとされていて、つまり「ウガヤフキアエズ」の別名かとも言われています。

余談ですが、こちらの宮司を代々努めてきた長岡家の世継ぎには、「背中に鱗があるという」(『日本の神々』より)そうで、イソラ、つまり海人族の本流の血脈、この地に脈々と伝えられたいたんじゃないか、という気がします。

(続く)