「校閲」と「校正」、そして編集者の仕事について

編集者にとって、最大の苦しみ

実は、〆切を守っていただけないという状況に苦しめられている日々です。

不安が夢の中までやってきて、追いかけられて崖から落ちる……みたいな夢を見て、目が覚める。そんなことを繰り返しています。

そんな時には、必ず読む本がこちら。

〆切を守れない作家の言い訳、締切や、締切を守らない作家への思いや考えを綴った編集者出身の作家さんの文章などが、これでもかとのっています。

私的には、ものすごく身につまされ、「ああ、こんなに有名な編集者でも、同じような苦労をされてるんだな」と癒されます。苦しんでるのは私だけじゃない、と。

それはともかく、この本は一般の皆さんにとっても、すごく面白い一冊だと思います。締め切りは誰にもありますものね。
また、「編集」というお仕事がどんなものかは、これを読んでいただくと、かなりわかるんじゃないかと思います。

私は編集者なんですけども……(汗)

そうそう。編集者と言えば、なんですけども。

出版業界で、ごく当たり前に使われている「校閲」「校正」という言葉、同業者でも、かなりあいまいに使っているんだな、とここ数年痛感しています。
「フリーの編集者」というのも、いまいちよくわからない、という同業者も結構いらっしゃるような気もしたりするのです。
というのも、どうも私のご説明がうまくないのか、最近、校閲のお仕事のご依頼があったりするんですよね。ちょっと前にもそんなご依頼があり…

「私は編集者なので、校閲はできませんよ??編集者としてお仕事を受ける、その際に校閲的なところまで踏み込んで丁寧にやります、ということでやってますけど…。それよりシンプルに校閲までできる校正者の方にお願いしたほうがいいのでは?」

そんな方を、ご紹介しましょうかと申し上げても、なんだかどうしても私に御用命な様子。ありがたいですが、私も困ってしまうというか……

「ううう。そしたら校閲者として仕事は受けられないです。しかし、校閲的な読み方を編集者がするという範囲で良ければ、一度読みましょうか」

と言ってお預かりしました。

校閲者、校正者のお仕事というのは、編集者とは職域が違うのです。
プロとして請け負うからには、責任が生じます。私は、編集者なので、校閲者としては仕事を受けるなんてことは、ちょっと差し出がましいというか…
「校閲的な読み方をする編集者」として仕事をお受けする、ならギリギリセーフ、と言いますか…

そんなわけでして。
正直、相当戸惑ってしまうので、一度整理させていただいたほうがいいかなと思いました。

校閲・校正者の職域と、編集者の職域

私自身は「フリーの編集者でライター」だと名乗らせていただいてます。キャリア的には単行本の編集者が一番多いので、やはり編集者という名乗りがメインです。

7年前、フリーになった時に、「自分が版元編集だったときに、フリー編集がしてくれたら本当に嬉しいとおもうこと」を考えてみました。

そこで、最近ではなかなか校正者がやってくれない、「校閲的な検証もしながら」丁寧な編集をします、という方針にしました。結果、歴史小説や時代小説のお仕事をコンスタントにいただけるようになったので、その方針は、結構喜んでいただけたのかな、と思います。

ところで、ここで皆さん「校閲と校正って何?何か違うの?」と思われる人は多いでしょう。

実は、これ、似て非なるものなのです。

ざっくり言いますと、

校正とは……一語一字、文字や文章を比べ合わせて、誤りを正すこと。

校閲とは……原稿の意味や内容を読み、事実確認を行うこと。

私が今お世話になっているプロの校正者さんは、校閲的な読み方までしてくださいます。しっかりとした技能を持っておられる、才能あふれたまさに「プロフェッショナル」。ちゃんと勉強されて、その職域についての「責」プラスαを果たしてくださるわけですね。

今の業界では、大きく言うと「校正者」がいて、その中に、「校正作業しかやらない」という人と、「校閲的なところまで踏み込んで読み、校正作業もする」という人がいる、というのが現状です。
後者のような方法をされる方は、今はとても少ない。ですから、敬意も込めて「校閲者」とお呼びすることもあるように思います。校正だけでなく、原典に当たり、事実確認までできる人。それはやはり、相当特別で貴重なスキルです。

編集者も原稿については校正的、校閲的な読み方をします。私は特に校閲的な読み方を重点的に行いますが、もう一人、専門職の皆さんに読んでもらうことで、さらに精度を上げたい、間違いを減らしたい、と考えているのです。編集者は、その貴重な指摘を見て、さらに確認し、必要なければその指摘を外し、あるいは追加の資料を付けたりしながら、著者にその旨をお伝えし、修正していただいたりします。

とはいえ、誤字脱字の類い、つまり校正的な指摘の精査は、編集者マターだと思うので、著者にわざわざ確認するまでもない、と考え、こちらで的確に修正するよう指示を書きこみます。

職域が違うので、ギャラの計算方法も違う

少々下世話な話ですが、ギャラについても少しふれちゃいますけども。

一字ずつ見ていくという職域の校正の場合、料金の発生が文字数で決まります。そういう意味では、ギャラの発生はクリアです。
文字の多い本ほど、たくさんギャラが発生しますし、読んだ回数だけギャラが発生します。労働の対価としてはとても明快。

一方、編集者のギャラは、もっとも不明瞭です。

どんなに手間がかかろうとも、著者都合、出版社都合でやり直しが生じて、当初予定していた日数の倍、行数がかかろうとも、編集費は同じ額です。「校正紙(ゲラ)」を、3回読んで終了することもあれば、10回読んでようやく終了することもありますが、それでも同じ。

「時給計算だけは、しちゃいけないよね」

フリー編集同士で、よく言い合う言葉です。
さらに、著作権も生じないので、売れてもたいして儲かりません。
#ただ、私の場合、重版以降は編集印税を少しでもつけてもらうようにお願いしてます。

こんなに割に合わない仕事はない、フリーでやるもんじゃない……そんな言葉もよく言い合っていますが、それでもやっぱり好きなんでしょうね^^;。やめられません。
ただ、最近はライティング(執筆)業の比率を上げています。ライティングのほうが、権利も明確なので、フリーの仕事としては、すっきりしていてストレスが少ないように思います。

ちょっと、恨み節になってしまいましたが^^;。

さてさて。

もう少し頑張ります。
それにしても、胃が痛い……。

(むとう)

累計58万部の大好評シリーズ、記念すべき第10巻発売。そして早くも重版決定!『本所おけら長屋(十)』/畠山健二著

編集のお手伝いをさせていただいている『本所おけら長屋』シリーズ、第10巻発売。いよいよ大台に突入しました~~!!
発売日は、昨日。バタバタしておりまして、ご紹介が遅くなってしましましたが…

なんと今日。

PHPの担当編集者・Aさんから、「発売日2日目にして、重版決まりましたよ~~!と、めちゃくちゃ嬉しいお知らせが~!

ぎゃ~~!!
素晴らしい初速~~~!!!

Amazonでのランキングもいい感じで、本シリーズの読者の皆さんの「待ってました!」という掛け声が聞こえてくるような気がします。

さて、そしてその記念すべき10巻目ですが。

今回も、めっちゃくちゃ面白いですよ~~!!
安心して、期待してください!

第10巻のテーマは「男の友情」。

いろんな形の「男の友情」が、笑いと涙に彩られて、また何ともいい調和を生み出しています。

第一話「さかいめ」
おけら長屋に新入りが登場。小さいながらもお店の若旦那のくせに、不良を気取る弥太郎。商いの基本を学ぶためにと、ぼて振り八百屋の金太の手伝いを始めますが、金太を騙して売り上げをくすね…

第二話「あかぎれ」
旗本屋敷に通い奉公するお福が、ある日助けた富山の薬売りの和助。年に二回会えるだけでいい、何の約束もしないで…というお福さん。なんともしっとりいい女です。これぞ、畠山先生流の「大人の恋愛」!

第三話「あおおに」
人付き合いの下手な青年・喜之助と、折り合いの悪い継母のいる家で、なんとなく居場所のない少年・長太郎。長太郎が病弱な弟のために動き出そうとするとき、年を越えて芽生える友情とは……

第四話「もりそば」
異常なほど恋愛体質な研ぎ屋の半次。お美代が自分に一目ぼれしたと思いこみ、自分も惚れてるから夫婦になろうと告白するため、万松にそそのかされて大食い大会に出場するが……

第五話「おくりび」
江戸っ子も憧れる「火消しの中の火消し」松五郎。いい男で、気風がよくて鯔背でまさに「完璧な江戸っ子」。しかし、実は、人には絶対に言えない秘密があって…

今回も、色とりどり揃いました!

人によって、またお好きな物語は違うだろうと思いますが、個人的には、第三話「あおおに」と、第5話「おくりび」が特に堪らなかったです。

「あおおに」はとにかく長太郎と、清一郎という兄弟が健気で……
二人は異母兄弟なのですが、とにかくお互いを思い合っているのです。
そして、人との付き合いができない喜之助にも、口やかましいけど弟思いのお兄さんがいます。この二組の兄弟がもう、なんともいいのです。

そして「おくりび」は、いやあ、もうこれこそ「おけら長屋」の真骨頂!
本当にこの人たちときたら、なんて優しいんだろう。
――ラストシーンでは、そんな思いで胸がいっぱいになって、目頭熱く…

そんなわけで、ぜひ皆様。
お手に取ってみてくださいね~!

(むとう)

 

②日本的解釈とネイティブ解釈、こんなにも違う!!?/『反骨のブッダ』高山龍智著(コスモ21刊)

翻訳すると、当然生じる違い

2500年前を生きたブッダの言葉を、弟子たちがまとめたのが初期仏典なわけですが、それらはサンスクリット語やパーリ語で表記されています。

日本でも、中村元先生のような偉大な仏教学者が初期仏典を翻訳してくださってますので、私たちも読むことができるわけですが、単純にそれらを読むだけでも、ブッダが言っていることで感じる印象と、なんとはなしに仏教に対して持っていた印象が違うことに気づきます。

私が読んだのは、本当にその一部にすぎませんけども(その限られた経験で物を言うのはどうかと思いますが)、ブッダは、ものすごく合理的で、謎めいたことを言わない人だったような感じがするんですよね。

確かに、翻訳ものを読むと、原本と大分印象が違う、なんてことはよくありますよね。翻訳した人の解釈や翻訳言語の特性、文化的個性が、どうしても出てしまうからでしょう。仏典は、サンスクリット語やパーリ語の仏典を、中国で漢字に翻訳したものが日本に到来しているものがほとんどですから、原典とだいぶ違くなってるだろうということは、想像に難くないわけです。

さて、本書で高山さんは、その感覚をもう一歩進めよう、とおっしゃいます。

時代は変わった。
サンスクリットやパーリ語もヒンディー語ととても似ているので、翻訳機を使えば解読だってできる。つまり、原典を直接読むことだって可能なんだよ、と。

「原始仏教ではなく、『言語』仏教へ」

「仏教経典を記述したパーリ語やサンスクリット語は、インドの公用語たるヒンディー語と流れを同じくする言語であり、インド人でも多少の学習は必要となるが、現代日本人が『枕草子』を理解するよりはずっと垣根が低いと言える」(P22より引用)

このくだりを読んで、思わずおおおお!?と声を上げてしまいました。
そのくらいの段差?!たいして遠くないですよ?!

日本語でも、古語にしかない言葉もありますが、今も昔も変わらぬ言葉もあります。あるいは、使い方や意味が、時代によって違う言葉もありますね。
わからない言葉もあるけど、なんとなくわかります。

例えば、「サンガ」という言葉。

ヒンディー語を母語としている人は、この言葉は「共同体」という意味の言葉なんだそうです。宗教的な言葉というよりも「団体」といった意味で今も使われるごくごく一般的な言葉。

ところが、古い時代に、漢字では音訳として「僧伽」とし、意味合いとしては「侶(パートナーの意味)」で補って「僧侶」と翻訳。これで、「共同体」という意味と音を表現したわけなんですが、日本ではそれがいつの間にか一人の出家者のことを指すようになっています。

この言葉ひとつとっても、だいぶ印象が違いますね。

最も基本的な言葉でさえ、そんな感じなわけですから、膨大な言葉で形成されている経典では推してしるべしです。

「仏教」とは一体何なのか

本書を拝読すると、ブッダが生きた時代やインドならではの文化的状況を背景に感じながらも、素直にその言葉の意味を知ることでもって、ハッとさせられます。

しかし、ブッダの死後、何百年もたってインドを遠く離れ、いろんな環境の中である意味「異常発達を遂げた」仏教の枝葉について、どう考えたらいいんだろう、と戸惑いを覚えずにはいられません。
長い歴史の中で、各地・各時代の偉人が格闘して得てきた果実が、もしブッダの言っていたことと異なることであっても、それはそれでやっぱり大切な宝物なのではないのかな、と思います。

私のポンコツ頭で考えてもよくわからないのですが……

そうして格闘し、のたうち回って真理に近づこうとするそのフロー自体が、最も大切なことなのかもしれないな、と思います。そんな種を、ブッダは世界中に蒔いたんだ、と。

本書の中で、高山さんがブッダが説いたことをこんな風に言っておられます。

「問題や悩みがあれば、自分で解決する人になればいい」
「人類同士が、隣の人との友愛によって、自ら救済されよ」

私はそれを自分ふうに言い換えて、胸に刻んでみました。

誰かに救ってもらうのではなく、自ら救うのです。
隣の人のために何かしようと思う気持ちが力になって、自分を救うのです。

……どうしたらいいのかわからない、と思いながら日々生きておりますが、
そんな言葉を土台に、日々を重ねていきたいと思います。

(むとう)